尻尾と嫉妬
私は、どこにでもいる、ただの普通の人間だ。
ここに居る理由や過程が特殊なだけで、本当に平凡で。
会場に踏み出したら、振り返る人がいる。
それも大勢。
なんだなんだ。
この会場は馬鹿ばっかりか。
視界の端に、本日はシャム猫の尻尾みたいな毛皮のショールを腕に絡めた女ボスが見えた。おお、五体満足じゃないですか。良かったよ。隣に居るメルツ王子が目が零れおちそうになってる。大丈夫か。
堂々とした女ボスとも目が合って、彼女はちょっと目を丸くして、笑う。
うわー、何か企んでますって顔だ。
「ねぇ」
隣を歩く人の腕をつついたら、悪魔は目だけでにやりと笑う。
「彼女には、とっておきを用意しましたから」
うわぁ、凶悪。
何を仕込んだか知らないけど、成仏してくれガルニーアト様。
会場の人波を避けて通ろうと思っていたのに、自然と人が避けていく。この悪魔の隣はこんなにも歩きやすいのか。恐ろしい。
会場奥の緞帳まで近づいたら、侍従が中の人に私と悪魔の来訪を告げる。
許可が下りたのか、侍従がすぐに緞帳を人の通れるほど開けた。
「―――よく来た」
隣の悪魔にならってひざまずいたら、そんな声が降ってきた。
顔を上げると、いつもよりも飾りの多い詰襟服の黒髪美形と、水を丹精に織り込んだみたいなふわりと広がるチャリムを着た妖精みたいな奇麗な娘が同じ高さの椅子に座っていた。
少し薄暗いこの場所の、明る過ぎない明かり石に照らされて、二人はまるでおとぎ話の中の人たちみたいだった。
「ラウヘル・小雪・トーレアリングと、その妻、葉子が御前に侍りましてございます」
「ああ」
悪魔の口上を半分に、黒髪の人は私に目を向けた。
「―――元気そうだな」
いつかと、同じ調子で言う。でも、今日は、
「はい」
はっきりと答えた。
「……以前は、わたくし事で許しも待たず辞してしまい、大変失礼いたしました」
黙礼した私に溜息が聞こえる。
「―――いいんだ」
ゆっくりと、顔を上げると黒髪の人は困ったように微笑んでいた。
「私が、悪かった」
別れの言葉のようだった。
困ったような、それでいて泣きそうな微笑みは奇麗で、ほっとする。
やっぱりこの人は私の半身だと思った。
「ヨウコさん」
鈴を揺らすような声で、その隣の奥さまがゆったりと微笑んだ。
「今度、ゆっくりお話してください」
今度は私が困った。
首を横に振る。
「ありがたいお話ですが」
この子は無理だ。
この子は、私なんかに嫉妬している。
無理して笑っているのが手に取るように分かった。
美少女が悲しそうな顔になるのはいただけないけど、ここは妥協できない。
「あなたと、陛下に会うのはこれっきりです」
いつか。
彼女が幸せになれば、私のことなんか忘れているだろう。
「あなたは、私をお忘れ下さい」
彼女の人生に私は要らない。
どうか、
「ヨウコさん」
お妃さまが、ゆっくりと立った。
微笑んだまま、ゆっくりと私と悪魔の前までやってきて、
「あなたは、どうして私の邪魔をするの」
悲鳴だった。
同時に、彼女の前に魔術の紋様が空中に浮かぶ。
私は、立ち上がる。
咄嗟にやってしまったのは、やっぱり悪魔の前に出てしまうことだった。
そして、悲痛に歪んだお妃さまの前に立つ。
ゴォッ!
何もないところから風が巻き起こったと思ったら、青白い魔術の紋様の中から光の矢が何本も出てくる。
私には、効かない。
それが、申し訳なくなった。
でも、
「私の妻に、悪戯はおやめください」
私の脇をすり抜けるように、腕が出てきて魔法陣に触れる。
白い指先が矢をなぞったら、まるで嘘みたいに光の矢は形を崩して、消えた。
矢が消えていく風圧に押されて後ろに下がろうとしたら、硬い胸が背中にぶつかる。
こいつ、何を考えてる!
舌打ちしたい気分になった。
女のケンカに男が出てくるなんて!
「どうして、あなたなの」
幼いお妃さまは泣きそうな顔で言う。
「どうしてあなたは愛されるの」
愛されてなんか、ない。
人がちやほやする時は、何か裏がある時だ。
お姫様は、ずっとちやほやされることが仕事だから、知らないのだろうか。
「あなたは陛下を裏切ったのに。どうして、今も愛されているの」
「―――その人は、私が自分に都合がいいって知ってるだけ」
立ち上がりかけている俊藍を睨む。
「この人が好きなら、好きって言えばいいんだよ」
「……愛しても、愛されないと分かっていても?」
小さな声が、彼女の痛みを訴える。
なんて男だ。この美少女の何がご不満なんだよ。
「だったら、やめちゃえ」
お姫様の目が、これ以上ないほど丸くなった。
「何もそんな人、旦那さまにする必要ないよ。三行半でも何でも押し付けて別れちゃえ」
美少女のありがたみも分からん輩に美少女がすがる必要はない。ていうか、天罰を受けろ。
「陛下を、俊藍を悪く言わないで……っ!」
それでも、彼女は、
「―――裏切られても好きなら、仕方ないと思うよ」
必死にすがろうとする。
そんな情熱を、私は持っていなかった。
私は、俊藍を恨んだのだ。
自分の身の安全のために。だから、彼女とは違う。
「……好きになってくれないと、知っていても?」
桜色の唇がぽつりと言う。
結末の想像が出来たとしても、
「それでもあなたがあの人を好きでいてくれることは、私は嬉しいと思う」
あの岩場で、自分は孤独だと泣いた人のそばに居てくれる人が一人でも多ければ、私は嬉しいと思う。
「……あなたは、本当に美しい人なのね」
私よりも遥かに美しいはずのお姫様が泣きそうになりながら、微笑んだ。
「私はあなたにはなれない」
だから、とうっすら微笑んだ彼女の手の先に、あってはならない物が見えた。
「あなたも、愛した人を失う苦しみを味わうといい」
小さな短剣だった。
それを見たのは、黒い衣装が私と彼女の間に入り込んできた時。
また、あんな思いをするのか。
泣き叫んで、起きろなんて叫びたくない。
押しのけられた私は、黒い袖を掴んで引っ張った。
どうしてなのか、その人は私の方を見てしまった。
ざまーみろ。
私は、そのまま目の前の人をすり抜けて、自分の憎悪に歪んだまま泣く彼女に抱きついた。