体を失くした貴婦人
ロッテンマイヤーの記憶は、生体カプセルの保存液の中から始まる。
国境で起こった、ひどい墜落事故でほとんどの体の機能は失ったものの、奇跡的に脳の機能だけ残ったために文字通り保存されていたのだ。
彼女が拾われた先も良かったのかもしれない。
世界の魔術の叡智が集まるのが北国であれば、この南国には機械の叡智が集まる。
彼女が拾われたのは、南国だった。
北国であれば、人道よりも研究に重きを置く魔術師どもの研究材料にされてロッテンマイヤーの生は失われていただろう。
人道を第一とする南国であったからこそ、彼女は脳以外に残った数少ない体の一部と共に保存されたのだ。
しかし、彼女を再び元の形に戻そうという者はいなかった。
脳にわずかに残った事故の記憶では、すでに彼女に家族はなく、また名乗り出る親類も居なかった。
だから、カプセルの保存液越しに時折、彼女の様子を見に来る研究者以外と話すことはなく、そうして二十年の歳月を過ごした。
カプセルの中の栄養素のお陰で死ぬことは無かったが、ロッテンマイヤーは自身で動くことすらままならず、また、その様子は人間の嫌悪感しか生むことはなかったので、彼女を訪れる人も次第に減った。
そうしてほとんどの研究者にすら忘れ去られた頃、一人の男がやってきた。
研究者ではない。
南国で作られる眼鏡の調整でやってきたという彼は、ロッテンマイヤーのおぞましい姿にも眉ひとつ動かさず、それどころか無遠慮に話しかけたことを詫びさえした。
時々やってくる彼はロッテンマイヤーに色々な話を聞かせた。
家族のこと。
兄のこと。
それから、世界のこと。
彼が非常に頭の良いことはすぐに知れた。だが、それ以上に彼は孤独だということも次第に分かった。
人の重みで歪んだ世界。
魔術や知識に支配され、人形のように心を失くしていく人々。
それをまるで外側から見ているように、馴染めない自分。
憐れだと思った。
動く体もなく、親しい友人もなく、小間切れの記憶しか持たないロッテンマイヤーですら、彼を憐れだと思った。
同時に、ロッテンマイヤーにまで憐れに思われる彼のことは、きっと理解してやれないと思った。
そばに居てやることもできるだろう。話を聞いてやることもできる。
だが、ロッテンマイヤーは南国に生かされた世界の一部であって、外側の人間ではない。
だから、どんなに心を砕いたところで彼の孤独は癒されることはないことも分かった。
それでも、ロッテンマイヤーは彼にここから出してくれと頼んだ。
彼は何も言わずに頷いてくれた。生きている人間と変わらない機能を持つ生体擬態を用意すると言ってはくれたが、あえて軍用に強化された変形製鉄の機械人形の体を選んだ。
彼はロッテンマイヤー自身も忘れていた過去を調べて教えてくれはしたが、彼女は新たな体で祖国に戻ることをしなかった。
「マダム」
保存液越しではない彼はひどく若かった。
「敬称はいりません。旦那さま」
ロッテンマイヤーの応えに彼はわずかに苦笑した。
それから、また二十年の歳月が経った。
「おい」
静かに夜の暗い廊下を歩いていたロッテンマイヤーが振り返ると、青白い顔をした男が幽霊のように現れる。
「動いたぞ」
「そうですか。では、後のことはよろしくお願いしますね」
「分かった」
片言だけ喋って、普段は料理長を務める男は再びゆらりと暗闇に消える。
ロッテンマイヤーの熱感知すらすり抜けて消えた男を見送って、彼女は廊下を静かに歩く。
「―――門のところに人が来たよ」
普段の大人しい形を捨てた新しいメイドがはすっぱな、だがどこか兵士を思わせるような口ぶりで廊下の先からやってくる。
「十、二十、三十は堅いかな」
「予想の範囲です」
「言ってくれるね。おばさん」
「その言葉づかいはおやめなさいと言ったはずです」
ロッテンマイヤーの冷やかな視線を鼻で笑って、メイドは肩を竦めた。
「奥様の前じゃ、イイ子ちゃんしてるだろ?」
それに、とロッテンマイヤーを見上げた眼光は、大人しい少女のものではない。
「あたしはこういう時のために雇われたはずだ。他は見逃してほしいねぇ」
「すべてを含めた報酬です。別にあなたでなくとも良かったのですよ」
「何をしている。仕事をしているのは俺だけか」
静かに睨みあう彼女たちの後ろからずるずると何かを引きずる音と共にやってきたのは背虫の男だった。
ごつごつとした右手に掴んでいるのは、男の襟首だ。
「こいつも捕えておけとの、旦那さまのお言いつけだ」
軽々と廊下に放り出したのは、最近新しく雇った茶髪の従僕だ。
彼は暗闇でも分かるほど青白い顔で「許してくれ」と床にうずくまる。
「始終この調子で、連れてくるのに疲れた」
そういう背虫の男の腹には剣が根元まで突き刺さっており、剣先は背中を突きでていると思われた。だが、血は一滴も流れていない。
「その姿で捕えに行ったのですか」
表情は変わらないが呆れたようなロッテンマイヤーの声に背虫の男はふんと鼻を鳴らす。
「突然刺されたんだ」
言い訳じみた応えに、ただ単に抜くのが面倒だっただけだとロッテンマイヤーは目を細める。
「身形を整えて、次の仕事に向かってください」
「だったら」
背虫の男は大きく背をそらした。ゴキリと嫌な音まで立てて、骨を次々と外していく。そうして、顔の顎まで崩した彼の姿は、中年の陰気な男ではない。最後に腹に刺さった剣を抜き取るさまは、まるで薄気味悪い奇術師だった。
「行きがけの駄賃だ。外の人間は片付けておこう」
美しい彫刻のような男だ。
闇のように黒く長い髪を掻きあげ、にやりと口の端を上げる。彼は背虫の男だった頃の御者のお仕着せの上着を翻し、廊下の窓を開けるとひと飛びに夜の闇へと消えていった。
「魔物の類を見るのは初めてでしたか」
黒髪の男を呆前と見送っていたメイドにロッテンマイヤーが声をかけると、彼女は早口でまくしたてる。
「魔物!? そんなものが本当にいるっていうのか!」
「ではあなたが今見たことを説明してごらんなさい」
言葉に詰まったメイドをロッテンマイヤーは見下ろして続ける。
「あなたの見えている世界がすべてではないのですよ」
普段は御者をしているあの男は、この屋敷の主が連れてきた。北国から来たということだけしか知らないが、ふと漏らした話によれば、数百年を生きる人ではない者であるらしい。昼間は擬態しなければ動けないという彼は、この屋敷に来てからこのかた一つも姿が変わらない。
「さぁ、仕事の時間です」
新しいメイドは舌打ちをして、自分が背負っていた長いバレルのついた銃を構えた。
窓の外には、屋敷に入り込んだ招かれざる客がうごめき始めている。
主の計画では屋敷を襲撃させろということだったが、本当にめちゃくちゃにされるわけにもいかない。何しろ、後片付けをするのはロッテンマイヤー達なのだ。
招いてもいない客を見つけてメイドは口笛を吹いた。
「団体さんのご到着だ!」
あとは頼みましたよ、とだけ言い残して、床にうずくまったままの男を掴んで去ろうとしたロッテンマイヤーだったが、ふと思いついて足を止める。
「奥様の木一本たりとも、傷つけてはいけませんよ」
毎日のようにあの木の周りをうろうろしている新しい奥方の姿を思い出した。
何をするにも、ほとんど使用人に相談するということがないロッテンマイヤーの雇用主だが、何の前触れもなく花嫁を連れてきたことには、さすがのロッテンマイヤーも驚かされたものだ。それが、東国ではほとんど居ないという迷い人だというから、更に驚いた。
東国では迷い人の存在はそれほど世に知られていない。というのも、この国にはほとんど迷い人自体が居ないからだ。正確な実態は大則を守らなければならない王族や貴族のみに知らされているものだ。だが、迷い人の多い西国では慣習として周知されていると同時に、差別の対象でもある。
その西国からかすり傷一つ負わずにやってきたという、ヨウコ・キミジマという新しい主は、やはり風変わりだった。
目新しいものを見つけると子供のように飛びつき、冷酷非情として名高い夫に真っ向からケンカを挑む。当然のことながら、使用人たちには受け入れられなかった。彼女は女主人としては自由過ぎ、そしてお人好し過ぎた。
しかし、そんなまるで小さな少女のような彼女を、主はこれ以上ないほど甘やかす。
それが更に反発を生んだが、ロッテンマイヤーは夢のような心地だった。
かつて彼女のカプセルの前で世界に嫌われたと呟いた彼が、まるで親鳥のように彼女を慈しんでいたから。
今夜の計画は、すべて主の計画通りに進んでいる。
ロッテンマイヤーが今手にしている従僕は、招かれた裏切り者だ。この男を捕えれば、ロッテンマイヤーの仕事は終わりだ。
この男の先に居る人物との交渉は、主の仕事となる。
それでも。
「御無事で」
そっと呟かれた声は、暗闇に消えた。