腕と足
キッチンから出たら、空気は悪かった。
社長は詰襟の派手な式典服のまま仕事してるし、脇のソファで我が物顔の赤目はさっき私といざこざ起こした問題のパイプをくわえて煙草を吹かしている。
窓は開いているから社長が開けたんだろうか。嫌だったら嫌って言ってやれ。
「―――まったく」
呆れた奴だ。
私は執務机の社長の前まで行って珍しく謝らなくてはならなかった。
「すみません。ご迷惑かけて」
やっぱり珍しかったらしく、社長は口をあんぐり開けてこちらを見てくる。そんなに茫然としなくていいんじゃないのか。
「北城さんは、夜会に行かないんですか?」
「あ、ああ……」
社長は取り繕うみたいに咳払いして、自分を笑うみたいに苦笑する。
「本当は行かないつもりだったけど、面白そうだから行こうかな」
珍しく素直に返事をして、社長は手にしていたペンを置いて式服を整えて席を立つ。
「面白そう?」
「そうだよ」
今度は私が疑問符を浮かべた。面白いことなんか一つもないと思うんだけど。
そんな私に、社長は意地悪そうな顔で笑う。
「君には絶対分からない」
「何ですか。それ」
これ以上のヒントはくれないらしくて、社長は机の脇に放り出してあったマントを手にとって身につける。
まぁ、いいや。食事はできないけど、クリスさんみたいなご婦人がたのキラキラを楽しもう。
「会場に行くなら一緒に行きます?」
牛車に乗ってきたんですよ、と教えてやると社長は怪訝な顔になった。この部屋からほとんど出ないお姫様だからな。ビークルのことは知らないらしい。
だったら、四人ぐらいは乗れるだろうから一緒に行けばいい。
私の申し出を聞いて頷きかけた社長は、そっと視線を外す。
あー、あれか。
ソファでのたくってるそれはこちらを見ようともしない。
「北城さんを一緒に連れてってもいいですよね?」
ちらり、とこちらを見た気がしたけど、やっぱり不機嫌に視線は逸らされた。
「ご自由に」
反対したって無駄だというようだ。そのとおり。今日ばかりはあんたの言うことは絶対に聞かないからな!
「じゃ、行きますか」
ふんっと鼻を鳴らしたら、社長はしょうがないとでも言いそうな顔で頷いた。
牛車は四人で乗っても余裕で、さすがに足は伸ばせないけど天井も高いから少々立っても平気だ。
さすがに私との問題があったからか、隣にどかりと座った人は煙草をやめたけれどやっぱり不機嫌だった。無視だ無視。こいつは空気だと思おう。
「それにしても、今日は驚いたな」
珍しく空気を読んだらしい社長は、場の重苦しい空気を変えるためか努めて明るい声で言う。無理すんな。
「誰かと思った」
「そのセリフ聞き飽きました」
私の仏頂面に「そう?」と言って、社長は笑う。
「奇麗だよ」
さらりと言われて、何を言われたのか分からなくなった。何ですか。美味しいですかそれ。
「奇麗になった? いや違うか」
「一人で納得しないでください。意味がわからないです」
「こんなに奇麗だったんだな。君」
ますます意味が分かりません。
「普段から、そうしていればいいのに」
この、二時間は余裕でかかる特殊メイクを毎日!?
「女性の準備は普通、それぐらいかかるだろう」
いつもこの城に来る時の私の準備の所要時間は、十分程度です。
「君は女性としての自覚が無さすぎる」
ごもっとも。ご高説もっとも。だが、聞かん! 二時間もあったら睡眠時間に当てる。
「そのままの君なら、王様だってたぶらかすことができるよ」
王様なんていらないです。もうこりごりだ。
ほどなく牛車は止まった。
会場についたんだろう。クリスさんが先に降りたので、社長に続いて降りようとしたら、誰かに腕を引っ張られる。誰かって? 決まってる。
「……着きましたよ」
白い手が、私の腕をつかんで離さない。
座ったままで動かないから、仕方なく私も隣の席に戻った。いくら立てるとはいえ、屈んでるんだよ。ヒールで。ただでさえ疲れるんだからな!
まったく、今日はひどい日だ。
でも。
最近じゃ、私の日常はこの繰り返しだ。
社長に悪態ついて、クリスさんと女子トークして、たまに有害銀髪を馬鹿にしに行って、お墓の先生に会いに行って、墓守りローゼさんとおしゃべりして、ベンデルさんに呆れられて、フェンと喋りながら掃除して、ゲミュゼさんに野菜談義を繰り広げて、ミセス・アンドロイドに悪戯が見つかって怒られて。
それから。
この、今は隣でむくれているこの人にからかわれて、ケンカして。
なんだ、いつも通りじゃないか。
いつもは、ケンカをしたら絶対こいつが先に折れる。でも、今日だけ。
今日だけは、私の方が大人にならなくちゃならないらしい。
腹立たしいけど。
「行きましょう」
掴まれている腕とは反対の手を差し出した。
「とっとと陛下にご挨拶して、私は先に帰りますから」
「……それで、私の機嫌を取っているつもりですか?」
あんたのご機嫌をどうして私が取らなくちゃならないんだ。
「私はここで食事もできないし、じっとしていても暇です」
「だから!」
腕をとっていた白い手が、私の両手を掴む。
「―――今日は、私のそばに居てください」
大の男にすがられているみたいだ。
何だか呆れてしまった。
「いつもそばに居るじゃないですか」
食事も一緒、寝るときも一緒。子供みたいだ。
「好きなだけお酒を飲んでいて構いませんから」
「だから、私はここでは飲めないんですって」
「私が先に口をつけて毒味します」
「だーかーらー、私は酒飲みじゃないって!」
「酒飲みでも、食いしんぼうでも、何でもいいです」
悪魔が笑う。
それは、零れおちるように優しい、
「今日は、私のそばで笑っていてください」
馬鹿みたいに。
「そういうことを付け足すから私が怒るって分かってるでしょう!」
「怒ったあなたも好きですよ」
「私はあんたのそーいうところが大嫌いだ!」
くすくすと笑われる。嫌いって言われて笑うとか分からない。頭は大丈夫ですか。
「行きましょうか」
手を取られて、牛車を降りる。初めて目にする宴会場は、扉の背も高い。中に何が待っているのか想像するだけで、何だか嫌になった。あれだ、隣で私の手を取るこの悪魔の縮小版みたいなのがたくさん居るんだ。最悪。
観音開きの戸の前で控えていた侍従が私たちを見止めて、ゆっくりとドアを開く。
明るい灯りに満ちた会場は、外から覗いてもきらびやかだ。思いっきりお洒落をした花のような女性たち、その女性たちを囲む正装姿の男たち、幾つものシャンデリアを吊った会場の奥に、少しだけ開けられた緞帳が見える。端だけくくられたその奥には、あの人たちが居ることは分かった。クリスさんと社長はもう先に入ってしまったらしい。
あー、憂鬱。
帰っていいですか。
そう言おうと思った。でも、
「―――今日は、すみませんでした」
隣の人がぼそりと言った。
「奇麗ですよ」
本日何度目かのセリフ。
「奇麗で、そのままどこかに行ってしまいそうだったのです」
しっかりと、逃がすまいとするように手がすっぽりと白い手に包みこまれる。
「想像したら、腹が立ちました」
あんたが想像したってだけで、私は今日の一日の大半を不愉快に過ごしたってことですか。
馬鹿だ。この人。
「―――どうやったら、私がここから煙みたいに消えるっていうんですか」
言ってみたら笑える。
「そんなことが出来るなら、とっくの昔にここから消えてます」
そして家でコーヒー飲んでる。
笑ってやったら、隣の人も思わず、といったように笑った。
「そうでしたね」
「今更思い出したんですか?」
「ええ」
そう言って、私の手を自分の腕に掛けさせる。どうあってもこの体勢にしたいらしい。
仕方ない。付きあってやるか。
今日だけ。
「あなたが、奇跡のような人だということを、失念していました」
あんまり嬉しそうに言うから、怒る気にもなれなかった。
「ばーか」
本当に、馬鹿な人だ。