ガスコックとスマートフォン
結局、私たちは二日、森を彷徨った。
二日で済んだのは運が良かったといえる。
それに、ベンデルさんの驚異的な嗅覚のお陰で毒のない湧水を見つけることができたことも運が良かった。
人はそれを悪運というのでしょうが。
とりあえず、三人で辿りついた魔女の家は、以前と変わらないたたずまいで針葉樹の森にひっそりと建っていた。
無駄話をしたのは森を歩き始めて一日目の、あの岩場でだけだ。あとは方角やら行程の相談だけでいっぱいで、魔女の家のドアノブに手をかけた私はアドレナリンの咆哮に任せて絶叫した。
「着いたぁああああああ!!!」
やった!
私やったよ!
生きてる!
ドアノブをそっと押すと鍵はかかっていなかった。
でも、部屋の中はまったく荒れていない。ただ、うっすらと埃が溜まっているだけだ。魔女がいたら何も言わずにホウキを差し出されそうな。
とりあえず、だ。
私は真っ先に台所に飛び込んだ。
申し訳ないが、今の私に何を言っても無駄だ。
泥棒? 強盗?
あえて汚名もかぶろうではないか!
お腹空いたんだよ!!!
もうあり得ないあり得ない。三日もほとんど飲まず食わずとか馬鹿じゃないのかいや馬鹿だ!
勝手知ったるとはこのことで、私は台所の食糧庫から備蓄庫まですべて開け放って食べられそうなものを物色した。意地汚いとのそしりもあえて受けよう今だけな!
その甲斐あってか、食べられそうな物は比較的多かった。
燻製の肉に始まって乾燥野菜に乾燥キノコ。調味料は怪しかったけどまぁ使えるだろう。そして、ありがたかったのが、
「残しておいてくれたんだ……」
東国とはいえパン食がメインな土地で、米が食べたいと思った私は魔女に頼みこんで購入した米をおにぎりして乾燥させておいたことがある。それを、魔女は完全密封できるビンに入れておいてくれたらしいのだ。
台所の水道をひねったら、水は出た。明かりも大丈夫みたいだし、かまどもいつかのままだ。今ならこのかまどの良さがよく分かる。このかまどねぇ、薪を放り込むだけで勝手に火がつくんだよ。普通なら火を起こしてつけるところから始めなきゃならないんだけど、その手間が一切ない。それに火事になりそうだったら自動で消化するっていうんだから、高性能かまどだ。これを使い始めた頃はガスコンロが懐かしかったので、この便利さには感謝できずに薪を割る辛さに文句たらたらだった。
ガスコックみたいな蛇口をひねると洗い場に出てくる水に手をそっと浸す。ひりひりする痛みと一緒に感動が湧いてくる。ああ、幸せ。お水飲めるって幸せ。
私は洗い場においた桶に水を溜めて、あらかた泥と血を洗い流してから、早速ご飯の調理にかかることにした。そういやあの悪魔ども何してるんだろう。まぁいいか。
お腹を満たすこと以外は全部些事だ。
記憶にある棚からナイフやまな板を取り出して、私が調理に取りかかると、戸口からのっそりと赤銅色の三つ編みが顔を出してきた。
「何かお手伝いすることはありませんか?」
「ないです」
水でも飲んで寝てろ馬鹿。
「二階にベッドあるんで、寝ててくださいよ」
「それはちょっと骨が折れますねぇ」
は? なんだそりゃ。
干し肉をぶつ切りにしていた包丁持ったまま振り返ると三つ編み眼鏡が苦笑する。
「この家はすべてあなた無しには扉も開かなければ、水も出ないようになっているようなのですよ」
「はぁ?」
「つまり、東の魔女は、ここを去る前にこの家の主をあなたに書き換えて去ったようなのです」
この家の真ん中にあるはずの魔術の石というものは、使用者を決めて使うものらしい。だから、石に支配されたこの家では、御主人さま以外は自由に家に入ることすらできないのだそうで。なるほど、だから荒らされてないのか。
って、使用者の名前が私になっていたってことは、
「はぁ!?」
魔女が私にこの家、譲ったってことじゃないか!
この台所の戸を開けるにも、悪魔はちょっと違法な魔術で戸口の鍵を騙して入ってきたらしい。オイ。
「……どうして、私なんかに」
あのクソババァは私を取引の材料ぐらいにしか思っていなかったはずだ。少なくとも好かれてはいなかった。なのに、
「―――まぁ、分かる気もしますがね」
あとで客人欄に悪魔とベンデルさんを加えろと言われて、私はほとんど上の空で頷いた。
魔女は、どうして私に家を残したんだろう。
私はあり合わせのもので鍋いっぱいに肉入りおかゆを作って、とりあえず食卓に並べることにした。
食糧庫には、お酒がいくつか並べてあった。魔女は酒を嗜まなかったはずだ。でも、時々街に降りたとき、私があれやこれやと酒のことを尋ねたような気がする。あの時はとにかくアルコールがなくてお酒と見るや料理酒でもこっそり飲んでたぐらいだったからな……。
私は鍋と酒を食卓に並べてから、リビングでのたくっていた悪魔を連れて魔女の部屋に行った。初めて入るわけではないけれど、いつも鍵のかかっていたはずのその部屋には、この家同様、すんなりと入ることができた。
小さな書斎机の脇で鍵箱みたいな箱を見つけて、そっと開けると複雑な光を宿した石がひっそりと入っていた。悪魔が指で石に触れて魔術でいじる (いわばハッキングみたいなこと) と石の上に、ホログラムみたいなのに触れる説明書が出てきた。ハイテクなスマートフォンみたいに画面をスライドさせて、悪魔は客人欄に自分の名前とベンデルさんの名前を書き込む。魔術が効かない扱えない私が石に触ればどういう誤作動が起こるか知らないから触れもしなかったけれど、北国語で書かれた使用者欄の名前は、魔女の名前ではなく私の名前が書かれていた。
「葉子」
石の側に紙切れがあった。それを悪魔は私に手渡してきたので、広げる。
魔女の、手紙だった。
”これを読んでいるということは、あなたは生きて帰ったのでしょう。
そして、私はもうこの世にはいないことでしょう。
愚かな私にもこの世界が変革の時を迎えようとしていることは薄々気が付いていました。あの、銀髪の魔術師が私を訪ねてきたときから、私の経験も予測も及びもつかないことが起ころうとしていたのでしょう。
もしも、ここへ帰ってきたあなたのために、私はこの家を残すことにしました。
あとのことはあなたに任せます。
それから、 ”
「……葉子」
悪魔に抱き寄せられていることは分かった。
でも、私は手紙に顔を押し付けて、顔を上げようとはしなかった。
上げられなかった。
どれぐらいそうしていたのか、私は悪魔を押しのけて、部屋を出た。
「今日は飲みますからね!」
食卓で、吸血鬼姿で椅子に優雅に腰掛けていたベンデルさんが呆れた顔をした。
でも何も言わずに、指をぱちんとやって三人分のゴブレットを出してくれる。おいおいアンタ、その調子で食糧も調達してくれたんじゃないの?
「人肉でいいのなら」
遠慮します。
明かり石を囲んで三人で鍋と酒を思う存分楽しんだ。
お酒はこの辺りの地酒で、いい具合に熟成している。
おかゆに入れた柔らかくなった干し肉を食べながら、酒は飲むというベンデルさんに酒を注ぎ、悪魔におかゆをもっと食えと強要し、夜も更ける頃、私はとても久しぶりに泥酔した。
泥酔といっても、私は意識が無くなるということはないので、しばらく頭がくわんくわんになるぐらいだ。
「―――なんて女だ。この度数の酒を三本も一人で空けやがった」
ベンデルさんの嫌な顔もスルーできるほど気分はいい。
悪魔はただ笑いながら何も言わないで、私に水の入ったカップを差し出してくる。気が利くじゃないか。
水を飲む私の傍らに腰かけて、悪魔は私を見ながらテーブルで頬づえをつく。
「冬が終わったら、領地に行きましょうか」
悪魔の領地はだだっ広いけど自然が豊からしく、春に帰れば魚釣りや山菜採りがし放題なんだそうだ。
「麦の植え付けも始まりますからね。忙しいですよ」
領主さま自らも、自分で開墾した土地で野良作業やるっていうんだから驚きだ。この悪魔が畑仕事だよ? 笑える以外の何物でもない。
だから、私も楽しみになって笑いながら肯いた。
だって、あと半年以上はこの世界でこいつの奥さまやるんだ。せいぜい楽しまないと。
「地酒もありますから。楽しみにしていてください」
「人を酒飲みみたいに言わないでください」
私はちょっとお酒が好きなだけなんだ!
悪魔の領地は、冬は雪深くて、湖も広い雪原になる、そういう土地だという。
だったら春といっても寒いかもしれない。
試作のコーヒー豆も持っていこう。向こうで豆をひいて、ミセス・アンドロイドやベンデルさんたち、それから悪魔な旦那さまにも、コーヒーを飲ませてあげよう。
そんなことを思いながら、私は眠ってしまったらしい。
ふと目が覚めたら、私が魔女の家に居る時に使っていたベッドで寝かされていた。
悪魔やベンデルさんは別の部屋なのか、狭い部屋には私の他に気配はない。
上着だけ脱がされた格好で、私の上着はベッドのそばの椅子にかけられていた。
思いついて、ベッドから起きだして上着のポケットを探ると魔女の手紙はちゃんとあった。
もう一度、広げてみる。
魔女の手紙はこうくくられている。
” おかえりなさい ”
東国に帰ってきて、初めて聞いた言葉だ。
嫌な思い出しかないはずの魔女とのことが、思い出されて、消えていく。
彼女は手紙の中で私に何も謝らなかった。彼女らしい。それに、私が、謝ったって彼女を許さないことをよく分かっている。
彼女は、私を取引道具としてしか見ていなかったけれど、この世界で生きていくのに必要なことを教えてくれた。薬草の世界を教えてくれた。
魔女の手紙の最後の言葉で、私は「ああ、帰ってきたんだ」と思った。
自分で歩いて、出会った人の所へ帰ってきて、ちゃんと迎え入れられたんだと思った。
もう会えない人ばかりが増えていく。
彼らは私に返せない恩ばかり残して、私がどうやっても会えない場所へ去っていく。
私には、本当に何もできないのだろうか。
ふいに、声が聞こえたような気がした。
空耳とかそういう声にも聞こえるけれど、と思いつつ私は閉めたドアに耳をつけてみた。
低い、男の声がする。
「―――いつまでこうしているつもりだ」
ベンデルさんだ。
「いつまで、とは?」
悪魔もまだ起きているらしい。とっとと寝ろよ!
怒鳴ってやろうと身を起こしかけて、
「お前、もう抗体の再生能力がほとんど無いのだろう」
ドアに耳をつけたまま声を殺す。
「幼い頃から酷使し続けてきただろうからな。そのまま抗体の力と魔力に頼り続けていれば、死ぬぞ」
溜息が聞こえる。
きっと、あいつは、笑っている。
「―――もって、あと一年といったところでしょうか」
そっとドアから離れた。
私に聞かれていることを知っているのか、知らないのか。
どちらにせよ、嘘ではないような気がした。
抗体とやらに寿命がくるのか、魔力が弱まるということなのか、それとも。
いずれにせよ、あいつのとって致命的になることは分かるつもりだ。あいつが命を狙われ続けているのは、今の状況で身を持って体験している。
どうして、私を庇ったりなんかしたんだ。
返せないものを寄越してくれるな。
命なんか要らない。
ただ、
「……約束を守ってくれればいいのに」
私を一人だけ置いていかないと言ってくれただけで、私は救われたのに。