荒縄と森
運が悪いけど平凡な人生、苦節二十四年。
怪我と犯罪にだけは巻き込まれたことがないのが唯一の自慢だったのに、こちらの世界にやってきてから命の危険にさらされ続けている。
どういうことだ。責任者出てこい!
猿轡なんて初体験ですよ。
それと荒縄ってマジで痛いんですね。今にも手足が真っ赤になりそうです。
男に抱えられたまま路地を抜け、その先に止めてあった荷馬車に乗せられて、ただいま真っ暗な森の中でございます。
光源はサバイバルな感じの焚き火が一つ。
野性味溢れるワイルドな顔つきの方々が焚き火囲んで私を遠巻きに眺めてお話合いされています。
「珍しい風体だから買い手ぐらいはつくんじゃないか? まだ子供だろ?」
「さらった後は好きにしろと言われていただろう? 面倒は避けろよ」
「そうは言ってもあんなはした金で割に合うかよ。国境超えて売っぱらっちまえばバレやしねぇよ」
物扱いも初めてです。
これといった抵抗もしなかったからまったくのお人形扱いで殴られもしなかったんだけど、どうやらこのお兄さんたち依頼で私さらったみたいだな。しかしお腹空いた。屋台料理食べ損ねたもんね。
「しかし大人しい娘だな」
私が座らされている木の向こうから、またワイルドなお兄さんが出てきましたよ。服は着物に近いけど、明るい茶髪と色々ついた貴金属が日本のチンピラ思い出します。
「縛ってるあいだにも悲鳴一つあげやしねぇ」
面白がるようにお兄さんが私を覗き込む。うわーおやっぱり今まで会った人たち規格外だったんですね。お兄さんたち私と身長近いもん。
品定めするみたいに顎つかまれてるからって現実逃避ではございませんとも! ええ!
「いっちょ、ヤってみるか?」
笑うとヤニが見えますねお兄さん。若いときからの喫煙は早死にしますよ。
「まぁ、好きにしていいとは聞いてるからな」
売る売らない言っていたお兄さんたちが一様にこちらに視線を向けてくる。
「娼館に売るにしたって味見したぐらいでガタガタ言わねぇだろ」
おいおいおいおい傷ものは安く見られますよ! というか無精ひげ剃れこの野郎!
茶髪の兄ちゃんも気安くヒトの太もも触るんじゃないよ!
耐えられなくなって思わず両足を振り上げる。
お兄ちゃんの急所に向かって。
「うお!」
私の思わぬ抵抗で兄ちゃんの手が顎から外れた。けれど、
「この!」
血がのぼりやすい兄ちゃんだな! あっという間に拳が振り上げられた。
まずい!
まともに殴られたら骨ぐらいは折れる。
だから全力で地面に自分から倒れた。拳は私のこめかみを強打するだけで倒れた衝撃の方が大きい。
あんまり勢いよく倒れたから左肩が馬鹿になったみたいだけど無視だ無視!
運よく木の向こうに倒れたけど、そんな私の上にお兄ちゃんが乗りかかってきた。とっさに足を抱えるように小さくなる。
「このアマ! 大人しくしてりゃあいいものを!」
そういう男尊女卑発言はよろしくないよ!
誰だって不条理には噛みつきたくなるもんでしょうが!
男の力で両肩をつかまれて、痛めた左肩が悲鳴を上げる。でも叫ぶもんか!
私は必死になって足の荒縄を掴んで、引き抜く。
人間やれば何でも出来るもんだ。薄皮と靴を巻き込んで荒縄から私の足はすり抜けた。
悪運強いな私。
全身の力を込めて私は押し込めようとしている男の腹付近に向かって足を振り上げる!
その足は、腹をそれて男の急所に決まってしまった。
そのまま足を起点に引き倒れてきた男の胸倉をつかんで、地面に寝転んでいる自分の頭の上の方へ男を放り投げる!
蛙が潰れたみたいな声でお兄ちゃん転がっちゃったよ。自業自得だこの野郎。
「おい何やってる!」
男たちがわらわらとこちらにやってくる。
この機会を逃してはいけない。
無我夢中で体を起こして、私は立ち上がると即座に走り出す。
「追え! 逃がすな!」
男たちの怒号が響く。
私は裸足のまま、暗い夜の森へと駆け出していった。
平坦に見える森は、案外走りにくい。
木の根は見えず、小さな小枝が足を突く。
どこをどう逃げていいのかわからず、けれど足を止めてはいけなかった。
運動不足の体を、無理やりに走らせる。
どこへ走っても不安だった。
しばらく走って、暗い洞のようになった草むらを見つけて飛び込むと、息を殺す。
腕の荒縄を外していると、男たちの気配がやってくる。今、猿轡を外せば、歯の根が合わないほどの震えがやってきそうだった。だから舌を間違って噛まないために、そのまま轡を噛むことにした。
きっと、探すのならこういう草むらを探すだろう。
こわばった体を叱咤して、私はさらに暗い場所を選んで、手近で一番大きな木に登ることにした。
落ち着いて、でも音を立てないように。
幸い裸足であまり滑らない木のようだ。
できうる限り高く、しかし私の重さで木の枝を揺らさない程度の太い枝を見つけて、幹の方へとしがみつく。
やがて、走ってきた方向から松明らしき光がやってきた。
木の葉に遮られて男たちの姿までははっきりと確認できないが、それならあちらもこちらをちゃんとは確認できないはずだ。
明るい緑色のアオザイは目立つだろうか。
彼らは私の服の色を覚えているはずだ。
少し迷ったが、私は服を脱いで木の枝にくくりつけることにした。
夜の森は寒い。
手足の感覚がなくなりかけるので、手に荒縄を巻きつけて滑らないようにした。
「おい、見つけたか!」
「女の足だ。そう遠くには行けないはずだ」
男たちの会話が足元にやってきては消えていく。
本当に、私はどうしてこんなことになっているのだろう。
何もわからず異世界に飛ばされ、同郷人には疑われ、殺されかけ、そして今度は追いかけまわされ、夜の森で凍えている。
私は、あの車に轢かれて死んでおくべきだったのだろうか。
そうであったなら、私はこんなにも理不尽なことにも巻き込まれずに済んだのだろうか。
こんな冷たい森の中で、死ぬこともなかったのだろうか。
すでに私の手の感覚はない。
木の幹にしがみついているのは、もはや動けないからだ。
ああ、お腹空いたなぁ。
私は切実でくだらないことに、小さく溜息をついた。