短剣と馬鹿な人
止めようとしたんだろう。
本当なら誰より早く動けるはずのその人は、自分を好きだと泣いた彼女の肩を掴むまでしか至らなかった。
青くて深い目をした人の顔が歪んだ。
「ねぇ」
震えている。
困ったな。
慰める方法が思いつかない。
「私がいなくなったら、あなたは幸せになるの?」
小鳥みたいなお姫様は、震えて私の顔を見た。
「じゃあ」
ああ、もう限界。
「幸せになって」
足から力が抜けた。
痛い、のかな。
分からない。
お姫様の手が、真っ赤だ。
ごめんね。
奇麗な手が台無し。
床は堅い。
倒れたら痛いのかな。
「……馬鹿なことを!」
舌打ちが聞こえた。
抱き止められたらしい。
ふわふわしたまま、私は床に崩れ落ちる。
お姫様を見上げたら、今にも悲鳴を上げそうだった。
「俊藍! その子の口を抑えて」
掠れた声だったけど、俊藍は私の声に従ってお姫様の口を片手で捕えて塞ぐ。
「……いい? 私は、自分で自分を刺した」
霞んでいく頭を必死に働かせて、自分の腹を探った。思っていたより深く刺さっている。短剣の柄を掴んだ。手が震える。だって、自分の呼吸が手に直に伝わってくる。
自分で自分の命を掴んでいる。
それが怖くなった。
でも、真っ赤になった私の手を白い手が触れて、短剣から指を外させる。
触るなってこと?
ああ、そういえば、こういう時、抜いたら血が出て失血死するって聞いたことがあるかも。
まだ、死にたくない。
そう、まだ。
「……俊藍」
困惑と、怒りの滲んだ蒼い目が私を捉えて怯えている。
大丈夫。あなたの前じゃ、死なない。
「その子のこと、ちゃんと見て、あげて」
「……ああ」
頷いて、もう喋るなと言う。
「ねぇ、お姫様」
まだ震えている。わなないている顔から可哀そうなほど血の気が引いていた。
「幸せになってね」
何か、言おうとしているのだろうか。
震えた目元から涙が零れた。
あー、最悪だ。
どうしてこんな昼ドラみたいなことになったんだろ。
私は姑じゃないっての。
馬鹿じゃないのか。
結局、私はこういう役回りなのかな。
いつだって、幸せだけが逃げていく。
「―――こら」
私を抱き止めている人が、私の体をすくいあげる。
「こういうときに、他の男の名前を呼ぶなんて」
どうかしていますよ、と低い声が揺れている。
見上げた顔は、紙より白いんじゃないかっていうほど蒼白だ。
ああ、そうか。
別に、こんな顔をさせたかったわけじゃない。
そのとおり。
私はただ、ざまーみろって言いたかっただけ。
ただ守りたいと思っただけ。
ただ、それだけ。
私は、ゆらゆらとする波に体を任せて、赤い目の目尻に手を伸ばす。
億劫だったけれど、私は必死だった。
「―――大丈夫。必ず」
真っ赤になった手に頬を寄せられた。
違うよ。ばーか。
私がしたいのは、もっと違うことだよ。
「必ず、あなたは助かります」
言って、何かしらの呪文を唱える。
でも、失敗した。
しょうがない人だ。
「―――雪」
ねぇ。
「雪」
ああ、早く。
早く言わないと。
「ごめんね」
波が止まった。
いつのまにか閉じかけていた目を開けて見上げたら、極悪非道の悪魔が息を呑んでいた。
本当に、しょうがない人。
「ごめんなさい」
この人には、わがまましか言わなかった。
「……謝るな!」
怒鳴って、また呪文を口にする。
ひどい人だ。
人の話を聞きもしない。
私は、もう、話せないのに。
神様。
今までなじってばかりでごめんなさい。
今だけ。
今だけ私の願いを聞いて。
この、馬鹿で、優しい人に伝えて。
あなたのお陰で、楽しかった。
告げようと思っていた言葉が出てこない。
だから、この人のそばに、あともう少しだけ。
ねぇ、聞いて。
もし。
もしも、私が死んだら。
悲しんでもいいし、誰かに八当たりしてもいい。
だから、どうか。
どうか、泣かないで。