ショールとバッグ
特殊メイクを終えて、私が階下に降りたらベンデルさんに会った。
彼はしばらく目を丸くして何も言わないで、結局何も言わずに立ち去ってしまった。
何か言ってくれ。失礼な。
これでもミセスのお墨付きをもらったんだぞ。
でもまぁ、仕方ないか。素地が平凡だから悪女チャリムに負けてるのは認めます。
私は慣れないヒールをこつこつやりながら、滅多に入らないシガールームのドアをそっと開けた。煙たい。
やっぱりな。ここだと思ったんだよ。
そのまま開けて、腰に手を当てる。
「そろそろ時間ですよ」
寝椅子でだらしなく腰かけて煙草を吹かしていた人の肩が少し揺れた気がした。そうしてゆっくりこちらを振り返って、眼鏡の奥の目が丸くなる。そんなに驚くこっちゃないと思うんですが。
「お待たせしました」
上手く笑えないと思ったので不機嫌なまま言ってやる。
「―――本当に、葉子なのですか?」
「……自分の奥さんの見分けもつかない旦那は要らないんですが」
冷ややかに言うと、黒チャリムの長身がのっそりと立ちあがってこちらにやってくる。
火の入ったパイプを持ったまま。
「煙草! 消してから!」
ここ、煙たいんだよ! やっぱり来るんじゃなかった。
早く出てしまおうと踵を返したら、タッと音がして驚く。
いつの間にか腕を掴まれて、振り向かされる。
さっきのことがあったから、二の腕を掴まれた拍子にせっかく羽織ったショールを落としそうになった。落としたらミセスに怒られるだろうが!
噛みついてやらんばかりに睨み上げたら、悪魔が紅い目を細めていた。
「放してください」
今度は叫ばずに言うと、長い指は私の腕を放した。
「―――葉子」
「何ですか?」
「今日だけは、あなたが毒婦に見えます」
溜息交じりに言われました。
言うに事欠いて。
毒婦とか言っちゃうかフツー!
「しょーがないじゃないですか! あんたが選んだ色なんでしょーがこの色は! だいたい何で赤なんですかしかもこの鮮やかなワインレッド! 初め見た時、血の色かと思いましたよ!」
「それにしても、化粧も濃すぎではないですか? 首の大振りの宝石もそうですが、けばけばしく見えますよ」
「これでもミセスのお墨付きもらったんですよ! 文句はマダムとご自分にどうぞ!」
「袖がない衣装も考えものですね。腕が出ていて寒そうです」
「だったら、アンタの袖を寄越せ!」
怒鳴りながらシガールーム出たら、知った顔ぶれが興味津津といった顔でこちらを眺めていた。
「わぁ、奥様お綺麗です!」
そう言ったのはフェンだけ。
ゲミュゼさんは「ほー」と青ざめた顔で言うだけだし、ベンデルさんはじーっとこっちを見るだけだ。
「……何ですか。みんなして!」
今日一日の人の苦労を知りもしないで! いや知ってるはずだろ! せめて何か社交辞令を言ってくれ。
ほら見ろと言わんばかりの顔で見てくる特にアンタな! この悪魔め。どうしてこういうときだけお得意の社交辞令をバラ撒かないんだ!
ショールで首でも締めてやろうかと思って睨んでいたら、横合いから静かな制止がかかる。
「竜車の用意ができました」
そろそろご出発ください、とミセスが呆れかえった顔で淡々と言った。
あーあ、出鼻くじかれた気分だ。
私は慣れないヒールでのんびり黒チャリムの旦那さまのあとを追いながら、どうやってパーティをサボるかしか考えていなかった。だってやる気はもう空で、気分はもう店じまいしたい気分。
今日が暇ならコーヒーを飲もうと思っていた。
乾燥がうまい具合にできそうなのだ。
だから試しに豆を挽いてみて、こちらの世界発のコーヒーを楽しもうと。
今からでも遅くないかな。
やっぱり行くの止めますって言えば、今なら玄関ホールだし悪魔も納得しそうじゃないか?
ミセスが開けてくれたドアをくぐって、ベンデルさんが乗りこんだ竜車の戸を赤銅色の悪魔が開けたところで言おうと口を開けた。
でも、乱暴に腕を掴まれた。
やめろ! カバン落とすだろう! パーティ用のいわゆるお洒落バックを持ってるんで、あいにく片手が不自由だ。あ、これで殴ってもいいかな?
しかし、抵抗する間もなく竜車の座席に引っ張り込まれて、座らされた時には戸はバタン。窓の外でミセスとフェンがお見送り。あー!
いくら私でも走りだした竜車から飛び降りる真似はできません。ちくしょー。
苛立ち紛れに旦那さまを睨んだら、奴は何故か座席のはす向かいに居た。
いつもは正面でにこにこしているのに、今日は窓を開けてパイプにさっさと火を入れている。吸い過ぎなんだよ。
「―――何か、悪いものでも食べたんですか?」
今日は変だ。
「ええ」
呟くように笑いもしないで返してくる。ボケたらツッコむかボケろ! 皮肉にまともに返事されたら、黙るしかない。
「そんなに嫌なら私だけ帰してください」
「駄目です」
返答は早くてはっきりとしていた。でもパイプを咥えたままこちらには顔も向けない。
何考えてるんだ、こいつ。
傷をつけたら怒られそうなヒールを、脱いだ。
ぽいっと座席の間に捨てたらカツンと甲高い音がした。それにあいつが反応してこちらを見たから、
ガン!
あいつが座っている座席を蹴ってやった。
正面だからね!
「乗り気でもない相手捕まえて無理矢理連れていこうとしているのに、あんたは訳も分からない不機嫌で胸糞悪いんですよ。何様ですか」
あいつは、というと愛用のパイプを取り落としそうになっていた。
「すみませんねぇ。私はお貴族さまの奥さまの振る舞いなんか知りませんから」
普通の女性も旦那の座ってる椅子を蹴ったりなんかしないでしょうが。でもこいつは腹が立つから知るか。
赤い目が座席に乗せたままの私の右足を見て、顔を見て、項垂れた。
そして、長い、そのうち魂まで出てくるんじゃないかっていうほどの長い溜息をついた。
「……今日ほど、あなたをどこかに閉じ込めておきたいと思った日はありません」
「はあ?」
もう一度、座席を蹴りそうになった。今度は座ってる人の方を蹴りそうだ。
「あんたが強情張って連れていくって聞かないから、ミセスもマダム、私も渋々協力したんでしょうが! それを何を拗ねて…っ!」
「……世界旅行になんか行きたくなくなってきました」
昨日までニコニコしてたくせに、今日は何だっていうんだ!
「いいわよ! 私一人で行きますから!」
どうせ今までだって一人で旅してきたんだ。別に一人旅に抵抗はない。
私の啖呵が気に入らないのか、はす向かいの悪魔は冷ややかにこちらを眺めてくる。
「あなたが? 一人で?」
「今までだって一人で旅してたんだから、あんたには関係ない!」
「あなたがたった一人で、何ができるというのですか」
呆れるように笑われた。冷笑ってやつだ。
いつもなら、ただ単に怒るだけで済むその顔が、今だけは許せなかった。
図星だ。
一人じゃ何もできない。
それに、本当は私は、この人に偉そうなことを言える立場じゃない。
元の世界に帰れるかもしれないとはいえ、死ぬのは怖い。
それを引き受けてくれるという人だ。
だから、本当は、何も言えないのに。
スピードに乗った竜車から飛び降りるわけにもいかず、私もあいつも黙り込んだまま城についた。
竜車をいつもの車止めに止めて、戸を開けたベンデルさんは珍しく驚いたような顔をした。それでも何も言わずにタラップを用意して、道を開ける。
もう癖なのか、悪魔が先に降りた。続いて私が座席を立つと、ぬっと手が差し出される。
この白い手が誰のものなのかも慣れてしまった。
取るか取るまいか迷っていたら、
「―――今だけ」
今日は、何て日だろう。
歯切れの悪い声が、むくれた子供のようだった。
「今だけ、私のそばに」
私は、思わず溜息をついた。あーあ、幸せが逃げる。
この手を取ったところで、逃げた私の幸せはきっと帰ってこないんだろう。
白い手に自分の手を重ねたら、そっと包まれる。
今だけ。
そう、今だけだ。
タラップをゆっくり降りようとしたら、止められた。
「靴をお忘れですよ」
やけに歩き易いと思った。
「靴を」と言った悪魔が、この日初めてじゃなかろうかという苦笑を漏らした。
竜車の座席に戻って履こうとしたのに、靴を取られて、赤銅色の三つ編みが私の足元に屈んだ。
「……恥ずかしいんですが」
屈んだ人の手に足を掴まれたと思ったら、靴をつま先に突っ込まれた。拒む手を意外としっかりした肩にかけさせられて、丁寧にかかとにヒールを合わせて、細い二本のバックルを留められる。右足が終わったら、もう一方、と無言で催促されて、仕方なく差し出す。何だこの図は。
竜車の車高は高い。どれくらいかっていうと、私の腰くらいある。だから、階段二、三段高いところから足を差し出して靴履かせてるという図。
まるで、
「はい。出来ましたよ。女王さま」
言うな!
鞭でも欲しいのかこの変態!
「……この変態悪魔」
「何とでも」
平気な顔でいうこいつがこれ以上なく嫌いになった。