ある兄の決断(上)
誓約を共に交換し、サインと王しか持つことが許されない魔術で作られた印を捺して、調印式は終わった。
文書での停戦協定から約二週間後、東国と西国との間に国交を結ぶこととなり、中立の北国で両国の王が直に対面することとなった。
アウトロッソは、正面に座る五年ぶりに見る東の王を見つめた。静謐な湖のような雰囲気が以前にも増してその威厳を増し、今はまるで海の底のような空気を纏っている。
「長きに渡る争いの軋轢を、すぐに無くすことはできないだろうが、共にこれから話し合おう」
互いの重臣を交えての調印式のあと、晩餐会までの休憩時間に共に詰襟の礼装のまま、東国王はそう西国の言葉で話しかけてきた。その口元に湛えた笑みは本当の意味で西国とのより良い関係を望んでいる誠意が感じられ、アウトロッソは東国の言葉を口にした。
「争いの過根は完全に消えることはないだろうが、貴国の対応に我が国も実意をもって応じよう」
東国との軋轢を解消するには、長い時間と途方もない忍耐が必要になる。
だが、この隣に座る王が、今のままである限り、それは実現できるような気がした。
ここへ至るまで、この東国も西国も多大な犠牲を払ったのだ。
戦争の終わりと平和の成就は、全ての人の悲願だ。
アウトロッソ自身も、大きな犠牲を強いられた。
腹違いの弟と、彼が手にかけたアウトロッソの婚約者。
戦争の発端となった彼らの犠牲の上に、この調印は成り立ったのだ。
アウトロッソは、昔から優秀で容姿も優れた弟にいつも勝てたことなどなかった。
姿だけならば、アウトロッソは父王の生き写しと言われたが、それ以外は何一つ似ていなかった。政治に優れた父王は、何代にもわたり滞りがちだった所領の整備を進め、なし崩しに出来た迷い人の奴隷問題にも着手した名君だ。だが、アウトロッソは帝王学は苦手で、いつもやんちゃ仲間とつるんで剣を振りまわすことばかりに熱中していたので、周囲からは野蛮とそしられた。正妃である母からは、このような野蛮な猿は自分の子ではないといわしめたほどだ。だから、二歳年下の弟は側妃の息子であったが優秀で、その側妃にしてもアウトロッソの母と身分もそれほど大差ない大貴族の家の出だったこともあり、弟を王位にと誰もが望んだ。さすがに正妃である母は反対したが、本気ではなかったように思う。そしてアウトロッソ自身も、弟の立太子を望んだ。幼いころから、長男であるがゆえに王となることを言い含められてきたが、知れば知るほど窮屈な王位は、まだ国のために剣を振りまわす騎士たちの方が自由に見えるほどで、政治に携われるようになってからは、常々弟を王にと思うようになっていた。
弟、イーエロは優秀だった。物心つく頃から神童と謳われ、優秀であるはずの家庭教師たちも舌を巻くほどだった。国政に関わるようになっても、駆け引きの上手さとその頭の回転の早さですぐに頭角を現した。兄であるアウトロッソが目新しい国政の事務作業に追われている最中に、イーエロはすでに内政の大臣たちに意見を提出するようになっていた。
だから、政治手腕の優れたイーエロであるなら、この西国を立て直せるように思ったのだ。
すでに、西国の根幹は腐り落ちていた。長年仕えた重臣たちは長い平和で迷盲し、彼らを非難するべき国民でさえもその知識すら乏しく、西国は少しずつではあるが荒れていた。
アウトロッソでさえ気付くその綻びを弟が見逃すはずはないと思っていたし、父王もそれを是正することのできる者を王に選ぶと思われた。
だが、病に倒れた父が王に指名したのは、アウトロッソだった。
ちょうどその頃だった。
幼馴染でもあったフィオレがアウトロッソの婚約者となったのは。
亜麻色の髪が印象的な、アウトロッソと同い年の娘だった。
幼い頃から王家に出入りし、アウトロッソたちの姉のような存在で、口達者なイーエロも粗野なアウトロッソも彼女にだけは頭が上がらなかった。
物心ついた頃から、父王の愛人である迷い人のリーエが兄弟の面倒を見ていたが、彼女がアウトロッソ達を叱るようなことはなかったので、甘えたい放題だった兄弟を本当の意味でしつけたのは、弱冠六歳の少女だったのだ。
年を経てもフィオレの怒鳴り声を聞けば、剣を振りまわしていたアウトロッソさえも背筋が伸びた。
そんな彼女が領地に帰って久しい中、ほとんど一方的に父から婚約を告げられたのだ。
アウトロッソも戸惑ったが、王都から遠く離れた領地から呼び出されたフィオレは本当に困った顔で苦笑したものだ。
年頃になった彼女は、昔の少女の面影を残しながら、女になっていた。
かすかに香る程度の柔らかな花になった彼女は、始めは反発していたものの徐々にアウトロッソを愛した。
アウトロッソも、柔らかな風のように安らぐ彼女の隣を愛した。
だが、そんなゆっくりとした二人を時は待たなかった。
父王の死と共にアウトロッソは王となり、イーエロはリーエとの危険な恋に興じ、西国はますます荒れた。
何もかもが狂い始めていた。
周囲はアウトロッソの結婚を急かしたが、暴れ狂うような政治の真っただ中にフィオレを巻きこむことはできない。
誰もが、イーエロでさえもアウトロッソを非難したが、ただ一人、当のフィオレだけがアウトロッソを理解してくれていた。
時折やりとりしていた手紙には、イーエロと、アウトロッソを気遣う言葉ばかりがつづられていて、それだけがアウトロッソの心を痛めた。
早く報いてやりたかった。
フィオレが己を押し殺して手紙をつづっていることは、アウトロッソが一番よく分かっていた。
それも、彼女の死ですべてが終わった。
東国との開戦を機に、元々軋轢の絶えなかった北国との国交を完全に断った。
イーエロとリーエの暴走を知りながら、とどめることもできず、アウトロッソは孤独を深め、気がつけば戦の先陣を切るようになっていた。
誰も咎めはしなかった。
アウトロッソは王だ。
ただただ孤独の。
「王よ。もうおやめなさい」
父王の兄でアウトロッソの伯父である公爵が何度も彼を諌めた。公爵はアウトロッソをただ一人で見守ってくれていた唯一残った賢臣だ。
「あなたの悲しみを、すべての国民に押し付けるおつもりですか」
「―――奴隷は国民ではない」
イーエロが繰り返した言葉をアウトロッソは繰り返す。
正論には耳を貸さなかった。
耳をつんざくような言葉はもう何もいらなかった。
そんな最中、アウトロッソは戦場で女を拾った。
東国王がまとっていたはずの外套を持った女で、必死になって憎い戦女神たちを庇ったかと思えば、次に目を覚ましたときには自分が何者であるかすら忘れていた。
アウトロッソは、彼女が羨ましかった。
気を失いそうなほどの辛い出来事を、すべて忘れて生きていられるのだ。
記憶というものは辛いことほどよく思い出されるものだ。
アウトロッソは彼女の傷を癒し、言葉を教えた。
根気よく教えたせいか彼女はアウトロッソにまるでヒナの刷り込みのように懐き、よく笑うようになった。その屈託ない笑顔は、いつかのフィオレを思わせた。
ネロと名付けたその少女に、アウトロッソは徐々に心を傾けた。
フィオレにしてやれなかったことを、この娘にすべて注いでやるような。
彼女が隣に居れば、まるでフィオレが戻ってきたようだった。
ずっと、この時間が続けばいいと。
そして、彼女は政変に巻き込まれた。
アウトロッソが愛情を向ければ、そこに争いが必ず起こることは分かっていたはずだったのに、それを防げなかった。
未だ世間知らずなネロを一人置いて、視察に向かった己を責めたアウトロッソを待っていたのは、記憶を取り戻した知らない女だった。
思えば、あの女から始まった。
腐り落ちながらも平和だったアウトロッソの周辺を、知らないうちに嵐に放り込んだのだ。イーエロは狂い、リーエは嫉妬に暴走し、西国の、最後の楔が姿を現した。
そうして三年にも及んだ先の見えない戦いは瞬く間に終わりを告げる。
残ったのは、大切なものをすべて失ったアウトロッソと、あの女だけ。
アウトロッソが愛したネロはもういない。
あとは、この歪んだ戦争の元凶を捕えるだけだ。
アウトロッソは隣の一人掛け用のソファで寛いでいるように見える東国の王を見遣った。
彼も湖面のような眼でこちらを見ていた。
終わりだ。
「ラウヘル」
東国の王、ヘイキリングが低い声が広くはない休憩室に響く。
文法の誤りをご指摘いただきましたので修正いたしました。
ありがとうございます。