ココナッツとパンナコッタ
「まったく、悲しいことだよ。自分の娘に忘れられているなんて」
何所かアジア風味な東国の屋敷の中にあって、三つ揃えのフロックコート姿の優雅な紳士はその容姿に似合いの仕草で手に取ったティーカップのお茶をすすった。何だか浮いてる。
まだ養子になることも肯いてないうちから砂漠に一人放り出された私は悲しくないとでもいうのだろうか。
生きてるから、まぁいいけど。
でも、そういえば伯爵とこうして目の前で話すのは久し振りだ。最後に顔を見たのは砂漠に居る時だったから、三か月は経つのかな。西国語で話すのも久しぶりだった。
客間のソファを、お客さんである伯爵に勧められるまま伯爵のはす向かいに腰かけて、控えていたミセス・アンドロイドにお茶を入れてもらった私は、ようやく自分も目の前のお茶を飲んだ。帰ってきたばかりだし、ここのお茶は緑茶に似ていて好きだ。お茶受けのココナッツによく似た木の実をすりおろして団子にして揚げたお菓子は、悪魔の家で出てくるお菓子の中で私の一番のお気に入りになっていた。乳白色の丸い団子は口に入れるとほのかに甘くて口の中で雪みたいに溶ける。
「―――君の順応能力の高さは一目置いていたがね」
お菓子を食べていた私を見ながら、伯爵はのんびりと籐に似た蔓で編まれた造りのソファにぎしりと凭れかかる。
「楽しくやっているようで、安心したよ」
楽しい、のだろうか。
よく分からない。
そう答えたら、君らしいねと笑われた。
私らしい?
何だか中学生みたいな質問をしたくなる。
私らしいって何だ。
「……今日、知り合いの人が死刑になりました」
お葬式なんかから帰ってきたらだと塩を撒いたりするけど、そんなことをする気にもならなかった。
お化けの類は総じて苦手だけれど、バーリム先生のお化けなら怖くない気がする。
伯爵は「そうか」とだけ呟いて、カップをテーブルに置く。
それ以上は何も言わないで、ソファに深くもたれかかったまま手を組んで目をつむってしまった。
私はそんな伯爵を見ていたけれど、何となく客間の大きく取られた窓に目をやった。
この客間は何といっても日当たりがいい。そこから見えるのは、何の面白味もないサバンナ庭なのだが、それも目に慣れてくると寒々と広くていっそ清々しく見えるから変なものだ。この東国の建物様式と西国の建物はよく似ているけれど、少し違う。西国は、バロックとかそういう様式だけど、東国の建物はいうなれば、明治時代の和洋折衷の洋館といった風情がある。だから、装飾も東国のものは派手だけど何所か懐かしい細かい装飾が多かった。西国は総じて明るい木目の木の家具が中心だったけれど、東国では椅子にしたって、木というよりも籐だったりするし、高そうな家具は黒壇みたいな深い色合いのものだったりする。
「――― 一度、私たちと一緒に西国に帰るかね?」
どれぐらいそうしてたのだろうか。
黙りこんでいたはずの伯爵がおもむろに口を開いた。
「君は、東国にしがらみが多い。ここで心やすらかに過ごせるとは思えない」
指摘されて、ああそうかと思う。
確かに、短い期間しか居なかったけれど、この東国には私のしがらみが多い。
楽しい思い出半分と、辛い思い出と悲しい思い出のほとんどがここにある。
今度は私が黙りこんでしまうと、伯爵は小さく息をついた。
「……私が、偉そうに言えることではないのだがね」
黙って伯爵の顔を見ると、彼は苦笑した。
「結局、私は、彼に君を預けることに頷いたのだからね」
彼、とここで挙がるのなら、
「―――伯爵は、私があの、トーレアリング宰相と結婚することを知っていたんですか?」
私の問いかけに伯爵は肯く。
「君を妻に迎えたいと養い親として承諾を求められた」
どこまで根回しすれば気が済むんだ。あの悪魔は。
でも私の呆れ顔に伯爵は顔をしかめる。
「あの時、誰も君を守ることはできなかった。―――我々の敵であったあの男以外」
敵、と聞いて私は目を瞬かせた。
何の事だ。あいつはまた何をやらかした。
頭を抱えたくなった。
伯爵は飄々としていて、誇り高い人だ。矜持を食べて生きてるような人に敵と言わせるなんて、何をした。
「えっと……あの、あの悪魔が何をしたか知らないんですが、一応、妻として謝罪いたします……」
目を泳がせながらの謝罪だったが、伯爵の片眼鏡で目を丸くしていた。え、あの不肖の悪魔のために土下座でもしろと。そこまで義理はないよ。
ヨウコと呼ばれて頬が引き攣った。勘弁してやってください。
「君は、あの男が憎くないのかね?」
「大嫌いですが」
おっといけない。思わず本音が。
伯爵が呆れたようなお顔だ。えええ。何かまずいこと言った?
「君を辛い目に遭わせたのは、ほとんどがあの男の、ラウヘル・小雪・トーレアリングが元凶だよ」
ええ。だから、
「嫌いですってば。人を小馬鹿にしたみたいな態度も、あいつの吸ってる煙草も嫌いです」
ついでに言うなら、女性の萌ポイントも違うから根本的に性に合わない。ここまで趣味が違うんだし、好きに過ごしていいと言ったんだから、放っておいてくれてもいいはずなのに、あの悪魔は私にかまって、約束までする。
「……憎いと言ったら、会ったら罵倒したくなるのは、実は西国の王様なんです」
私は頭のいい方ではないので、裏で糸を引いてたのが全部あいつだと言われても、あまりピンと来ないのだ。
「私の家族を最期に斬り裂いたのは、アウトロッソ陛下です」
もう妖精として意識のなかったアンジェさんだったけれど、きっと彼女は確かに私を守りに来てくれた。その彼女を切り裂いた。
「あの悪魔が引き起こしたことが原因で、私は大変な目に遭わされたみたいですし、いつだって殺そうとしていたと、初めて会った時に言われました」
それがいつだったかなんて知らない。でも、
「東国に連れてこられた時に、私を一番に疑ったのは北城宰相でした。他の人たちはみんな彼の言いなりで、命令一つで殺されるだろうってことは分かりました」
そもそも、あの社長の車に轢かれそうになって、こちらの世界に落されたのだ。私にしてみたら、社長が元凶と言ってもいい。
「誘拐されて殺されそうになりましたし、東国王陛下を狙った刺客に殺されそうにもなりました。陛下が私を魔女の所に置いていったから、私は戦場でも殺されそうになりました」
こう並べてみると、きっとあの悪魔は初めて会った時の言葉どおり、私をずっと殺そうとしていたのだと思った。
「砂漠で死にそうにもなりましたし、北国でも殺されそうになりました」
砂漠で置いてきぼりにされるわ、変態魔術師にホルマリン漬けにされそうになるわ。
……どうしよう。何だか目に汗が。
でも、
「変なんです」
並べてみればみるほど、何だかおかしい。
あの悪魔のことだ。
いつだって、本気で私を殺そうとすれば出来たはずなのだ。
それが、私は五体満足で犯されもせずにこうして東国で妻なんかやってる。
「あの悪魔が本気なら、私はすぐにでも殺されているか、元の世界に帰っていたはずなんです」
私との約束なんて、破ろうと思えばいつだって破れる。
そばに居ると約束した。
そんな、子供との約束みたいなことを、守るなんて思えない。
私を懐柔したところで、何が変わるわけでもない。
私は、何もできない皆の厄介者で、誰かにいつだって守ってもらわなくちゃ生きていられない面倒な人間だ。世間知らずだし、不愉快だけどお人好しだってことも何となく分かっている。私を騙すなんて容易いことだろう。
だから、
「あの悪魔が、私を騙したりする理由が見当たらないんです」
計画に邪魔なら、私を自分の側に置く理由ではないはずだ。
思い返せば思い返すほど、私の旅は不可解だ。
何だか、うまく進み過ぎているような。
でも、その理由を知ったら、私はお腹の中に落とした幾つかの言葉に名前をつけなくてはならないような気がした。
頭が混乱してきた私をじっと見ていた伯爵は、長く溜息をついた。
やはり君はお人好しだ。
そう言って口の端を上げる。
「悪魔のお守りに飽きたら、いつでも帰ってきて良いよ」
実家に帰っていいのは、結婚何日目からなんだろう。
夕方の、いつもより早い時間にお帰りになった悪魔こと旦那さまは、突然の舅の訪問にもまったく顔色を変えることなく歓迎の言葉を述べた。
そういうソツのなさはいったいいつから身に付くものなのだろうか。生まれつきだったら、私はもう手遅れだ。
夕食はいつもよりも少し豪華で、ちょっといいお酒も出た。鳥の丸焼きに始まり、色鮮やかなサラダや盛り合わせが長いテーブルに並んで、いつもなら伯爵の脇に控えているガリアさんも今日はお客様ということで私の隣に並んで座ってくれた。美人は食べ方もお綺麗です。久しぶりの美人の隣は癒されます。
伯爵は西国とは違う料理を如才なく屋敷の主人に褒め言葉を述べて、悪魔が帰ってくるまでに聞いた敵対関係とかいうあんまり和やかでない話とは裏腹に、少なくとも私の目には始終和やかに進んだ。
お酒も、私の好きなピンクのお酒から青や緑や色とりどりのお酒が勧められた。飲んだことないお酒もあったから、私はついつい端から順にチャンポンしてしまった。
だから、いつもだったらふわふわするぐらいの頭が今日はぐらぐらする。いかん。お客様が居るというのに飲み過ぎた。
「ヨウコさま、今日は早めに休まれては?」
ガリアさんにそんなお気づかいまでされる始末。
結局私は、パンナコッタに良く似たデザートを食べ終わってから席を立たせてもらうことになった。……すみません。調子に乗りました。
寝支度もそこそこに、私はミセス・アンドロイドに促されるままベッドに寝転がって重い目蓋を閉じた。
夢は、見なかった。