ニートと落ち葉
気を失うように眠った私が目覚めたのは、翌朝だった。
屋敷のベッドに寝かされていた私が起きた時にはすでに悪魔の姿はなくて、身支度を整えた私を迎えたのは、ミセス・アンドロイドだった。
いつもならば何人かの使用人の人たちとすれ違うが今日はそれがない。
そうか。
理由は分かっている。
私は朝食を終えたら玄関ホールまで来るようミセスに言い渡されて、広いダイニングで一人朝がゆを食べることになった。薄く塩で味付けされたおかゆは冷めていて、どろりとしたそれがまるで鉛のようにも思える。でもそれを無理矢理お茶で流し込むように食べて、おぼつかない足で玄関ホールに出向いた。
大勢の人が並んでいた。
その人たち全員が私を睨みつけている。
それをどこか他人事のように眺めて、私は隣に並んだミセス・アンドロイドを促した。
「――――総勢二十八名が今日を持ちまして、お屋敷を辞すことになりました」
ミセスの応えを聞いてから、私は荷造りを終えて思い思いのチャリムや洋服に身を包んでいる人たちをざっと見渡した。彼らの名前はほとんど知らない。
人を人とも認識しない私はひどい雇用者なんだろう。
「短い間でしたが、お世話になりました。新天地に行っても皆さんお元気で」
私を睨んでいた女性の一人が舌打ちするように踵を返す。当然だ。
私の身勝手で辞めさせられるのだから。
ぞろぞろと屋敷から出ていく使用人たちを見送って、最後に執事だと名乗ったおじさんがチャリム姿で私に深く礼を取った。
「奥方様もご健勝であられますよう」
「ありがとうございます」
短く応えても、おじさんはやっぱりにこりともしなかった。
そうして彼が玄関のドアを閉めると、私の口から溜息が洩れた。
分かっていたことだ。
でも、笑わない人たちに笑顔を振りまくのは、想像以上に私にとってはストレスだったし、私はそれに耐えられなかった。社会人失格だ。ああもう働きたくない。ニートと呼んでください。
「―――本日はお休みになられますか?」
隣から平板過ぎる声が聞こえて思わず顔を向ける。
「―――あなたが一番にここを出ていくと思っていました」
私の意外そうな言葉にも、今日も麗しい家庭教師姿のロッテンマイヤーさんは神経質そうに目を細めただけだった。
「仕事に誇りを持てない者は、その仕事に従事するに値しません」
心臓を抉られるような言葉だ。
私は、これまで自分の仕事に誇りなんか持ったことはない。
食べるために働いて、生きるために食べるだけだ。誇りと矜持なんかでお腹は膨れないし、仕事はいつだって嫌いだった。
生きるために食べ、食べるために働き。
―――私って、文明人になれないのかもしれない。
「旦那さまはもうお城に行ったんですよね?」
「はい」
「じゃあ、今日は屋敷に居ます」
「はい」
はい、会話終了ー。
三日も周りの人がこんな感じだったら心が折れるって誰か共感してくれないかな。そしてまともに会話になるのはあの悪魔だけ。なんて環境!
「この屋敷に残ってる使用人の人たちって、どれだけ居ますか?」
しかしてミセス・アンドロイドは優秀で、私の一の言葉を聞けば十返ってくる。
「御者のベンデル、料理人のゲミュゼ、メイドのフェン、そしてわたくしの四名です」
実動人数、私含めて五人で、このおっそろしく無駄に広いお屋敷の管理か。帰ってきたらあの悪魔も使うしかないな。
私は、間違ったのかもしれない。
時間をかければ、私はお屋敷に馴染めたかもしれない。貴族ってやつになれたかも。
でも私の後ろに帰る道はなくて、やたら視界の悪い前に道が何となくあるだけだ。
人生、五里霧中。
後悔は先にやってこない。
もしもの話は、あくまでもしもの話であって、現実にはならない。
「よっしゃ!」
ぱーん!
思い切り自分の頬を両手で叩いてやった。
泣いててお腹が膨れるか? ノーだ。
落ち込んでて部屋が奇麗になるか? これもノー。
ふざけていても墓持ち土地持ち屋敷持ちのこの国の宰相さまと結婚してるから、食うに困ることはないだろう。足りてないのは人手と人望だ。それがすぐさま戻るわけでも返ってくるわけでも手に入れられるものでもない。
あの悪魔は一年と言った。
一年、悪魔と結婚生活をすれば元の世界に返してくれると。
私は、本当に帰れるのだろうか。
生きようとする意思を、本当は失くしかけている、この私が。
「それから大変だったんですよ」
お屋敷の使っていない部屋からかっぱらってきたクッションを座布団にして、私は石畳の上でお昼ご飯に作った卵のサンドイッチを広げて頬張った。パンは自分で焼いてみた。私が台所に入ることを固辞してた彼だったが、私の情熱に負けた (異世界の食事に興味はないかと脅したともいう) 料理長のゲミュゼさんと試行錯誤した成果です。
「貴族のお屋敷ってどうしてあんなに広いんでしょうね? 馬鹿じゃないですか? 毎日メイドさん達はあのお屋敷の窓という窓を拭くんだそうですよ。あんな辺鄙な場所に建ってるお屋敷の窓なんか誰も見ないって! 使ってない部屋も月イチで掃除するっていうんだから、脱帽ものですよねぇ。あ、でも発見もしたんですよ。だだっ広いだけの庭ばっかりだと思っていたらそれは外庭ってやつで屋敷の中側にある内庭は料理長が農園やっててですね。草抜き手伝ったら野菜食べさせてくれるっていうんで、これから毎朝農作業ですよ。朝の五時起き。えーとこちらの時間だと、」
「辰の刻ですね」
「そうそれ」
相槌を調子良く打ったはずなのに、目の前の銀髪は溜息をついた。なんだよ。サンドイッチはあげないよ。
昨日、使用人たちを解雇してから本当に大変だった。まずあのミセス・アンドロイドとコミュニケーションを図るのが大変。あの片言で喋る彼女から、お屋敷での仕事を聞きだすのは一苦労だった。一を言えば十応えてくれるが、それはこちらが質問した時だけだ。質問は私が考える必要がある。それから御者のベンデルさんは言うまでもなく、料理長のゲミュゼさんには参った。台所は奥様の入るところではないの一点張りで、昼食前の一番の空腹を抱えたままあの手この手で了解を取るのは馬鹿みたいに大変で、ようやく夕食のときに中庭の農園のことを聞きだして取引条件として草抜きを買って出たのだ。メイドのフェンはこの屋敷に来て、というか奉公自体が初めてとかで新米中の新米で洗濯も薪割りも出来ない。だから私と一緒にミセス・アンドロイドのお掃除レクチャーを昼間中受け続け、二人揃って音を上げた。あの悪魔が本気でベッドの上でマッサージしようとするほど (もちろん蹴って断った) 体も悲鳴を上げた。 (実際に悲鳴も上げた) そういうわけで、今日は休養しろと無理矢理、旦那さまに城に連れてこられたので、有害銀髪をからかいに……面会にきた次第。
「どうして、私はあなたの平凡な日常を聞かされなくてはならないんですか」
「暇そうだから」
有害銀髪は疲れたようにまた溜息をつく。幸せ逃げるよ?
「もう来ないでください」
「いいじゃない。あなた暇だし」
「罪人は時間を浪費することも、罰の内なのですよ」
真面目に言われて何となく驚いた。
「罪の意識、あったんだ」
銀髪はあからさまに機嫌を損ねて口をへし曲げた。唯一の美徳のお綺麗な顔になんてことを。
「―――あなたに言われる筋合いはありません」
そうかもしれない。
北の塔と呼ばれるここには各階に一つしか牢屋はなくて、今のところこの塔に入っているのはこの有害銀髪だけだ。
何階まであるのかは知らないが、有害銀髪の独房は最上階に近い。窓は一つしかなくて、外の景色は空だけで、聞こえるのは刑場の鐘の音だけ。
こんな場所、一週間もいたら私だったらどうにかなっていそうなのに、この有害銀髪は以前と変わらず私をそこらの野良猫を眺めるような視線のままだ。
本来なら、あの悪魔もここに閉じ込められていたはずなのだ。
宰相といってもどんな仕事をしているのか知らないが、あいつは犯罪者だ。そんな犯罪者と結婚した私は、あいつと同格か、それ以上の愚か者か。
いずれにせよ、私は自分が生きるためにあの悪魔を利用している。
それが罪なのか、罰なのか。
サンドイッチを食べ終えて、ミセス・アンドロイドに用意してもらった水筒のお茶を飲む。こちらでの名前は知らないけどいわゆる竹水筒です。栓に口をつけると、お茶が心なしか甘い。昨日のおかゆに続いて今朝も、あまり食べられなかったことを見られていたんだろうか。
前の私だったら感謝するだけだったのに、今は、優しくされたらどうしていいのか分からなくなる。
黙って私の様子を見ていた有害銀髪は、ふと息をついてこちらを今度は睨んできた。
「何を中身のない頭で悩んでいるのか知りませんが」
一言余計な銀髪だ。
睨み返すと鼻で笑われた。くそ。有害のくせに。
「あなたは図々しく生きていればいいのですよ」
生きて?
「―――本当にそれでいいの?」
口を突いて出た言葉はもう戻らない。
過去は、何も戻ってはこないのだ。
何を、良い気になっていたんだろうと思う。
伯爵に養子に望まれて、カルチェに感謝されて、ステファンを北国に連れて行って。
何もかも上手くいきすぎていたんだと思う。
「アンジェさん達も、バーリム先生もセルジュワ先生もみんな死んじゃって、私だけあの悪魔に生かされて、それで本当に良いっていうの?」
何も、自分の力では解決できないくせに、偉そうなことばかり言って、頑張って。
「だからといって、あなたが死んで何か意味があるのですか?」
有害のくせにやたらと澄んだ碧眼が私を見つめてくる。
「死んだ者は返らない。たとえあなたが悪魔に魂を売ったとしても、人ひとりに購えるものではありませんよ」
悪魔に一切合財支払って願ったところで、叶わないこともある。
もう返らないから人はそれを惜しむのだ。
返らないと分かっていても生きている者を憎んで恨んですら、返せと願う。
私のせいじゃない。
何度も言われて悲しくなる。
だって、それは私には見えない罪を示すことと同じだから。
結局私は、有害銀髪に何も言い返すことが出来ずに、荷物をまとめて北の塔を出た。
要塞城の端にあるこの北の塔には、ほとんど人は近付かない。人が居るのは独房の出入り口にある不気味な看守の詰所だけで、あとは罪人の有害銀髪だけ。
人の少ない塔だというのに、外の風が少し冷たかった。
塔の下まで降りると林に囲まれているので、落ち葉で彩った木々が見える。もうじきあの葉も落ちるのだろう。
死刑囚の収容される独房からも回廊で離れている北の塔は本当に孤立しているので、今やあれが銀髪の家に見えるのだから不思議なものだ。
何気なく回廊の先に視界を戻すと詰所に続く廊下の暗がりに、人が居る。
あの看守だろうか。
でもその人は、私を見つけたらしく、あのひょろりとした看守ではありえないしっかりとした足取りで回廊へと向かってくる。
新しいマントを羽織った詰襟姿のその人は、声がようやく届くかというところで立ち止まる。
「葉子」
静かに呼ばれて泣きたくなる。
これだから、空気を読まない男は大嫌いだ。
艶やかな黒の髪をゆるく結ったその人は、私を湖面のような青い瞳で見下ろしてくる。
「……俊藍」
今、このときだけは、会いたくなかった。