長椅子と狸
ああいうことがあったので、私の自由はほとんど無くなった。
というのも、
「暇なんですけど」
城勤めの旦那さまの仕事場まで連れてこられてしまうようになったから。
私の生かした黒装束を悪魔はにこにことどこかに連れていった。―――少なくとも、あの屋敷から出していない。警察の役割もあるらしい騎士も来ないから、通報していないのだ。
同じ屋敷に居て、どこに居るのか分からないのは気持ち悪いから悪魔に訊いてみたけれど「元気にしていますよ」と場所は教えられなかった。
どうなったんだろうあの黒装束。普通に結果が怖いんだけど。
「もう少し待って下さい。ゲームでもしましょう」
仕事中なはずなのに、のんびりと悪魔は笑った。
お父さんと呼んでいいかな。
黒装束をどこかに閉じ込めて帰ってきたこいつは何というか今まで見たこと無いほど、にこやかだった。やっぱり悪魔だ。
この悪魔はあの手この手で私をこの部屋から出さないようにしているので、私はここ数日のあいだ悪魔とにらめっこして過ごしている。昨日暇つぶしにやったボードゲームは悪魔の十勝一引き分けだったからもうやらない。どうやっても勝てないし勝負にならないことがよくわかった。
私は書類をちゃんと見ているのか次々片付けていく悪魔を見ながら、机の前のワイン色のソファで寝そべった。窓をかたかたとすっかり冷えてきた風が揺すっている。部屋に注ぐ日差しは暖かいけれど、窓を開ければきっと寒いぐらい。
この仕事部屋は要塞城の結構高いところにあるから、普通に地面で感じるよりもちょっと寒い。ええ、開けたんです。旦那さまが休憩に吸う煙草が嫌で。そしたら寒いんだよこの部屋!
私は大人しくここへ連れてこられる代わりに、悪魔に煙草禁止令を取引しました。だから屋敷から入れてきた冷めたお茶を飲みながら、閉め切った部屋で日向ぼっこしていられる。あの北の塔、そろそろ寒いんじゃなかろうか。有害銀髪も布団かぶってるかな。ここ数日は、あの有害銀髪に会いに行っていない。
「……私、何に狙われたんですか」
敵が多い悪魔なら、暗殺とかありそうだなと思ってたけど、目の当たりにしてこなかったのは、きっと、私には隠していたせい。
「知りたいですか?」
仕事を一段落させたらしい悪魔が席を立ってこちらにゆっくりやってくる。寝そべっていた私のそばに座ろうとするので、私は仕方なく起き上がる。向こうにも長椅子あるじゃないか。
悪魔は睨む私に笑みを一つ落としただけで、三つ編みまでゆったりと寛がせて裾の長いチャリムから覗くゆったりしたズボンの足を組む。足が長くてムカつきます。
「あまり」
足の長さを比べられるような気がして私はソファの上で小さく体操座りした。少々汚れようがしるもんか。ここ最近は、昼日中この部屋に閉じ込められているのだ。何だか鬱になる。
膝小僧に頬を乗せたら、隣から伸びてきた手が私の頭を撫でる。
悪魔がついでのように口にしたのは、私の質問の応えじゃなかった。
「少し髪が伸びたのではないですか?」
一度切って襟足が隠れるほどだった私の髪は、うなじを覆うほどになっている。そろそろ結うか切るかした方がいいかもしれない。
でも、私はそのままにしている。だから、時々こうして悪魔に頭を撫でられることになっているんだろうけれど、どうにかする気はあまりない。
私の頭を長い指が滑り、視線をやれば悪魔が胡散臭く笑う。
それがどういうわけか、気持ちを落ち着かせてしまうからだろうか。
「……怖いか、とか、聞かないんですか」
悪魔は私を気遣おうとはしなかった。
大丈夫、とか、守る、とか。そういう、私を安心させるようなことは何も言わなくて。
「怖くて当たり前でしょう」
あっさりと笑った。
「どうして、当たり前なんですか?」
「私も怖いからですよ」
にこにことして、楽しそうにしか見えないんですが。
「命を狙われて、怖くない者なんて居ませんよ」
「嘘つき」
「私はあなたに嘘なんかつきませんよ」
「その顔が嘘つき!」
「あなたに顔色を読まれるようになっては、私は商売できません」
確かに小娘に動揺を見破られるようじゃ、宰相なんて狸な商売は務まらんでしょうが。
「怖いなら、怖いと言ってください」
囁くように悪魔は溜息をついた。
「その方が、私は安心できます」
「―――どうして?」
長い指が私の頭を離れていくのを目で追ってしまった。
でも、悪魔はくすりとも笑っていなかった。
紅い瞳が私を静かに捕えて見つめている。
何故だか、動けなくなった。
私の息まで絡め取るような。
「私も、あなたの言うことなら信用するからですよ」
私の肺の残量を見計らうように、悪魔はいつものように笑う。
一本の糸の上に全体重を乗せるような緊張は一瞬だった。
余韻を吐きだすように息をつくと、体から力が抜けた。
思っていたよりも、緊張していたらしい。
そう思ったら、今度は眠気が湧いてきた。
「……どうして、王太子派から宰相になったのに、陛下を助けるようなことをしたんですか?」
うとうとと重い目蓋にあの日見た俊藍の私を悼むような顔が思い出された。
アンタは全然不幸でも何でもないのに、どうしてそんな顔をするの。
「―――生きるために必要だったんです」
ためらいもない短い答えが悲しくなった。
不幸なんて、世の中から全部消えてなくなればいいのに。
そうすれば、馬鹿なことばかりやって、楽しく生きられるはずなのに。
そのまま私は眠ったらしい。
目が覚めたら、書類片手の旦那さまに膝枕されていました。
「ぎゃあ!」と叫んで飛び起きたら、「気持ち良かったですか?」と微笑まれた。目覚めが悪すぎる。
悪魔が仕事を終えるのは、夕方のちょっと前だ。お弁当タイムを挟んで午後を過ぎるとひっきりなしに人がやってくるので、私は部屋の隅で小さくなって本を読んでいる。最初の日は悪魔の部下らしい人たちに不思議そうに見られていたけれど、最近じゃ悪魔のついでに挨拶される。
「可愛い奥様ですね」
「どんな本を読んでるのかな。おじさんにも教えて?」
「今度お菓子を持ってきてあげようねぇ」
私はどこの良い子ですか。
でも、私の頭を撫でようとする人にはすかさず悪魔がキラキラと効果音でもついてるんじゃないかっていうほどの微笑みで呼び戻す。何か、怖いんだけど。
そんな感じで仕事が終わると、私はお昼御飯の風呂敷を持って上着を着せられ、旦那さまと一緒に仕事部屋を後にする。鍵を閉める彼に、
「宰相って、会議とか無いんですか?」
私が来てからこのかた、この悪魔が会議や視察に出かけたことは一度もない。そういうので忙しいんじゃないのか。
でも、悪魔の旦那さまはにっこり笑って言いました。
「会議で決めるようなことを、即断できないような部下はいりませんから」
必要な折衝はするけど、無駄な会議はお嫌いなようです。うわぁ。敵が多いのも頷けます。それでも、どこへ行っても人当たりだけはいいもんだから、見た目には悪魔は八方美人だと言えた。少なくとも部下で嫌っているような人はいないように見える。
悪魔を嫌っているのは、あくまでこいつと根本的に主義主張が合わない人たちだけだ。
私も合っているとは言えない一人なんですが。
あー、悪魔と屋敷の人たち以外と喋りたいなぁ。
城に出てきてるのに、クリスさんともお喋りできないなんて。
「今日は、ガミュゼが大きな魚を仕入れてくるようですから。夕食のメインが楽しみですね」
ささくれだっている私の頭を大きな手の平が宥めるから、何故だか文句は出てこない。
代わりに私は口を曲げる。
慣れた事実が嫌なのか、それともこの扱いが嫌なのか。
その答えは、いつまでも出してはいけないような気がする。
帰る時間が違うのか、要塞城の前の車溜まりはいつも閑散としていて、竜車を待っている悪魔と私以外に今日も誰も居なかった。
やがて竜車の音を聞きつけて姿を探すと、御者に見慣れない人が座っていた。
茶髪の爽やか好青年、ヒンテンだ。
黒いマントを羽織った彼は私と悪魔の前に竜車を横づけして御者台を降りてくると、にこやかに「おかえりなさいませ」と言った。
「ベンデルはどうした?」
悪魔の、何気ない声がどこか針を含んでいる。
彼はさりげなく私の前に立って、ヒンテンを見下ろす。
「―――さぁ。脇腹を刺されて動けるなら、化け物だね」
えっ。
爽やかなはずのヒンテンの顔が凶悪に歪んだと思ったら、私は誰かに抱えられて竜車の箱目掛けて放り投げられた。
ぶつかる!
そう思ったら竜車の扉が開いて座席の間にどっと倒れこむ。
何なんだ!
「悪く思わないでくれよ。奥様」
痛む腕をさすって起き上がると、悪魔の後ろからヒンテンが顔を出して笑っていた。
「これも仕事だ」
「あ、あんたの仕事はお屋敷の雑用でしょ!」
言ってやったらヒンテンは目を丸くしてから、けたけたと笑った。
「奥様のお守りも確かに面白かったけどね」
そう言いながら悪魔に目配せして、短く「乗れ」と言う男は、すでに私の知っている彼ではなかった。
悪魔が私に手を貸して座席に座らせて、もう一度ヒンテンを見たら、彼の手には剣が握られていた。
「ごきげんよう。旦那さま、奥様」
いつものように微笑んだヒンテンによって、竜車のドアが閉められる。窓がどういうわけか黒く曇って外の景色は見えなくなった。
そうして、竜車は走りだす。
いつもなら低く聞こえる車輪の音すら聞こえない。
まるで箱だけが移動しているようだ。
辛うじて伝わってくる振動だけが、まだ竜車に居ることを思わせた。
悪魔が手を翳して魔術で明かりをつけてくれる。
私は混乱しているのにどうしてアンタはそう落ち着いているんですかさすが悪魔ですね!
ええと、状況を整理しようではありませんか。
ようは、私たち、
「誘拐されましたね」
ですよね。