傍観の青年
怒りとも、悲鳴ともつかない叫び声が上がったと思えば、彼女の体にぼんやりと青い明かりが吸い込まれた。
すると、今まで荒々しいまでに怒り狂っていた彼女の細い体がベッドの上に落ちた。そして呼吸が整ってきたかと思うと、安らかな寝息を立て始める。
拘束していた手を放すと、くっきりとした跡がついていた。
長い旅をしてきたというのに思いのほか白い腕に赤く残ったそれは映えて、痛々しい姿だというのに美しくも見えた。
白いシーツに散らばった黒髪は月明かりの影に落ち、反対に着物の広く開いた襟から覗く白い乳白色の肌は月に溶けるようだ。
泣いていたことにも気付かないほど、彼女は激昂していた。その涙の軌跡さえ、きっと舌で辿れば甘いだろう。
クルピエの喉が思わず生唾を音を立てて呑む。
初めて出会ったころから、年上の女性とは思えない容姿だった。
まるで少年のような格好の彼女は普段であれば、ほとんど女性にも見えない。
だが、隣に立つと分かる細い肩、女性としては低い方だろうが柔らかな声。クルピエの手の平にすっぽりと納まる小さな手。物怖じしない物言いが理屈っぽいというのに、どこか抜けていてそれが愛らしい。
そんな女性が、クルピエの真下で女の体を晒して月明かりに浮かんでいる。
それだけで、男の好奇心と支配欲を我慢ならないほどくすぐる。
彼女は分かっているのだろうか。
自分が、どれだけ男たちの心を掻き乱しているのか。
「わかっていないのでしょうね…」
無理矢理、快楽を引きずり出して分からせてやりたくなる。
そんな男の体の下の彼女は起きる気配もなく、まるで子供のような顔で寝入っている。
その清らかな寝顔を汚すことが出来るなら。
「ヨウコさん」
再びクルピエはまろみを帯びた頬に手を伸ばした。
だが、
「くっ!」
バチ!
手はあっさりと弾かれて、ついでというようにクルピエは体ごとベッドから吹き飛ばされる。破裂音と一緒に、クルピエはベッドとは反対側の壁にあるチェストまで飛ばされて、息を詰めた。
背中の骨を折るようなことにはならなかったものの、しばらく咳こんでようやく顔を上げると、ヨウコの傍らにぼんやりとした青い光が浮いている。
「―――やはり、あなたでしたか」
クルピエはどうにか膝立ちで床から体を持ち上げ、青く浮かぶ光に笑いかけながら目を細めた。すると、ぼんやりとただ浮いているだけだった光が炎のようにさざめいて、
『ボンソワー。クルピエ殿下』
炎の中から南国語の声が室内に響いた。落ち着いた男の声だ。
『お怪我はありませんか?』
「……弾き飛ばしておいて、それを聞くのですか?」
苦笑するクルピエに、炎はゆっくりと回る。
『あなたがまさかこの娘に手を出そうとするとは思わなかったのでね』
「―――いけませんか」
『ええ。いけません。約束を違えてほしくありません』
挑発するようなクルピエの言葉にも、炎はさほど気にした様子もなく続けた。
『あなたにお願いしたのは彼女の保護だけですよ。何もそちらで永久に預かっていただかなくていいのですから』
永久に。
そう言われて、クルピエは自分の心を見透かされたような心地がして、繕っていた微笑みを消した。
「―――では、そろそろ?」
『はい。彼女を東国へ返して下さい』
淡々と告げるその声が、これほど憎く聞こえたことはない。
「……どうしても、ですか?」
『そういうお約束です』
返せと脅されているようにも、クルピエの胸三寸ですべてが決まるようにも聞こえる答えだ。
「―――あなたと話していると、自分がとんでもなく馬鹿になったような気がします」
『御謙遜を。不世出の智将と呼ばれるあなたの知性に勝てる者がこの世界に居るとでも?』
少なくとも、口先だけで炎の向こうにいる男を丸めこむことはできないだろう。
クルピエは大きく息を吐いて、改めて炎を見つめる。
「近いうちに、あなたの元へと向かわせます。―――嫌われたことでしょうしね」
『しばらくしてから手紙でも寄越すと良いですよ』
そう言う炎はふわりとベッドの上の女の脇に侍ったかと思うと、
『彼女はとてもお人好しですから、時間さえ経てば許してくれるでしょう』
まるで流れた涙の跡を拭うように頬に近寄って消えた。
炎の消えた後を眺めて、クルピエは再び長い溜息を吐いて、床に座り込んだ。
結局、クルピエはあの涙の跡を拭ってやることすらできなかった。
数日ではあったが、ヨウコとの日々は楽しいものだった。
クルピエは、南国王の第二子として生まれたが、王となることに興味を持てず、成人した十六の年に二歳年下の妹に継承権を譲ってしまった。
王とは、国という檻の中で生きているようなものだ。母を見ていればそれがよく分かっていたので、元々政治に興味を持っていた妹に王位を継がせようと思ったのだ。
もちろん生まれ育った南国のことは愛しているが、クルピエにとって国とは手段であって、守るべき対象ではない。
たまたま幾つかの戦場で幾つかの指揮をとったら、それがたまたま天才的なすべだったようで、クルピエは瞬く間に最年少の軍師として知られる存在となってしまった。
それがまた嫌で、公的にも私的にも、王の子ではなく身分の高い子供として公子と名乗っているのだが、女王である母も継承が決まった妹もそれを見とめてはくれない。
そんな平和な中で、世界は大きく動いた。
一人の男が動きだしたのだ。
彼の、いくつあるのかわからない手段のうちの一つとして、クルピエは彼に協力を頼まれ、引き受けた。
どのみち、こんなクルピエを彼女は許しはしないだろう。
あの男の元へ送りだそうとしているならなおさら。
翌日、やはりヨウコは出ていくと宣言した。
とどめる権利もないので、クルピエはいくらかの旅の用意をして渡そうとしたが、彼女は結局受け取らなかった。
それでも、彼女はきっと東国へと向かうだろうから、クルピエの役目はこれで終わりだ。
「どうして引きとめてくださらなかったのですか!」
熱心にヨウコを引きとめていたポリテイクがクルピエにつかみかからんばかりに睨みつけてくる。謁見の間にそれぞれ呼ばれて、久々に母子が揃ったというのに、ポリテイクは兄の襟元をつかまえてゆさぶってくる。
「彼女の意思だよ」
「おなごの心をそなたがわかろうはずもあるまい」
玉座で目を細めて笑った母を睨んで、クルピエは溜息をつく。
「どのみち彼女を引き渡さないことには、我が国まであの出来レースに参加させられるところだったのですよ」
「東と西の若造のことか。もしも戦になろうとも、我が国が勝てぬ相手ではないが」
女王は笑みを消した紅唇で、不作法に舌打ちする。
「東にはあやつがおったな。ヨウコが我が娘になるのであれば、あの男と一戦交えるのもやぶさかではないがな。どうじゃ? クルピエ」
暗に戦の指揮をとれと言われ、クルピエは首を振った。
「ご冗談を。私は必要以上に彼と関わりたくありません。今の友好関係が続くのであれば、それに越したことはない」
「忌々しいがわらわもそなたと同じ意見じゃ。あやつの計画に口を挟めば、この大国たる南も無事では済まないからの」
名実ともに女王であるサンフルールに躊躇を口にさせる男だ。まだ年若いクルピエが太刀打ちできる相手ではない。
「ヨウコには悪いが、娘一人を安全に送り出してやるだけであやつが黙るというなら安いものじゃ」
安い高いの問題ではなかったが、ヨウコという女性にはそれだけの価値があるということだ。クルピエは政治のための手札となるならば、何でもためらいなく使う。
「兄上の意気地無し」
そうなじったポリテイクも分かってはいるのだろう。
東国と西国をたったひとりで掻き回したあの男と事を構える危険さが。
「―――ラウヘル・小雪・トーレアリング卿とはこれからもお友達でいたいからね」
それでも、悔しいと思うのは。
きっと、海で遊ぶ風のような彼女を好きだったからだ。