化粧台とクッション
「―――いったい、何をなさっているのです」
呆れ顔のミセスに、私はさっきまでクッションやら毛布を投げつけていた人を指さした。人を指さしちゃいけないけど、あいつはいいんだよ。悪魔だから。
「着替えようとしてるのに、あの人が出ていかないんですよ!」
今日は朝から大変だった。
ミセスに叩き起こされたと思ったら、(すでに旦那さまは起きて私が起きるのをお待ちでした) 朝御飯を寝室で手早く取らされてから、朝から風呂だの女の裏側の処理もろもろ (女は大変なのです。察していただきたい) をされ、すっかり磨き終えられたのはそろそろおやつの時間になろうかという頃。昼御飯といっしょくたのおやつ (本日は飲茶みたいなメニューでした) を食べてから「さぁ、お召しかえを」って言われたのがつい三十分ぐらい前。
「へーい」と生返事して寝室と続きの衣裳部屋に引っ込んで、ミセスが用意してくれていたマダムの衣装を初めて目の当たりにした。
どうして、ワインレッドなんだ。
白は嫌だが、他にも何かあっただろう。濃紺のやつとか。
こんなチャリム着たら、どう取り繕っても悪女じゃないか。
どんな化粧をされろと。
眩暈を起こしそうになりながら渋々着替えたのが十五分ぐらい前。
華奢過ぎて折れるんじゃないかというほど繊細なミュールみたいなピンヒールを履いて、ミセスが待っているはずの化粧台がある寝室に戻ったら、
「―――どうしてここに居るんですか」
もうお衣装に着替えたらしい旦那さまが窓際で寛いでいた。
今日のこいつは渋い黒の衣装だ。正面にボタンの並んだ裾の長いチャリムで、上から下のズボンまで黒。でもそのチャリムもいつものゆったりサイズじゃなくて、意外と体格の良さがわかるぴったりサイズだ。だから体の稜線がいつもよりはっきりしていて、何だか目のやり場に困った。一言で言うと、何だかエロい。いつもの三つ編みで優雅に椅子で寛いでいるだけなのに、長い足とか、予想外に広い肩幅とか。見てるこっちが恥ずかしくなる。
「男の私の用意なんて、着替えるだけですからね」
暇になったので様子を見に来ました。
そうしゃあしゃあと言う悪魔は、そこだけ広がって長い袖口から白い指だけ出して手に持っていた本のページをめくる。
「ここで寛がないでくださいよ!」
「私たちの寝室でしょう。私もここに居る権利があると思いますが」
「今は私の準備が忙しいんですよ!」
「夫である私には見せられないと?」
「女の化粧の下に興味があるとは思いませんでした」
こちとら、これから二時間はかかる特殊メイクなんだよ!
「化粧なんてしなくても、いつものあなたで十分ですよ」
言外にいつもほぼノーメイクであることを指摘されて「うっ」とくる。すみませんね! 女サボってて!
「それにしても」
赤い目がこちらをじっと見てくるので、ちょっとたじろぐ。何だ、そんな真剣に。
「奇麗な足ですね」
……そうなんです。本日のパーティでは、パンツスタイルは許されなかったのです。だから悪夢の紐パン再び!
しかし、泣きそうな私を尻目に悪魔の視線は私に向いたまま。
「……見ないでもらえますか。足」
隠しようもないけど、とりあえずスリットから足を出さないようにしてみる。見る価値もない足だけどまじまじ見られるのは耐えられないんですが!
悪魔は、ふぅと溜息をついた。
「―――もう少し切れこみが深かったら、下着が見えますね」
残念で申し訳なかったな!
私は枕を掴んで、投げた。
そのあとは、ミセスが入ってくるまでとりあえず手当たり次第、物を投げるという事態になった。
だってね、あいつ幾ら投げてもひとっつも当たろうともしないんだよ!
意地になるってものです。
テーブルをさっとひっくり返したと思ったらそれを盾にして避けるわ、当たりそうになったら魔術で払いのこけるわ。跳ね返そうと思えば跳ね返せるくせに、こっちには何も跳ね返してこない。その代わりに、こちらに送る視線は外さない。
不気味なのだ。
普段は雄弁って文字をつけて歩いてるほど喋るくせに、今に限って何も言わないから。
ミセスに睨まれて私はようやく振り上げたクッションを下ろした。くそ。結局一つも当たらなかった。
風呂に入って来るよう怒られて、渋々寝室に付いている風呂場に向かう私の背をやっぱり見ている視線がある。
「もう、何ですか!」
私に怒鳴られても悪魔は黙って平然とテーブルを元に戻して、自分の服を軽くはたいて整える。
何も言わないから、私は頭に血ののぼったまま怒鳴りつけた。
「人前に出すのが恥ずかしい奥さまですみませんでしたね! 次は好みの愛人見つけてください!」
けっ。溜息つくほど情けないなら、他の女見繕えば良かったんだよ。意外と世間体気にするタチなのか? どのみち今からじゃ女を探すのは無理だ。あ、でも連れていくならフェンもいいのか。彼女には悪いけど今からあいつの神がかり的な手段でどうにかならないか。
我ながら妙案だと振り返りかけて、固まった。
近い。
何がって、
「……近いんですけど」
何だかエロいと思った黒い衣装が目の前に見える。
その衣装を着た人が、私の肩を掴んだ。
女の子らしくないと思っていた自分の肩が、広い手に包まれて震える。
「ちょっ…やめ…っ!」
血がのぼっていた余韻で火照っていた体が冷えていく。冷や汗が浮いた首元に、あろうことか、赤銅色の頭が落ちてくる。引き寄せられて、
「やだ!」
もっと色気のない声を上げると思っていたのに、私の口から出たのは情けない悲鳴だった。情けなくて泣きたくなる。
そんな私の首元に、顔を近づけた人は思い切り首元で空気を吸いこんだと思ったら、細く息を吐く。生温かい吐息が首筋にかかって、私はますます身を引いた。でも、手が肩を掴んで離さない。
首に、温かい湿った何かが近付く。
ほとんど反射で目を閉じた。
でも、それはいつまで経っても降ってこなかった。
代わりに、長い長い溜息が落ちてくる。
肩からそっと手がのけられて、目を開けると不機嫌な悪魔の顔があった。
下がっていたはずの沸点が急上昇した。
機嫌が悪くなっていいのは、私であって、
「出ていけーっ!!!」
振り上げた拳は避けられることなく、白い頬にヒットした。
殴りつけたあと、私は手をひらひらさせながら風呂に入った。出てきたらもう不愉快なあいつは居なくて、待ち構えていたミセスに化粧台の前へと座らされた。
今では肩につくほど伸びた髪を、ミセスは丁寧に梳いてくれる。
彼女は、厳しい言葉や態度だけど、こういう仕事は優しくて丁寧だ。
整えられているうちに気分はようやく静まっていった。
「―――旦那さまには、御退出願いました」
訊いてもいないのに答えられて、私はまた眉根を寄せた。
今日は変だ。あいつ。
……いや、何だか昨日から変だったな。
普段だったら、私の手に触る時はいつだって歯の浮くような軽口を叩く。
昨日は結局、ほとんど軽口を叩かなかった。うすら寒いお世辞のバリエーションだけは豊かなので、今では悪態つきながら半ば感心しながら聞いていたのに。
今日だってそう。
いつもだったら、奇麗ですねの美辞麗句が何倍も連なるのに。
「……奥様は、旦那さまを誤解しておられるのですよ」
特殊メイクの下地を塗られながら、私は努めて表情筋を動かさないようにした。
あいつのことを誤解? 結構じゃないか。
私は、あの人のことを知りたいとは思わない。
知ってしまったら、私はあの人に、ひどいことを頼めなくなる。
「わたくしは、あの方ほど不器用な方を知りません」
いつか同じようなことを言った人が居た。
もう今は、ここにはいない人が。
ごめんなさい。
私は、あの人のことを何も知らない。
知らないのに。
「奥様、旦那さまをよろしくお願いいたします」
そうやって、微笑まないでほしい。
私では無理だ。
私はもう、あの人を傷つけた。
元の世界へ帰りたいとあの人に願って、あの人に私を殺すことを課してしまった。
何も知らないで、誰かのそしりを受けることをあの人に押し付けた。
私があの人の手にかかって死んだら、きっと誰かがあの人を責めるだろう。
誰かが死んだら、誰かが絶対後悔する。
その非難の矛先を、あの人は受けると言ってくれたのだ。
だから、私は下を向いてはいけない。
せめて、あの人を大切に思う人たちには、何も知らない笑顔のままでいられるように。