襟とスマイル
暗闇に浮かぶ光を眺めながら、目の前の悪魔はうっすらと笑った。
その姿はどんな凶悪犯より恐ろしいだろう。
ただいま誘拐されております。ただし、誘拐犯は目の前の悪魔ではありません。
「お腹空いたなー」
「今日はガミュゼの魚料理だったのに、残念ですね」
会話が場にそぐわないことは承知しております。ええ。でも、やっぱりお腹はすくんだよ!
「それで、どうしてそう悪い顔で笑っているんですか」
おかしくてたまらないというようにニヤニヤと、何だか寒気のする笑みを浮かべている悪魔は不気味だ。どうしてこの人と一緒なんだろ。せめて別々にしてほしかった。あとご飯もくれ。
「あの様子だと、ヒンテンって初めから誘拐犯の一味みたいですね」
「ええ」と短く言って、悪魔は人の悪い顔で応えた。
「彼はクライン卿から紹介された人間ですから」
誰それ。
「ガルニーアト様の伯父にあたる方です」
だからそれも誰。
「メルツ王太子殿下のお母上ですよ」
ああ、あの噂の王太子派っていう後妻さん!
私の納得顔を見てから、悪魔は嬉しそうに笑う。
「先王陛下がお亡くなりになられてから王宮で絶大な権力を持たれた方で、我が子を王位につけようと親類縁者を大臣や元老院に送り込むなど、涙ぐましい努力を重ねてこられた方でしてね」
何だかとっても嬉しそうですね。寒い方向に。
「あの方自身は派手好きな可愛らしい女性なのですが、何せご親戚が多いので少々骨を折りましたよ」
やっぱり寒いお話でした。
もう少し実のない話をしようよ。お腹空いたよ。
「……一網打尽にする機会を伺ってたんですね」
人聞きの悪い、と悪魔は相変わらず凶悪顔だ。
後妻さんのご親戚とやらがどれだけ王城にいるのか知らないが、この悪魔はその全部を始末する方法を今の今まで虎視眈眈と狙っていて、今夜誘拐されたことでどうやらそれが全部叶うらしい。
ということは、わざと、あのヒンテンを招きいれて、わざわざ誘拐されたってことだ。
「―――ヒンテン、いい奴だったんだけどなぁ」
「おや、若いツバメを侍らせる趣味があったとは」
あんたこそ人聞きの悪いことを言うな。
「ヒンテンだけだったんですよ。あの屋敷で営業スマイルしてくれるのって」
彼だけはスマイルゼロ円だった。他の人たちはたとえ私が全財産差し出したってにこりともしないだろう。
「私の笑顔だけでは足りませんか」
「何考えてるのか分からない胡散臭い笑顔だけじゃ寒いだけです」
悪魔の笑顔は気持ちがゼロです。
「だいたい誘拐されるなら一人で誘拐されて下さいよ」
苛立ち紛れに言ってやると「葉子」と短く呼ばれた。
「怖いですか?」
「今聞くんですか!」
にっこり笑った悪魔の顔を張り倒したい。
だって、今、私が答えるとしたら、非常に不愉快な答えだ。
この悪魔が居るから、怖くない、だなんて。
それに特に感情やら気持ちが無くても口が裂けても言えない。
言ってやるもんか!
「―――大丈夫ですよ」
暗闇の箱の中、どこへ行くかも分からない。
この悪魔の計画に巻き込まれて不安でたまらないはずなのに、私はひどく落ち着いた気分で目の前の紅い目を見つめた。
「あなたに怪我なんてさせません」
無事に帰してあげます。
そうやって、凶悪な微笑みではなく、いつものように胡散臭く笑うから、私の心にまた何かが落ちていく。
無事に帰るのは、私だけ?
胸に溜まった息を吐きだしたら、竜車は止まった。
窓に映し出されたのは、どこともつかない森だった。
月明かりさえ届かないのか、木々に覆われていること以外には何も見えなくて、夜行性の鳥の声しか聞こえない。
「降りろ」
短い声と一緒に、竜車のドアが開かれた。同時に竜車の箱についている明かりが入れられたのか、辺りだけは明るくなって、げんなりする。
流行りなんでしょうか。
竜車の降り口から一列に並んで道を作ってる人たちは全員黒装束です。
悪魔は竜車が止まった時に明かりを消してしまったので、視界が悪すぎるんだけど。仕方なく悪魔の手を借りて降りることになってしまった。タラップの先すらよく分からない。
箱の中では上機嫌だった悪魔はあのハイテンションを潜めていて、いつもの何を考えてるのか分からない笑みを浮かべながら私の上着の襟に触れてくる。
「風邪を引くといけませんからね」
私は小さいお子さんですか。振り払うのも面倒なので、悪魔が整えるに任せていると脇に控えていた黒装束が睨んでくる。私がねだったんじゃありません。文句ならこの悪魔に言え。
悪魔は軽く私の上着の襟を整えて満足したのか、おっとりと黒装束達に向きなおる。
「それで?」
短い問いかけだったはずなのに、黒装束たちは明らかに悪魔に気圧された。何十人かいる彼らが、たった一人の悪魔に一瞬動きを止められたのだ。
アンタ達、きっと歯向かう人間違えたよ。
「お前はこっちだ」
ぼーっとしてるのが悪いのか、私はどこからか現れた黒装束に腕を掴まれた。いきなり何すんの痛い!
叫んでやろうと口を開くと、気温が一度下がった。
え、さっきまでこんなに寒かったっけ。
「―――人質のつもりなら丁重に」
傷でもつけるつもりなら、とうっすら笑った悪魔の顔を見てしまいました。
あなた、本当に悪魔だったんですね。
黒装束の兄ちゃんと一緒になって青ざめた顔でかくかく肯いて、私は一人暗い森の中へと連れていかれることになった。
正直ほっとしたのはご愛敬だ。
立場違いながら、残った黒装束たちに心の中で合掌しておいた。
雇われた君たちも大変だ。
これも運命だと受け入れるしか他にない。
だから、心の中から教えておいてあげよう。
あの人ね、情け容赦って言葉を爪の先ほども知らない人なんですよ。
しばらく黙って黒装束の兄ちゃんに連れられて行くと、森の少し開けた場所に頑丈な門構えの御屋敷に辿りついた。正面から外れた小さな扉を開けて入れと言われ、暗い廊下を伝って連れてこられた先は、
「……またこれか」
これまた薄暗い牢屋でした。
石造りのしっかりとしたなかなか広い牢屋で、カビ臭いけど寒くはない。ただ、じめじめする。燃料石の明かりの届かない場所には行きたくありません。
牢屋に連れてこられても泣きも叫びもしない私を不気味そうに見ていた黒装束には何も要求もしなかった。さすがにここでご飯食べるのは嫌だし、知らない人からご飯はもらっちゃ駄目だと学習しています。薄暗いのには悲しいかな慣れて怖くないけど、ここで寝るのは勘弁だわぁ。
溜息をついていたら、半地下の牢屋に小さな足音が響いた。
もう悪魔が来たのか?
でも、忍び歩きなんかしなさそうだ。
それに、何だか足音が軽い。
階段を降りてくる人影に目をこらす。
階段前の燃料石にぼんやりと照らされたのは、少年のようだった。
黒い髪を肩甲骨あたりまで伸ばしていて、年の頃は十五歳ぐらい。詰襟を着た彼は遠目から見ても育ちが良さげ。
少年は自分を眺めている私に気付くと、辺りを気にしながら私が閉じ込められている牢までやってくる。
鉄格子越しに見ると、私よりも背が低いがやたらと顔立ちの整った少年だと分かった。
「あなたが、ヨウコさん?」
どうして私の名前を、と尋ねる前に少年は真面目そうな印象のまま、礼儀正しく言ってくれた。
「私は、メルツと言います。ヘイキリング王の、弟です」
こんなところで何をしてるんだ。王子様。