吸血鬼とインバネス
ばさり!
自分の後ろで響いたこの音に驚いて振り返ると、蝙蝠みたいな羽根をつけた知らない男がこちらを伺っていた。
やたら顔の整った男だ。真っ黒で長い髪を流して、暗い色の西国式のフロックコートをまとった姿は薄気味悪い吸血鬼にも見えた。
何だ、こいつ。
「―――ベンデル」
一緒に吸血鬼男の様子を見ていた悪魔の旦那さまは呼び出すように呟いた。
ベンデル?
「……ベンデルさん?」
吸血鬼と目が合った。
彼は戸惑うように顔を歪めて、こちらに近付こうともしない。
返事をくれたのは呆れたように笑った悪魔だった。
「彼は、ベンデルですよ。我が家の御者の」
え。
あの、背虫の愛想の悪い、あれですよね?
「昼間はあの姿に擬態しているのです。あれは、人ではないものですから」
今の姿が本来の姿に近いそうですよ、と何気なく暴露されて唖然となった。
悪魔屋敷だと思っていましたが、何だか特殊な人たちに囲まれていたようです。
でも今は、
「ベンデルさん!」
名前を呼べば反応するからあの美形な吸血鬼はベンデルさんなんだろう。
だったら問題はない。
「この人、助けて!」
私が叫んだことで我に帰ったのか、今まで難しい顔をしていた白皙の顔がようやく動き出した。
「……どうして助ける必要がある。そいつは勝手に寝転がっていればいいだけだ」
声まで美声とは。恐ろしい生き物だな人外。
「寝転がってる間だけでも助けて恩売ればいいんですよ!」
「……妻とは思えない発言だな」
「うるさい! とにかく何とかしましょう!」
私が手を差し出すと、吸血鬼ベンデルさんは怯えたように後ずさった。
そういや血塗れだっけ。
私の脇でやりとりを見ていた悪魔がのっそりと補足説明してくれる。
「あれにとって、私の血は致死の毒ですからね。気持ち悪いでしょうが、しばらく血塗れでいてください」
何でも、ベンデルさんの主食は、人間、なんだそうで。
うげっと思って黒髪の吸血鬼を見上げたら、不愉快な顔をされた。
「さっき、たらふく食らったから、お前を食べたりしない」
小腹が空いたらどうするんだ。おやつは好きだがなるのは嫌だ。
仕方ない。窮地を脱するまで血塗れでいよう。
「―――どれぐらいで、傷口塞がりそうなんですか?」
これからどうしようかと尋ねたら、悪魔は申し訳なさそうに答えた。
「この分だと、朝まで無理ですね」
下手に動いても見つかるだけだろう。森で夜を明かすしかない。
そうと決まれば早く行動すればいい。
私は着こまされていた綿入りの上着を脱いで悪魔に差し出した。
「これ着てればちょっとは温かいですから」
「駄目です」
怪我人とは思えないはっきりとした応えに呆れた。
「風邪でも引いたらどうするのです」
「今ケガしてんのは、あんたでしょうが!」
無理矢理着せてやった。サイズは合わないので肩にかけるだけだけど、チャリム一枚でいるよりマシだ。
「上着貸して下さい」
「は?」
傍観をきめこんでいたベンデルさんに上着を脱ぐよう催促する。どうしたって近寄ってこようとはしないから、私は悪魔のそばから叫ぶしかない。
「私の上着一枚じゃ足りないから、あなたのコートも貸して下さい」
「どうして俺が…」
「人じゃないくせに寒いとか?」
「馬鹿にするな」
「だったらいいじゃないですか。それに動けば温かいですよ」
「ここでじっとしていると言ったのではないのか」
「ここでじっと安全に居るには誰かが見回りしないといけないんです…」
よ、と言ったところで、
「ぶえっくしょん!」
思い切りくしゃみが出た。
そういや私もチャリム一枚だわ。
私が鼻をすすっていると、何だか周りが静かなことに気がついた。
え。何。
確かに色気もないくしゃみだったけど、静まり返ることないんじゃないの。女だってくしゃみの一つぐらいするんだよ!
心底呆れた様子で私を見下ろしたベンデルさんは (吸血鬼姿のベンデルさんは私の頭二つは背が高い) 大きな溜息をついた。
「分かった」
そう短く言って、指を鳴らす。
すると、指先から黒い塊のようなものが弾き出されて、ベンデルさんがもう一度指を鳴らすとその手に大きめのインバネスが乗っていた。
なんだ、なんだ。手品?
興味津津で見ていたらインバネスを放り投げて押し付けられた。
「これをそれに着せろ」
それ、とは私の脇で苦笑している悪魔のことか。
それで私の上着は自分で着ろと言われた。
まぁ、サイズも合わないしね。
私は吸血鬼の言う通りにインバネスを悪魔に押し付け、私は自分の上着をもぎ取った。
うん寒くない。隣の悪魔が若干不満そうだけど知ったことか。
焚き火するのがベストなんだろうけど、この状態じゃうまくない手段だ。
「何か、暖を取る方法ないですか?」
ベンデルさんは少し考えるような顔をして、再び指を鳴らす。
パチン、と短い音が響いて、まるで何かを覆うように余韻が消えた。
余韻が収まると、静かにざわめいていたはずの木々の動きがぴたりと止む。
不思議に思って見回しているとどうにか上半身を自力で起こした悪魔が目を細めた。
「外とこちらを切り離したのですよ」
なんですか、その哲学的なそれ。
「空気の流れだけ止まればそれだけ寒くはないですからね」
どうやらここだけ風が吹かないようにしたらしい。そう解釈しておく。
「じゃあ、私ちょっと行ってきます」
立ち上がろうとしたら、
「……何するんですか」
悪魔に腕を掴まれて引き戻されそうになった。
「どこへ行くというのですか」
不機嫌そうに言って自分のそばに引き戻そうとするから、軽く振り払ってやる。ええい邪魔だ!
「薬草取りに行くんですよ。痛み止めぐらいあった方がいいでしょ」
「必要ありません」
「―――今、その傷口、蹴り上げても痛くないと?」
ようやく腕を放された。よしよし。
「ベンデルさん、小さな明かり作れます?」
「……化け物使いの荒い奴だな」
使えるものを使って何が悪い。
こんなんだけど、一応お貴族様の奥さまなんだぞ! 虎の威を借りれるなら借りてやる。
ベンデルさんはぶつくさ言いながらもそこらの小枝を拾い上げて、指先でふんわり触れ、小さなロウソクみたいな明かりを作ってくれた。
さすがにそれを放り投げるわけにもいかないらしく、渋々私と距離を縮めて指先だけで小枝を渡してくれる。本当に腫れものに触らないように渡してくるから思わず笑ってしまった。
「……何がおかしい」
「いや、別に。ありがとうございます」
いけないいけない。今は情けなくても相手は人間主食の化け物さまだ。ご機嫌はとっておくに限る。
「じゃあ、ベンデルさんはあの人よろしくお願いします」
「どこへ行くのか知らないが、あいつよりもお前の方が危ないだろう」
仕方ないから俺もついていく、と思いのほかまともな気遣いに驚いてしまった。びっくりしたのが顔に出たのか、小さな明かりにぼんやり浮かんだ秀麗な顔が訝しんだ。
「あいつは動けないだけで、人如きに殺されるようなことはないだろう?」
いや、今までこういう場面じゃ一人で放り出されることが多くてですね。
思わず話すと人外のお兄さんにまで心配顔をされた。
「……お前」
「何も言わないでもらえませんか」
他人から自分の対人運の低さを指摘されるのって案外落ち込むんだよ。
「じゃ、そういうことなんで。ちょっと待っててください」
悪魔を振り返ると、あいつは何だか穏やかに不機嫌だった。何ですか。傷が治るの遅くなるよ。
「―――ベンデルの後ろについて歩きなさい」
それ以外には許さないというように赤目が睨んでくるので、私はベンデルさんに「お先にどうぞ」と促した。