遺伝子と冒険譚
やがて、日の光の傾きが変わる頃には、私は石床の上に座り込んでいた。
バーリム先生は、いつもの調子でやめなさいとたしなめたけれど、別に汚れても構わないおばちゃんチャリムだ。気にしないでもらうことにした。話は長いから足が棒になる。
「―――では、あなたはトーレアリング宰相の奥方になったのですか」
看守が一向に様子を見に来ないことをいいことに、私は自分の長い冒険譚 (不幸譚とも言う) をかいつまんで聞かせた。聞き終えた先生は呆れ顔で感想を述べてくれる。
「波瀾万丈というのか、あなたはつくづく妙な星の元に生まれてきたようですね」
「―――他人に指摘されると実感が湧くのでやめてもらえませんか」
とりあえず、白チャリムの呪いは悪魔と結婚したからチャラになったと思いたい。
「しかし、ラウヘルがあなたとねぇ」
こちらも独房の中で床に座り込んだ格好の先生は、呆れたような納得するような顔で立て膝をついた足の上にだらしなく腕を乗せる。
「バーリム先生は、えーと旦那さまとお知り合いなんですか?」
「いつも、旦那さまとは呼んでいないようですね。いったい何と呼んでいるのだか」
なんだなんだ、ドエス協会でもあるのか。あの悪魔が会長で、このバーリム先生が副会長とか。
「私はラウヘルの兄です」
え。
「えええええええ!」
「そこまで驚かないでください」
「いえ、納得しました!」
思わずそう返すと、今度はバーリム先生の方が微妙に押し黙ってしまった。なぜ。
少し息をついてから、先生は続けた。
「私の正式な名前はバーリム・らくえん・トーレアリング。騎士団では母方のエヴァ姓を名乗っていましたが、ラウヘルとは腹違いの兄弟ですよ」
腹違いでもドエスの遺伝子はしっかりと受け継がれるらしい。
「私たちの父は艶福家でしてね。愛人の一人に産ませた子が私というわけです。ラウヘルは正妻の子です」
ということは、
「あなたは私の義理の妹というわけですか」
魔のドエストライアングルに落ちた気分です。
世間って狭い! もっと広がってもいいと思う。
でも、それって、
「―――実の兄を、見捨てたってことなんですか」
私が顔を上げると、先生は困った子供を見るような眼で微笑む。
あの悪魔が、バーリム先生と有害銀髪ハイラントを使って、アンジェさん達を炎の妖精に変えたのだ。
それを、
「私を死罪と決めたのは、陛下です」
目の前が真っ赤になりかけた私の耳に、まるで水を注ぐようにバーリム先生は静かに言った。
「嘘ではありませんよ。目の前でそう告げられたのですから」
王なら、あの暴走は罰してしかるべきだろう。
でも、
「私はね」
先生は私の困惑をなだめるように、ゆっくりと口を開いた。
「愛人の子であったために、父にはトーレアリング家としては扱ってもらえませんでした。ですから、私は騎士団に入った。家督の継げない者は己で身を立てるしかありませんからね」
先生は、反対されたという。
お母さんは愛人の子とはいえ、長男である先生に家督を継がせたかったらしい。
「それを、ラウヘルが説得してくれたのです。……まぁ、あの弟のことですから、脅迫まがいのことも交えながらでしょうが」
ああ、まぁ。悪魔だし。
妙に納得した私を見つめて、バーリム先生は笑った。
「それまでお互い大して仲が良いわけでもなかったのですがね。あのことには、私は彼にとても感謝しているのです」
たった一度、それだけのことで命を賭けられるのだろうか。
私の疑問が顔に出ていたのか、先生は笑みを消して少し目を細める。
「―――私には、ハイラント少尉からの指示だけで、ラウヘルが関わっていることなど知らされてはいませんでした。ですから、私が隊員の選別対象になったことが、彼が関わっていたのか、預かり知らないことなのか、それは分かりません」
ただ、と先生は呟く。
「身内の贔屓目なのかもしれませんが、私がハイラント少尉の選別対象になったことをラウヘルは知らなかったのではないかと思っています」
まさか。
「……どうして、そう思うんですか?」
あの悪魔の知らないことなどあるのだろうか。
「さぁ。贔屓目ですから」
バーリム先生は応えてくれる気はないらしく、余裕たっぷりに笑うと、
「あれでいて、ラウヘルは不器用な男なんですよ」
「不器用……?」
あれだけ小器用に何でも出来て、不器用。
真の不器用さんに刺されると思うんだけど。
不満顔の私をバーリム先生は小さく笑う。
「口先ばかりで、不器用な男です。―――本当に」
あんまり優しく先生が笑うので、私は少しだけ不満を呑みこんだ。
家族、なんだ。
先生と、あの悪魔は。
「兄の私は、ただひたすら愚かな男です。似た者兄弟なのでしょうかね」
自嘲するように口元を歪ませたと思ったら、先生はからかうように私を見た。
「あなたもとんでもない家に嫁にきたものですね。これから大変ですよ」
「結婚して初日に後悔しました」
後悔ってたまには先に立って欲しいものだ。
バーリム先生はよほどおかしかったらしく、ひとしきり笑ったあと、優しいあの笑みを口元に乗せる。
それから、私たちは屋敷であったことをあれやこれやとただ楽しく話した。
もう、すでにこの世にない人たちのことを、自分の記憶に書きつけるように。
気がついたときには、日が傾いていて、恥ずかしいことに私のお腹が鳴った。
そういやお昼御飯食べてない。
私のお腹の虫の叫びが聞こえたのか、バーリム先生は小さく笑いながら、「もう帰りなさい」と告げてきた。
そうさせてもらった方がいいのかもしれない。
悪魔が迎えに来ると言うと、先生も立ち上がって私を見下ろして微笑んでくる。
「出来の悪い弟をよろしくお願いします」
「―――善処します」
「結構」
バーリム先生は満点をとった生徒に向けるように、満足そうに微笑んだ。
「先生」
再び先生を呼んだ私の耳に、今まではことりともしなかった廊下から足音がやってくる。あのお化け看守だろうか。
バーリム先生も気付いたのだろう。そちらに視線を少し向けてから、私を促すように見つめてくる。
「バーリム先生って、アンジェさんのこと好きだったでしょ」
無精ひげに囲まれていても美しい双眸が少しだけ丸くなって、微笑んだ。
「秘密ですよ」
いつもの微笑みが、どこか照れていたような気がして私は満足した。
アンジェさんの言葉を伝えた時に悲しげに微笑んだのだ。
先生は、きっと、アンジェさんを愛していた。
迎えに来たのはやっぱりあの看守で、私と先生が何を話したのかも聞かないで、出入口のある詰所まで連れて戻ってきた。
「あの」
退出のサインをしろと促されてペンを持たされた私が顔を上げると、お化け看守は今にも死にそうな顔で「何ですか」と応えた。
「ここで死んだ人のお墓ってどこにあるんですか?」
私が会えたのはバーリム先生だけだ。せめてお墓だけでも挨拶に行きたい。
「ありませんよ」
「え?」
「死刑になった罪人には、個人の墓はありません。死体は焼かれてまとめて共同墓に葬られるんです」
そんな。
返す言葉をなくした私に、死人顔の看守は続けた。
「バーリム死刑囚の刑の執行は明日ですから、明日なら供養する神官にくっついていけば、顔ぐらいは見られるんじゃないですか」
誰かを訳もなく罵ってやりたくなった。
誰も、私には教えてくれなかった。
どうして、実の兄を助けないのか。
「―――葉子」
詰所に現われた、鉄格子の向こうの似て非なる兄弟を見た途端、叫び出しそうになった。
でも、どうしても言えなかった。
助けてと、誰も言わなかったから?
いや、違う。
それでも助けてほしいと、どうしても私が言えないからだ。
どうして、こんなに弱いんだろう。
どうしてこんなに、私は醜いんだろう。
バーリム先生は、私に笑ってくれたのに。
悔しくて、たまらなくて唇を噛んだ。