女神と聖女
命を絶てば、元の世界に帰れると言われて、窓の外をじっと見てみたりするけれど、やっぱり私に自殺願望は毛ほどもないらしく、図太い生存本能に抗うすべはなかった。
マダムの用意してくれたチャリムが届いたのは、夜会の前日でした。
しまった。
ぼんやりし過ぎてた!
逃げる算段を整えようとサリーの様子を見に行った時にはすでに時遅し。
「サリーの様子はどうですか」
悪魔に首根っこを掴まれておりました。
明らかにこのまま何所かへ行こうしている私の姿を咎めもせず、いつのまにか厩舎に現われた悪魔は、優雅に私の指を手に取る。
サリーもちょっと怯え気味だ。こいつ、目が笑ってない。
「……お仕事だったんじゃないんですか?」
今日は朝から城へ出かけたはずだ。だから私も今日はだらだらします宣言をミセスにして、こうしてサリーの鞍と鐙を整えに来たわけで。
「ええ。ですが明日は夜会ですからね」
用意のために早く帰ってきました、というにっこり顔を殴りつけたくなりました。三時のおやつもまだだよ。……殴っていいかな。
ちくしょう。今日の夕方、晩御飯前の慌ただしさに乗じて姿をくらまそうと思ってたのに!
「雪!」
名前を呼んだら、悪魔は「おや」という顔になったのでそのまま矢継ぎ早に続ける。
「私は一般庶民生まれでダンスも出来なきゃ礼儀も知らない小娘ですし不可抗力でお貴族さまの奥さまに収まりましたけど今までそういう教育も受けてなきゃここに来てからも一度そういうお勉強なんかしてないですから、あなたのお伴は無理です!」
この悪魔屋敷に嫁いだはいいけど、この悪魔は私に奥様教育なんてものを一切行わなかった。やったのは四か国語のお勉強だけ。あとは全部私の掃除に付き合ったり買い物に付き合ったりしていただけだ。それって、
「あなたも、私を人前に出そうなんて思っていなかったんでしょう?」
貴族の奥さんとしての役割を、私に望んでないってことだ。
私も、そんな役なんか御免こうむるけど、本当ならやらなきゃならないことのほとんどをこの人は私に課さなかった。
ふっと、指が私の頬を横切った。
横目で追ったら長い指が私の髪の一筋をつまんで、指を滑らせる。
まるで感触を楽しむような動作に驚いたのか、私は声を出せなくなった。
私の長くはない髪の一筋は、すぐに毛先まで届いて長い指から落ちる。
その軌跡を反射的に追って、視線を落とした私の頬を今度は手の平が捕える。
騙し討ちみたいなその手の平が冷たくて、私は少しだけ身を固くする。
そんな私を、手の主は吐息だけで笑った。
「―――確かに、あなたを連れていく気はありませんでした」
ほら、やっぱり。
「あなたは、こうやって自由にしている時が一番美しいのですから」
もちろん、と冷たい手の平が頬を滑って、離れた。
「着飾ったあなたも美しいですけれどね」
こちらを見つめる赤い目が穏やかに微笑んでいる。
それが、とても優しくて。
「今日のおやつは、あなたの好きなタランジュイだそうですよ」
タランジュイとは、いい香りのする木の実を一度スライスして再び素揚げにするというちょっと手間のかかるおやつだ。
そして、晩御飯のおかずはやっぱり私の好きな鳥をパリパリに焼いた香草焼き。
「食べ物でつられるトシじゃないんですけど!」
お年頃の乙女を何だと思っている!
笑いながら厩舎を去っていく悪魔に私は思いつく限りの罵詈雑言を投げ続けた。
しかし人間の三大欲求の一つである食は人の足を鈍らせるのには充分だったようで。
「では、明日はいつもより早めに起こしに上がります」
ベッドメイクを整えてくれたミセス・アンドロイドがそんなことを告げていつもと変わらない挨拶をして寝室を去っていった。
……ええ、ええ! 結局残っておりますよ!
断じて! 断じてご飯やおやつに釣られたわけでは!
……大変おいしゅうございました。
そしてコックのゲミュゼさんが狙い澄ましたかのように、この前買ってきた鰹節深海魚で美味しい場所を発見したとか言いだしたんで、夜会が終わったら研究することになりました。
寝室にお酒を持ちこむ私に、ミセスは今日は何も言わなかった。なぜだ。チーズによく似たのおつまみまでくれたよ!
私には餌やっとけば逃げないとか思われていますか。そうではないんですよ! 美味しいものは美味しいうちに食べるのが人間の使命なんです天命なんです。
「私にも少しいただけませんか」
窓際に置いたテーブルに、珍しく私と同じような着流し姿の悪魔がやってきた。いつもなら煙草一服吹かしてハイおやすみーの人なのだ。ホントに。明かりがあると眠れないから一緒に寝ろと強制されるので、寝顔は見たことありませんがね。
私は旦那さまが差し出してきた小さなお猪口に私の好きなピンクの酒を注いでやる。そういやこいつ、寝酒しないな。度数も高いみたいだし大丈夫かと思って口をつけるのを見ていたら、ほとんど一気に飲み干してしまう。ですよねー。顔にも出ないですねー。
仕方ないのでもう一杯注いでやった。
「本当にお酒が好きな奥様ですね」
「だから、そうやって人を酒飲みみたいに言うのやめてください」
面白がるように言うから、私は不機嫌になる。
別に酔いたいわけでもないから、こうやってちびちびやってるのが好きだ。ボトルを何本も空けるなんてことは、たまにしかやらない。
そういえば、と向かいに腰かけた悪魔を見遣る。
いつもは寝るときも三つ編みを解いたりしないのに、今日は珍しく解いている。腰まで届かんばかりの赤銅色の髪がぼんやりとした明かりに照らされて、とろりとした琥珀色に透けている。肩から椅子にかかる髪はすんなりとしていて、うっかり触れば溶けてしまいそうに見えた。
奇麗な人だな、と思った。
今でも、この悪魔の隣に自分が居ることが信じられない。
何度も自分に問いかけて、答えられない自問を繰り返す。
「―――どうして私、ここに居るんだろ」
本当なら、ここには居なかったはずの私。
安アパートの畳の上で、安酒飲んで仕事に行っていたはずの私だ。
あの頃の私に、想像できただろうか。
こんな貴族のお屋敷で、生活全部が詰まったアパートの部屋より遥かに広い寝室でエグゼクティブな生活を体験するなんて。
「夜会が終わったら、出発しましょうか?」
この広い異世界で、恐らく世界で一番性悪な男と一緒に寝酒を飲んでいるなんて、思いもしなかっただろう。
明かりの光を吸った赤い目が、私を映しているなんて。
「世界一周旅行。楽しみですね」
本当に楽しそうにテーブルに頬づえをついたこの人が、奇麗で羨ましくなった。
どうして、この人が私の隣に居るんだろう。
きっと、私は世界をもう一度一周することは出来ない。
あと半年と少し、全部をかけて旅行がしたいと言った私を、この人は止めなかった。
だから、何となくだけど、察しがついた。
私が帰る方法は、この世界で一度死ぬ以外の方法が見つかっていないんだろう。
魔術が効かない厄介な体質の私を、どうしてこの世界にひっぱり込めたのかと思うけれど、きっとそれは社長と他の物が一緒だったからだ。私は、物に作用した魔術まで無効には出来ないっていうから、最後まで離さなかった鞄にでも魔術がかかってしまったのかもしれない。だったら、私の持っている鞄にでも魔術をかけてくれないだろうか。
思いついた案を思いついたまま目の前の人に話したら、珍しく難しい顔をされた。
「世界を渡る魔術の場合は、物に作用する程度の衝突では恐らく転移できないのですよ」
転移魔術っていうものは、そもそも物のある空間とない空間を魔術で引き寄せて衝突させて出来た魔術の穴をくぐるみたいなものらしい。乱暴だな。
「ですから、存在を維持したまま世界を渡るというほどの魔力を得るには、それこそ運命を変えるほどの衝突が必要になります」
私の場合、それは社長の車との交通事故だったのかもしれない。
……じゃあ、まさか私は車に轢かれた状態でこちらに来た?
「車にぶつかるという事実が衝突の強い魔力になったわけですから、轢かれる前にこちらに落ちたのだと思いますよ」
社長と落ちてきた時の私は無傷だったという。そういや、この人、私が落ちてきた時に立ち会ってたんだった。
社長は、どうやって落ちてきたかというと、腕利きの魔術師百人ぐらいを集めて人工的にその衝突エネルギーってやつを作って、座標を探して引っ張り込んだんだそうで。確かに一か八かだわー。私は、というと、車に轢かれそうになるっていう事実にエネルギーが発生して、更に座標を特定された社長がそばに居たもんで、一緒に落ちたっていうのが悪魔と変態魔術師の見解。……ホントに社長のとばっちりだ。
「あなたの、その魔術の使えない体質もこちらに落ちてきた時の魔力にあてられた結果だと思われます」
社長は目的の人だったから保護もされていたらしいけど、私は一緒に放り込まれた物と一緒だから、無防備なまま世界渡りをしてしまった。それを言ったら他の迷い人の人たちも同じだと思うんだけど。
「こちらに落ちる、というのはもはや自然現象のようなものですからね」
元々持っているその人の魔力で守られて、こちらに落ちるんだって。
「そもそも、こちらに落ちるという現象は、何らかの理由であちらの魔力とこちらの魔力が引きあうことによる現象ですから」
年に数回、下手すりゃ何百年に一度の割合いっていうのはそういう理由らしい。
「あなたは人工的に作られた強力な魔術と、車にぶつかる時にできたこれも強い魔力に揉まれるようにして落ちてきましたからね」
普通、それだけの魔力を浴びたら骨も残らないんだそうです。
「……私、よく生きてましたね」
そうですね、と酒を飲む元凶の顔を殴っても私は許されると思う。
「巻き込まれた際に、あなたは無意識に自分の魔力の全部を二つの魔力にぶつけたのだと思いますよ」
もう元には戻らないほどの魔力を使って。
溜息をつくように言って、元凶の人は苦笑する。
「あなたは、本当に奇跡のような偶然で、こちらにやってきたのですよ」
赤い、血みたいな目で見つめられる。
まるで、私が世にも珍しい、宝石かのように。
「―――私は、そんなに良いものじゃないですよ」
こいつが時々茶化して言うような、女神さまでも天使でもない。聖女さまみたいな慈悲の持ちあわせもない、浅ましくて醜い、ただの人間だ。
「私は」
白い手が、私の手を包みこむ。
「あなたが人であって、良かったと思っていますよ」
冷たいはずの手の平が、熱い。
「聖女や女神では、私はこうして触れられない」
手を握られているだけ。
それだけのことなのに、私は身が竦むのを感じた。
白い手が私の手の甲を撫でる、それだけのことが、ひどく艶めかしく映る。
硬直する私の手を、白い手が好き勝手に撫でまわして、長い指が私の指に絡まる。
はなして。
そう言いたい。
言いたいのに、喉が張り付いたかのように声が出ない。
縋るような気分で紅い目を見つめ返す。
脈打つみたいな血の色のくせに、この人は静かだった。
ただ静かに、私の手をもてあそぶ。
手の平は、熱い。
でも、この人は自分の熱さえ、まるで他人事のように傍観しているようだった。
詐欺だ。
私ばっかりペースを狂わされている。
この、赤い悪魔は人の気持ちなんか知りもしないのに。
遊ばれている手を見つめた。
私の尻ごみしている心も分からないのに、どうしてこの人は私の心を救うんだ。
そばにいる。
その、たった一言だけで。
嘘をつかない。
その約束だけで。
私に安心をくれる。
「もう休みましょうか」
熱い指が離れる。
テーブルに戻された私の指には、熱の余韻だけが残る。
きっと、私が元の世界に帰っても、この人は変わらない。
そのことにも、私は救われる。
またね、と約束できない別れの言葉は、他の人とはかわせない。
―――この世界で一度死んで、元の世界に帰るということは、死に直面するという事実で魔力を作り、そのエネルギーで元の世界に帰るのだ。
「雪」
ああ、酔っているのか、私。
ベッドに歩きだした赤銅色の髪に手を伸ばす。そして、
「―――何の真似ですか」
思い切り毛先を掴んで引っ張った。
絹糸みたいな髪を尻尾みたいに掴んで、何だか驚く。
「……溶けない」
「はぁ?」
珍しく素っ頓狂な声を上げて、赤い目が睨んでくる。
「いや、だって。何か溶けそうな髪だったから掴んだら消えるのかと思って」
そして食べたら甘いのかと。ほら、あれだ。コーヒーゼリーみたいな色に見えたんだよ。しかし、ただの髪なので絹糸のごとく素晴らしい手触りの他に特殊なことは何もなかった。それにしても奇麗な髪だな。枝毛だらけの私の髪と交換しませんか。
「……酔っているのですか」
珍しいというように、白い手が毛先を私から取り返すと、赤い悪魔がにっこりと笑った。
「明日はたっぷり私に付き合ってもらいますからね」
そして、ぞっとするような声で私の耳元で囁いた。
「あなたの貞操を守りながら、ぐっすりと休ませる方法なんか幾らでもあるのですよ」
ぐっすり、ではなくぐったりだろう。それ。
酔いは醒めた。
冷酷非情だと思っていたら、セクハラ悪魔でもあったのか。
私は悪魔を睨みつけて、さっと奴の背中に回り込む。
「うわ!」
今度は思い切り髪を引っ張ってやった。はははは! 天誅だ参ったか!
何をするんですか! と珍しく怒鳴るあいつを無視して、自分はさっさとベッドに入って寝てやった。
お酒が入っていたせいか、私はぐっすりと眠ることが出来た。
ざまーみろ。