せいろとハンガーラック
あーだこーだと歩き回ったけど、結局、魚と山菜の蒸し料理のお店でランチをとった。四角いせいろで料理が出てくるんだよ。食事の最後には手の平に乗るほどの急須でお茶を入れてくれる。爽やかな味がして美味しいんだこれが。
待っててくれるおじさんにと蒸し饅頭を買っていったら、おじさんはとても喜んでくれた。結構有名なお店だったみたいで、なかなか食べられないらしい。
奥さんと食べると言って、大事に懐にしまってしまったおじさんが何だか可愛かった。
「では、そろそろ私の用件を済ませに行きましょうか」
そう言って、悪魔がおじさんに告げた行き先は、観光客も来ないような奥まった高級店ばかりの運河だった。おじさんもあまり来ないらしく、店先の専用船着場に降ろしてくれた時にはちょっと緊張気味だった。
「ありがとう、おじさん」
私が挨拶すると、おじさんはちょっとほっとしたように笑ってくれた。
「奥さん、本当にお貴族さまだったんだねぇ」
つい軽口きいて悪かったね、と言うので首を振った。
「おじさんありがとう。とっても楽しかった。また、会えたら乗せてね」
「こっちこそありがとう。楽しかったよ」
良い旅を、と言い残して、おじさんはゴンドラを市街地に向けて漕いでいった。私と悪魔のでこぼこ夫婦のことを肴に、あの蒸し饅頭を奥さんと食べるんだろうか。
想像するだけで、温かい気持ちになった。
たとえ、おじさんの嘘だったとしても、私は羨ましくなった。おじさんは、きっとあのお饅頭を誰かと楽しく食べるのだから。
「葉子」
私を呼ぶのは、決して私とは相容れないはずの人。
振り返ったら、船着場からの回転ドアを開けて、上品なマダムが悪魔と私を笑顔で出迎えていた。
「いらっしゃいませ。トーレアリング様」
どうぞ、と言われるがままに店へと入って少しだけ意外に思った。こじんまりとした店内は、高級な家具が揃えられているけど落ち着いていて、店先に並んでいるのは数体のトルソーだけ。そのいずれのトルソーも、豪奢なドレスをまとっていた。何の店。ここ。
「ご無沙汰しております。マダム」
悪魔がそつなく挨拶すると、五十に手が届きそうなマダムの方も「ご結婚されたと聞きました。お可愛らしい奥様ですこと」とにこやかに私にも微笑む。
「ご来店いただき光栄ですわ。何年ぶりでしょうね」
地味だけど、レースとドレープが上品についたドレスのマダムは、私と悪魔に店の猫脚のソファを勧めて、自分はその脇で用意されていたティーセットを手に取る。
「そうそう。妹さまのナイトドレスを仕立てさせていただいた時以来」
妹さまはお元気ですか、と。
隣に腰かけた人の指が、少しだけ震えたことに気がついた。
「妹は、十年前に亡くなりました」
ご連絡差し上げずに申し訳ありません、といつもと変わらない声が答える。
マダムは言葉を失くした様子で、ティーセットを静かに置いてしばらく瞑目した。
「……申し訳ありません。不調法をお許し下さい」
彼女は、静かにお茶を入れてくれて、差し出してくれる。
「こちらこそ申し訳ない。よくしていただいたのに、連絡も差し上げず」
悪魔の言葉にマダムを首を静かに振る。
「―――今日は、奥様のお衣装をとうかがっていたので、少々浮かれていたのです」
申し訳ございません、とマダムは再び言って、深々と頭を下げてしまう。
「ええ。今日は、この」
と悪魔は私を見て続ける。
「葉子の衣装を見立てていただこうと思いましてね」
え、私の?
隣の悪魔を見上げたら、微笑まれる。悪い予感しかしない。
「今度、陛下主催の夜会がありましてね。それに妻と初めて参加するのですよ」
私は聞いておりませんがそんなお話。それとも妻がもう一人いらっしゃる? それも初耳です。
「まぁまぁ、素敵」
マダムも目を輝かせないでもらえませんか。今まで意気消沈してた人に強く言えないじゃないか!
「ご連絡いただいた寸法で、お衣装は用意させていただいておりますのよ。あとは奥様にご試着していただいて、他の物も揃えさせていただこうと」
ちょっとお待ちください、とそのお衣装とやらを取りに向かったのか、マダムは店の奥へと消えたのを見計らって、私は隣の悪魔のチャリムの裾を掴んだ。
「―――夜会って」
「三日後にあります」
「聞いてません。それとも愛人でも連れていくんですか?」
「言っていませんから。あなたを連れていくに決まっているじゃないですか、愛しい人」
「よくもまぁいけしゃあしゃあと言ってくれますね」
「言えば逃げる算段を立てかねませんからね」
衣装を揃え尽くしてから私に知らせる予定だったということです。そらもう、逃げるわ! というか今から逃げても良くないか?
「フェンとベンデルへのお土産を渡さないつもりですか?」
私の性格をよくご存じで! 悔しいがお土産は自分で渡す派だ。それが礼儀だと思ってる。クソ! 馬鹿だ私!
「大人しく、私の隣に居て下さればいいのですよ」
本当に楽しそうに言うんですよこういうことを。悪魔だ。なぜ、この悪魔の手で夢にまでみたヒロインの王道を実現しなくちゃならんのだ。乙女なら一度は憧れるだろう。金持ちのダーリンにお姫様ごっこさせてもらうとかいう、プリティなんちゃらのあれだ。私は白馬の王子様にやってもらうつもりでしたよ! 断じて歩けば敵に当たるような悪魔に叶えてほしいわけじゃない。
「あと三日、逃がしませんからね」
にこやかに、監禁フラグとしか思えない宣言されました。
「あらあら、何の相談?」
うふふと意味深に笑ってマダムが衣装をいっぱい抱えて帰ってきたのを見た瞬間、私は死亡フラグも一緒に見ました。
何の地獄だ。
マダムが可動式のハンガーラックに乗せてやってきたのは、意外にもドレスではなく三着のチャリムだった。まぁ、普通のチャリムと違うのは、袖や襟にレースや刺繍が施されていること。それでもあんまり目立たないから、ドレスとしては地味な方なんだろうけど。
色が問題だった。
まず黒に近い濃紺、次に純白かってほどの白、それから、
「ワインレッド……」
見ようによっちゃ、血みたいなワインレッドだった。
どうしてこのチョイスになったんだ。
どう考えても、私、悪女みたいにしかならないんじゃないのか。頭の中の出来上がり図がとんでもないことになっているんですが。
ご試着を、と半ば放心状態で着せられましたよ。もちろん試着室で。
ワンルームマンションの一室ぐらいの広さの試着室でマダムに微調整をされながら、「これがオートクチュールというやつか…」と逃避するぐらいには放心でした。
「もう少し腰を細く作った方が美しく見えますね」
姿が美しいですものね、と言われました。たぶんそれ、この間の軽い絶食で痩せたんだと思われます。
「―――奥様は、旦那さまの妹さまにお会いしたことは?」
腰のあたりの布をまち針で寄せながら、マダムがぽつりと言った。
「いいえ」
答えたら、マダムは「そうですか…」と呟いて、ぽつんぽつんと口を開いた。
悪魔の妹は、悪魔と血が繋がっているとは思えないほど、素直で可愛い子だったようだ。生来、体が弱かったけれど、宮仕えの兄にたまにこのアルンダッタへ連れてきてもらうことが一番の楽しみで、マダムのお店で毎日着るナイトドレス、要はパジャマ代わりのチャリムなんかを作ってもらうのが好きだったという。兄の方もそんな年の離れた妹を可愛がっていて。
「安心なさいました?」
妹のほかに、女性を連れてきたことはないそうだ。
申し訳ないけど、他の御用達もあるんですよ。マダム。
肩を竦めた私に、マダムは「まぁ」と言って笑った。
「差しでがましいですが、わたくしは、奥さまを連れだっていらっしゃると聞いて、嬉しゅうございました」
子供のいないマダムは、あの兄妹を、まるで子供のように思っているという。
「これからも、よろしくお願いいたしますね、ヨウコ奥様」
一年だけの契約妻でよろしければ。
はぁ、とかそうですか、としか返事をしない私に、マダムは丁寧に衣裳のサイズを合わせてくれて、「この体型を夜会まで維持してくださいませね」と言われて、そうだと思う。
この衣裳が入らなきゃいいのか。乙女としては死活問題だが、人間としては一キロ二キロ太ったところで死にはしない。
だが。
悪だくみをしている人間は見分けがつくのか、待合いソファでのんびりお茶を飲んでいた悪魔は、試着室から帰ってきた私に「太っても無駄ですからね」と言ってくださった。この野郎。