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とりかえっこ漫遊記  作者: ふとん
132/209

お菓子と約束

 思い出の中の彼らは、いつも笑っている。

 悲しい顔は一つも見当たらなかった。

 

 ただ、もうこの思い出を持っているのが、私だけになってしまうという事実が悲しいだけで。




 ふと、苦い香りが鼻をついた。

 それで私は、自分が夢から覚めたのだと知った。

 香りに揺り起こされるような感覚で目蓋を開けると、月明かりに照らされた部屋にゆっくりと煙がけぶっていた。

 部屋の暗闇にうっすらと溶け込んで消えていくそれを眺めていたら、ベッドの端に腰かけていたらしい人がこちらを向いた。

 その人は、細いパイプから口を放して紅い視線をこちらに落とす。


「―――起こしてしまいましたか」


 静かな声でそう言って、彼はパイプを片手にベッドから立つと、近くの窓をそっと開けた。

 いつもなら文句を言い募る煙の香りがどういうわけか、私の気分を落ち着かせていて、長い三つ編みの人をぼんやりと眺める。

 私の視線に気付いたのか、彼は私の寝ているベッドまで戻り、再びゆったりと腰かけた。

 改めて見ると、彼はいつものチャリム姿のままだ。夕食のあと、何所かへ行っていたのだろうか。

 寝起きのせいか、煙草の煙のせいか。ぼんやりとしたままの私をしばらく眺めていた彼は、らしくない優しい手付きでそっと私の頭を撫でた。冷たい指が私の髪の上を滑り、更に私を落ち着かせていく。


「……夢を見たの」


 小さな子供のように脈絡のない言葉を紡いだ私に、彼は静かに「どんな」と尋ねた。


「アンジェさんとセレットさんと、リカインド先生と、ヴェイユさんと、スクリームさんと一緒にケーキを食べた夢」


 何も言わないで、私の頭を冷たい手が撫でていく。


「今年初めてのキュルのケーキで、とても美味しかった。甘いものが嫌いなバーリム先生も、スクリームさんの作ったケーキだけは食べるんだって」


「そうですか」と冷たい手は微かに笑ったような気がした。


「バーリム先生の部屋はいつも汚くて、いつも片付けを手伝わされていたの。でも、終わった後は決まってお菓子をくれるの。あの人、私が五歳かそこらの子供だと思っていたんだと思う」


「それは酷いですね」


「でも、くれるお菓子はいつも美味しかった。だから、アンジェさんとセレットさんと、リアミスさんと分けて食べて」


 思い出は尽きなかった。

 もう、あの人たちは居ないだけで。


 あの場所も、もう無いのだろう。


「私、騎竜の世話するの好きだった。それと、ヴェイユさんが大事にしてた畑作業も楽しかった。目をつけられてたけどバーリム先生の授業も面白かったし、ヨアヒム先生のテンションも嫌いじゃなかった。ヨルダおじさんの昔話も面白かったし、セレットさんにレース編み教えてもらうのは苦手だったけど楽しかった。それから」


「葉子」


 楽しかったのだ。本当に。

 だって、


「家族だったの」


 家族みたいだと思っていた。

 私は長女で、あまり甘やかされた経験が無かった。両親は人並みに愛情を注いでくれたんだろうけれど、それをありがたく思うには私はまだ幼かったし、私は人並みに長女として育てられていたから、甘やかされるというよりも我慢しなさいと言われる方が多かった。

 だから、十一人のお兄さんやお姉さん、三人のお姉さんたち、それからたくさんの妹たちに囲まれた生活はまるで大きな家族の中に放り込まれたようで、楽しかったのだ。

 私は迷い人だけれど、あの屋敷ではそんな事実は二の次で、決して一人ではなかった。

 淋しさなんか感じなかった。

 たとえ、歪んだ計画の中の、間違った家族の形であったとしても、私はあの屋敷での生活を忘れはしない。

 一人じゃない。

 そう思わせてくれたのだから。


 一人となってしまった私の、確かな心の支えになった。


「葉子」


 静かな声が私を撫でた。


「私はそばに居ますから」


 嘘だという言葉が、何故か喉元にひっかかる。

 代わりに漏れたのは、


「本当?」


 冷たい指は髪を滑って、私の頬をゆるやかに撫でる。


「ええ。約束しますよ」


 甘やかすような言葉とは違って、声は静かだった。


「私は、あなたのそばに必ず居ます」


 離れたり、置いてきぼりにしたりしない。

 そう呟く声が優しくて、私は目を閉じた。


 まどろみの中で、静かな声が泣きたくなるほど優しい声で言った。


「―――兄のために泣いてくれて、ありがとう」










 翌朝、曇り空を睨みながら起きた私は、すっかり身形を整えて涼しい顔をした旦那さまに尋ねられた。


「今日は、城へ行きますか?」


「行きます」


 今日は、行かなくてはならない。

 それが、どんなに苦しくても、私は見届けなくてはならないと思った。


「あの」


「何ですか?」


 着変えるために部屋を追い出しかけた私を振り返って、悪魔はいつものように飄々と返してくる。

 だから、私は次の問いかけをまた腹の中に落さなければならなかった。


 昨日の夜、私の頭を撫で続けてくれていたのは、どうしてなのか、と。



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