拷問と小枝
目が覚めて、まず私がやったのは、
「ぎゃああああああああああああああああああああああああ!!!」
叫ぶことだった。
……声が枯れるかと思いました。
「あなたには、私の妻だという意識がなさすぎるようですね」
「何もしないと言った口でそーいうこと言っちゃうんですか!」
そうでしたねアンタは悪魔だったよね! 怪我人だったと知っているけど殴っていいかなぁっ!
朝起きたら、悪魔な旦那さまの顔がドアップだったのです。
もうね、お約束だと思うんですがね。
あの冷血悪魔に赤ん坊の如く抱きこまれてたんですよ。
まつげの毛の数まで思わず数えちゃいましたよ近かったんでね!
悪魔のくせに顔形いいとかふざけるとしか。
「―――お前たち、本当に夫婦か?」
何事かとやってきたベンデルさんは、いつもの背虫のおじさんになっていたけど呆れ顔は昨夜と一緒だった。
「そうですよ。夫婦以外に見えないでしょう?」
「私には拷問としか思えませんどうでもいいから放せぇええええええっっっ!!!」
何が悲しくてこの性悪の膝に乗せられたまま腰抱っこされて向かい合うなんつー妙にエロい格好で爽やかな朝を向かねばならん! いや無い!
凄絶な抵抗の末に、悪魔からようやく自由を手に入れた私は、空腹と絶叫の脱力で地面にあえなく手をついた。もう燃料切れです。私は飲まず食わずなんだよ!
「日ものぼったことですし、帰りましょうか」
機能停止寸前の私に対して、赤銅色の三つ編み悪魔はまるで何事もなかったような笑顔で私に手まで差し出してきた。
昨日の夜には瀕死だったあんたがどうしてそんなに晴れやかな笑顔なんだよええ?
「……あの、えーと、ガルニーアト様にご挨拶しなくていいんですか?」
不承不承、手を借りながら私が言うと、悪魔は人の悪い笑みを浮かべる。
「ええ。あなたの方が大切ですから」
要するに、今は腹に穴も空いたし仕掛けも済んでるから女ボスに用はないってことだ。
悪魔の脇腹の傷が本当に塞がったのかは分からない。チャリムは赤黒くなっていて、流れた血でばりばりになっている。でも血は止まったみたいだから、この森からどうにか帰ることが出来れば大丈夫だろう。
とりあえず、顔を洗いたいけどここの水はろくでもない猛毒だ。最悪。
まぁ、それよりも、
「ここからどうやって帰るか…」
俊藍とここまで来るのに何週間かかったと思ってるんだ。王都まで帰ろうなんて無謀にもほどがある。更に地図もない。
「魔術とやらでどうにかならないんですか?」
ぱぱーっとあんただけでも帰ればいいよ。
そう思ったのに旦那さまは苦笑した。
「魔術といってもそれなりに準備が必要なのですよ。移動する距離が遠ければ遠いほど、ちゃんとした術式がなければ失敗します」
どういうものでも万能じゃないってねー。
それに、この悪魔もベンデルさんも死の山は初めて来たようで。
「兄は何度か来ていたようですが」
まぁ、よっぽどの物好きでないと来ないでしょうね。
ここの毒草は珍しいし。
困ったなぁ。
小枝の間の空を見上げて、溜息をついた。鳥一匹居ないよ。
それにしてもよくこんな場所にお屋敷なんか建てたね。びっくりだ。
お屋敷。
あ。
「魔女の家、行きませんか」
そうだよ。
私、この森抜けて、あのクソババァの家に行ったんだった。
ひたすら東に森抜けて、山を下った所にあるはずだ。ここが森のどこだか分かんないけど。
「この辺りの三つ山を死の山というのなら、ここは三つ山のど真ん中だ」
なんでも、ベンデルさん昨夜のうちにこの辺りをばさーと飛んできたらしいです。それで助け呼んでくれないか。
「俺も長い間飛べるわけじゃない」
渡り鳥でもないからな、と言われてなるほどと思った。マラソン選手も幾らでも走れるってわけじゃない。
私は何とか前通った道を思い出そうと記憶をひっくり返した。
ええと、俊藍におぶわれて、キスされて……いやここは重要じゃない。もっと先だ。
あ、
「あの魔女の家の周り、針葉樹林でした」
この森は落葉樹がほとんどの密林だ。
あの時、山を下った先に平らな葉っぱはほとんどなくて、ちくちくする針葉が一面覆っていた。
その森の一本道の先に、彼女の家はあった。
「迷う可能性もありますけど、あの人の家なら魔術の準備も出来るんじゃないですか」
あの家が無人になっただけで壊されていないのなら、電気も水道も生きているはずだ。あの家は魔術の石でライフラインを確保するらしいからそれさえ壊されてなきゃ今も使えるだろう。
それにあてもなく麓を目指すよりいいはずだ。
三つ編み悪魔は珍しく少しだけ考えるような顔をしたけど、すぐに決断を出した。
「行きましょう」
その返事を聞いてすぐ、私たちは森を歩きだした。
ベンデルさんが空から確認した情報によると、私たちが居るのは森の西側、どちらかというと人の住んでいる集落に比較的近いようだ。
魔女の住んでいた家へ向かったのは人なんか近寄らない森を抜けていったから、反対に向かわなければならない。
「恐らく、集落に向かえば何者かが待ち伏せしているのは分かり切ったことですからね」
あの女ボスのことだ。悪魔がすぐ思いつく周到なことは全部やってそうだ。
それも踏まえて、裏をかく形で森を抜け、魔女の家に行ければしめたものだ。
死なないとは言ったけれど、私は悪魔の言葉を完全には信じていない。
少なくとも、あんなに失血したのに何の処置もしていない状態なのだ。
危険なことは少ない方が良かった。
……もちろん私のためにも。お腹空いたんです。まじで。
私は悪魔と一緒になって太陽で方向を見て、とりあえず東南に向かうことにした。
夜になったらベンデルさんに目的地の方角を見定めてもらうとして、昼間のあいだ距離を稼ぐ方向だ。
あとは、気力で歩いていくしかない。
それにしても、と思う。
「―――あなたなら、もっとスマートに帰る方法考えると思いましたよ」
密林の中を方角を確かめながら目立たない程度に草木を払って歩くのは、結構体力がいる。そのほとんどをベンデルさんと悪魔がやっているけれど、私も方角見つつ、自分が怪我しないように歩かないとならないから結構疲れる。
「申し訳ありません」
小枝を払いながら、悪魔は苦笑して珍しく素直に謝ってきた。
「本当は、あのお屋敷の術式を使ってすぐに別の場所に飛ぶつもりだったのですよ」
魔術の方陣をいくつか経由して、王都に帰るつもりだったという。
それには、魔術師並みの耐久力が必要だとか。
だから、
「……私、邪魔ですね」
魔術の使えない効かない私が居るのだ。北国でだって、せっかくの方陣が消えちゃって特殊な方陣でやっと飛ばされた。
拗ねた私の頭を傍らの人が撫でてくる。
「謝るのは、私の方なのですよ」
声が低い。顔を上げたら、案の定、赤銅色の悪魔が何もかも気に入らないというような顔でしかめっ面をしていた。
「―――本当は、あなたを連れてくる気は無かった」
それは、
「……ごめんなさい」
足手まとい。
本当なら、一日だってかからずこの悪魔は王都に帰ってきただろう。何喰わぬ顔で。
でも、今、ここに私が居るから、予定にないことになっているのは一目瞭然だ。
悪魔のくせに怪我なんかしてやんの! て笑ってやるところなんだけど、現実にはそれが出来なかった。
痛そうにしてる顔は見たくもないし、血生臭いのもお断りだ
私の不運が伝染したんじゃなかろうかと最悪のことまで考えてしまう。
ガラにもなく神様にお祈りだってしそうになる。
運が悪いのは、私だけにしてくださいって。
「……あまり、私の言葉を取らないでください」
いつの間にか下を向いていた私の手を、白くて大きな手が掴んでいった。
顔を上げると、眼鏡の悪魔が呆れたような顔で笑っている。
私と目はあったけれど、すぐに赤い目は前を向いた。
いつもなら饒舌な彼は、それ以上何も言わないで私の手を掴んだまま小枝を払って先を進む。
私も黙って後をついて歩いて、白い手を見つめた。
そうして、白い手に細かい切り傷をたくさん見つけて悲しくなる。小枝や草を素手で払い続けていればこうなるのは分かっていた。
どうしてうまくいかないんだろう。
泣きたくなる。
休憩を挟んで一日歩き続け、日が沈んでからベンデルさんは昨日の吸血鬼姿になって偵察に飛んでいった。
私と悪魔は、日が沈む前に見つけた岩場のくぼみで休むことにした。焚き火は今日もできないから、ベンデルさんに借りたインバネスを羽織っている。私が。悪魔に押し付けられた。
今日は場所が悪いのか、木々に阻まれて星空はあまり見えないけれど、月は出ているので物の形ぐらいは分かるほどには辺りが見える。
疲れているからすぐに眠れると思ったけれど、空腹のためか目は冴えてすぐには眠れそうにない。せっかくお貴族様の奥さまになったのに、こんなことばっかりだな私。
「―――あなたは」
隣で私と同じようにぼんやりと岩場で座り込んでいたはずの悪魔が、ぽつりと声を出した。それが、約半日ぶりの無駄話の声だと知って、少し驚く。この口から生まれてきた悪魔が私と居てこんなにも長く口をきかなかったことなど無かったからだ。
「どうしてそんなに、お人好しなんですか?」
「……久しぶりに口をきいたと思ったら突然何ですか」
ケンカしたいのか。この疲労困憊な時に。
睨む私を見て、悪魔は長い溜息をつく。いったい何なんだ。
「どうして、私を憎まないのですか?」
あんたなんか嫌いだ。
でも、
「怒ってばかりいるのも、疲れるんですよ」
ましてや一緒に住んでいるんだ。そしてこの悪魔は馬鹿みたいに私を構う。
憎んで恨めという方が、難題だと思わないのか。
それに、
「どうも、私は恨みや辛みを人生の糧に出来ないみたいなんです」
腹が立ったことは一度や二度じゃ済まない。さっさと目の前から居なくなってくれと思ったことも数知れず。
それでも次の日には一緒の食卓についている自分を振り返ってみると、どうも私は怒りといった負の感情が持続しない性質らしいのだ。
私はどちらかというとネガティブな方だ。前向きには考えられない。いつだって無い無いばかりですぐに何でも諦めてしまう。でも、痛みや辛み、恨みや嫉みなんてものをいつまでも持っていられるほど、物持ちも良くないらしい。
美味しいご飯を食べて、美味しいお酒を飲んだらたいていのことはどうでもよくなる。
黙って聞いていた悪魔は、本当に呆れかえるみたいな顔になって、次の瞬間、腹を抱えて笑い出した。
「あっはっはっはっは!」
「あんたのそーいう所、大っきらいです」
舌打ちしてみるけど、私は不愉快なだけでやっぱり怒る気にはなれなかった。
だって馬鹿みたいじゃないか。
誰かを恨む気持ちだけで大事な自分の人生を過ごすなんて。
嫌いな奴はたくさん居る。だから、もう我慢なんてしないでそいつに直接言ってやればいいと思っている。あんたなんか嫌いだ! と叫んでしまえば、私はすっきりする。嫌いな相手のことなんか考えてやるもんか。
「まったく」
目尻の涙を拭きながら、悪魔は余韻の残った笑顔で私を見つめてくる。
「お人好し過ぎて、反吐が出る」
「……あなたも大概、口が悪いですね」
失礼、と笑って、悪魔はいつものように冷酷な微笑みを浮かべる。
「もしも、あなたのような人が一人でも居れば、と思ったのですよ」
まるで、何もかも終わったと言う老人のように三つ編み悪魔は笑って目を細めた。
こいつは散々、私は居なかった方がいいと言ってきたのに。
「―――あなたは、本当に俊藍の敵なんですか?」
不思議だった。
初めこそ、俊藍に呪いをかけたのに、あとは彼を傷つけるようなことは何もしていない。
まるで、掃除をするから邪魔だと追い出しただけのような。
紅い目が私をじっと見、そして整った口元から細く息が吐き出された。
「―――私は、元々、陛下の教育係でした」
ぽつりと呟くように始まったそれを、私は黙って聞いた。
それはまるで、懺悔のようで。