ある弟の懺悔(前)
生まれた時からそこは誰かに見比べられる世界だった。
イーエロが生まれた世界は、それが全てで、それが絶対の掟だ。
西国の王族として生まれたその瞬間から、イーエロは王族であり、弟であり、そして二歳年上の兄と常に比べられることが運命となった。
「イーエロさまだわ」
ひそひそという女たちの声が行く道で囁かれる。
さざ波のようなそれは、イーエロの常だった。
母譲りのきらめく金髪、父譲りの黄土色の瞳。いずれも彼の美貌を引き立たせ、その政治手腕を買われて過去にはイーエロを王太子にという声さえ上がった。
継承権を放棄した今でも、まことしやかにそのさえずりは消えない。
明るい日の光が差し込む回廊を歩けば、そこはイーエロの道となって前に立つ者は誰もいない。
ただ一人を除いて。
「兄上」
振り返る長身が、イーエロを同じ色の瞳で射抜く。
がっしりとした体に暗い色をした詰襟の礼服をまとい、父王と同じ燃えるような赤毛をゆったりと垂らした姿はさながら獅子を思わせた。
誰が名付けたのか、いつからかこの兄王は獅子王と呼ばれている。
「準備が整いました」
「そうか」
兄の頷きで、二人は再び回廊を歩き出す。
今日、西国の辺境に築かれたこの城で行われるのは、一つの歴史だ。
衝突を繰り返していた東国と西国との停戦協定。
その調印式が執り行われる。
式の差配を任されたイーエロは、すべての手筈を整えて兄である西国王、アウトロッソを出迎えに回廊まで足を運んだのだ。彼が常に単独行動をするためだ。
戦においての武勲を語られるアウトロッソは自身も卓越した剣の使い手であるからか、周りに護衛を置くことをあまりよしとせず、今も彼についている騎士は若い男たった一人だ。 王都から先ほどついたばかりだが、アウトロッソは疲れた様子も見せず、イーエロに目を向けてきた。
「今回は御苦労だったな。お前の尽力があってここまで漕ぎつけることができた」
「とんでもありません。ようやく、落ち着くことができますね」
イーエロはアウトロッソの視線を受けながら、怒檮のひと月余りのことを思って目を細める。
本当に、このひと月で西国は変わった。
―――否。変わらざるをえなかった。
全ての始まりは、兄が一人の女を戦場で拾ってきたことだろう。
兄は記憶もない傷だらけの女を介抱し、言葉を教えた。
東国との三年にも及ぶ国境沿いの戦は、まさに泥沼だった。東国の投入した戦女神という呪われた女たちはたった数十人で西国の奴隷兵士たちを焼き尽くし、何度滅してもその非道な邪法を東国は止めようとはしなかった。
大則の番人である北国は、東国のこの暴挙を無視し、西国は何一つ先手を打てない状況にあった。
そんな最中に拾われた女は、東国の王が身につけていたはずの外套を持っていた。
彼女がどういう経緯でそれを手に入れたのか。結局は分からずじまいだったが、彼女は戦で欝々とした城内に安らぎの風を吹き込んだ。
何も知らない彼女が城内を駆けまわる姿は切迫していく国庫に頭を悩ませていたイーエロの心も和ませた。
ネロと名付けた彼女に一番心を癒されていたのは、アウトロッソだった。
日々抜き差しならない戦の悪化に心根の優しい兄が一人悩む姿は誰もが知るところであったので、ネロと接している時に見せる彼の柔らかな表情に安堵したものだ。
そして、その安らぎの風にイーエロも癒された。
ネロは、愛らしい女だった。
造作が特別整っているわけでもない彼女だったが、貴族の娘と違って感情を隠そうともせずころころと変わる表情が楽しく、微笑みは名も知らぬ野の花が綻んだようだった。
イーエロの言葉を理解するようになると、彼女はその小鳥のような声で彼との会話を楽しんでくれ、男女の機微に疎い初心な仕草がまだ青い果実を思わせてイーエロの心を甘くくすぐった。
イーエロには、もう一人愛した女が居た。
先代の王から城で女官長を務めるリーエという女だ。
彼女は先王からの寵愛を得て、城に住まうことを許された美女だった。
優しく慈愛に満ちた彼女は、父の子であるイーエロ達兄弟も優しく見守ってくれた才女でもある。イーエロ達の母である側室や正妃は子供には無関心で、寵愛を受けるリーエを疎んだが、彼女は王への愛を貫いた。
イーエロは、母代わりとして親った彼女を、いつしか女として愛した。
彼女は美しかった。
夜の帳のような長い黒髪に星空のように煌く黒い瞳、少女のように滑らかで小造りな容姿でもあるのに、豊かに熟れた体。
性への目覚めも手伝って、イーエロは夢で何度も彼女を犯した。
先王が若くして亡くなったあと打ちひしがれる彼女に、イーエロはとうとうその汚れた情欲をぶつけた。
リーエは迷い人だ。そのため三十年近く前にやってきた若いままの肉体で、先王に愛されていて、今ではイーエロと同じ年となっていた。
彼女はイーエロを受け入れた。
夢にまで見た体は素晴らしく、イーエロはただ我武者羅にその肢体を貪り、舐めるように求めた。その激しいイーエロの求めに彼女も応じ、二人は父王の愛人と息子という背徳的な関係すらも楽しんで、熱く危険な日々を謳歌していた。
そんな毎日の中だった。
ネロがやってきたのは。
イーエロは、刺激に慣れていた。リーエとの日々は刺激的でイーエロを十分に満たしていたが、イーエロは彼女を知ってしまったことによって、更なる刺激を求めた。
兄の愛した女の、その愛らしい仮面の下にあるであろう愛欲を夢想したのだ。
熟れた果実のようなリーエと、まだ見ぬ甘い雫を隠すネロ。
体はリーエに溺れていた。だが、庇護欲と期待をくすぐるネロに、イーエロは自分でも知らぬうちに惹かれた。
しかし、イーエロがネロを手に入れる前に、その振り子のような毎日は唐突に終わりを告げる。
ネロが記憶を取り戻したのだ。
彼女は迷い人で、ヨウコと名乗った。
姿形はネロと同じだというのに、そこにはすでにあの純粋で愛らしい少女はなく、ふてぶてしい女が居座っていた。
激昂した兄が、剣を抜くことを本気でとどめたりはしなかった。
ネロはもう居ない。
しかし、あの女は死なず、あろうことかあの、怪物と称される伯爵の元で生かされることとなった。
調印式が行われる大広間に着くと、騎士がイーエロとアウトロッソを見とめて扉を開く。
そうして、
「―――これはどういうことだ?」
広間では剣を構えた騎士たちが、一斉にアウトロッソを見据えていた。
「申し訳ありません。兄上」
イーエロはわざと靴音が響くようにして兄の隣を離れた。
そして、剣を構える騎士たちの輪の中に入る。
「調印式は行われません」
「何?」
訝る兄に、イーエロはにこりと微笑んだ。
自分の微笑みが他人にどう映るのかよく知っている。きらめく金髪に映える淡い色合いのフロックコートも切れ長の黄土色の瞳も、どれだけ神々しく見えるか。
「兄上は、ここで死んでいただきます。フィオレの倒れたこの地でね」
フィオレ、という名前にアウトロッソの堅い表情がわずかに動く。
イーエロはその押し殺した顔に満足して目を細めた。
フィオレというのは、アウトロッソの元婚約者の名だ。
公爵家の娘である彼女は、イーエロとアウトロッソの幼馴染で、年を経て兄の婚約者となった。
勝気で聡明な娘だったが、三年前に殺された。
「―――あいつを殺したのは、やはりお前か。イーエロ」
無数の剣に睨まれながら、アウトロッソは底冷えのするような瞳でイーエロを睨みつけた。
そう。
この辺境で彼女は死んだ。
「やはり、フィオレを愛しておられたのですね」
彼女は聡明だった。特別美しくもない娘だったが、彼女の微笑みに誰もが癒された。リーエはイーエロたちを叱りつけることなど一度もなかったが、彼女は違う。イーエロが悪戯をすれば容赦なく叱りつけ、アウトロッソがひねくれた顔で不機嫌になれば、その笑顔で彼を笑わせる。
そういう娘だった。
アウトロッソは執務が忙しいことを理由に彼女を城へ招こうとはしなかったし、再三にわたる大臣たちの勧めにも肯かずに婚約期間を何年も伸ばしていた。
だから、ネロを正妃の間に置いたことを誰もが驚いたが、咎めはしなかった。
ようやく、妻を迎える気になったのだと。
だが、
「ネロに正妃の間をお与えになったのは、罪滅ぼしのつもりでしたか? それまでの仕打ちに何一つ報えないまま、死んでいったフィオレへの」
イーエロはここで剣の柄に手をかけないことがおかしいほど、殺気に充ちたアウトロッソを見て確信した。
兄はフィオレを誰よりも愛していた。
そして、フィオレも。
「彼女は、最後にあなたを裏切りましたよ。私の誘いに安易に乗って、この辺境まで着いてきた。―――私が危険だと知りながらね」
聡明だが、馬鹿な女だった。
死の間際までアウトロッソの心配をして、イーエロを諭した。
「お前には、真実など何一つ見えはしない」
兄の低い声にはっと顔を上げた。
同時に、イーエロの目に戦慄が駆け抜ける。
アウトロッソを取り囲んでいたはずの十数人の騎士が消えた。
血痕一つ床にもなく、ただ忽然と消えたのだ。
イーエロの目が瞬く間に。
視界を何度さまよわせても、アウトロッソを囲んでいた騎士の姿はない。
それはイーエロの周りに居る騎士たちも同じようで、困惑に剣先を迷わせている。
そんな中、平然としているアウトロッソの隣に、彼に一人だけついてきていた若い騎士がアウトロッソの後ろに控えた。あの男も騎士たちが取り囲んでいたはずだが、扉の脇をいくら眺めてもその姿はない。
混乱を極めるイーエロに、アウトロッソが静かに告げる。
「リーエ一人を獄中送りにして安心したか」
アウトロッソは無表情に言い、イーエロを見つめる。
「お前が、常々、俺を疎ましく思っていることは知っていた」
イーエロは耳を塞ぎたい衝動に顔を歪める。
だが、目の前の王はそれを許さず続けた。
「だが、お前は俺の大事な弟だ。それを忘れるな」
何かがこぼれおちるような気がした。
しかし、もうイーエロには拾いあげるすべはない。
歪んだ言葉をあらん限りに張り上げるしか。
「―――あなたはいつもそうだ!」
悔しかった。
「あなたは、私よりも劣るくせに、いつも私の上をいく! 私の欲しいものを、すべて持って!」
イーエロは常に兄と比べられた。
比べられ、常に彼より勝っていた。
容姿だろうが、学問だろうが、女だろうが。
だが、兄はいつも評価の上をいく。
「いつだって、王であるあなたが憎い!」
兄はいつも誰よりも王だった。
弟である以前に、イーエロは常にアウトロッソに敗北していた。
それでも、イーエロは彼より勝っていたはずだった。
「王であるべきなのは、私だったはずだ!」
大臣の誰もがイーエロを王にと推した。先王の愛人であったリーエも閨で囁いた。アウトロッソ自身でさえ、弟を王位にと議会で進言した。
しかし、それをたった一人が覆した。
「……父上は、きっとこうなることを分かっておられたのだろう」
アウトロッソは弟の激情に静かに耳を傾けて、息を吐いた。
「今際の際に俺は耳打ちされていた。迷い人と北国に気をつけよと。俺はそれがお前が進言したように、増え続ける迷い人の奴隷問題のことだと勘違いしていたが、父上が言いたかったのは、あのリーエの内にある狂気だったのだろう」
イーエロは静かな告白に息を詰める。
父は気付いていたというのか。
あのリーエの、狂暴なまでの潔癖な狂気に。
イーエロは、あの女の体の中に流れているものが何のか知っていた。
自己愛と顕示欲。それがイーエロにも通じるものがあったから、愛せたのだ。
だから、イーエロは兄を排除しようと考えたときに、リーエの暴走に任せた。
「考えてみれば憐れな女だ。何も知らない世界に落とされ、奴隷とされ、生きるすべは父上しかいなかった。父上はそれを分かったうえで、あの女を愛したんだ」
すべて。
全て知ったうえで、あの女を愛したのか。
イーエロは笑いだしたい気分になった。
偉大な父だった。聡明で、今でも名君として慕う者は多い。
その父に似た兄。
これでは、
「私は、とんだ道化だったというわけですね」
とうとうイーエロは声を張り上げて笑った。
もう全てが終わりだ。
「―――大人しく裁きを受けろ。死なせはしない」
アウトロッソの顔が歪む。
その瞳に憐憫の光を見つけて、イーエロは叫んだ。
「殺せ! 生きて帰すな!」
困惑していた騎士たちに命令を与えると、彼らは人形のようにアウトロッソへと剣を向けた。今、この辺境の城にアウトロッソの味方はあの傍らの騎士だけだ。隠蔽工作として連れてきた女官は今は一人もおらず、居るのはイーエロの息のかかった騎士たちのみだ。
いくら剣の達人とはいえ、たった二人で逃げおおせるはずもない。
だが、アウトロッソは剣の柄にさえ、手をかけようとはしなかった。
その代りに、彼の隣に進み出て腕を軽く振ったのは、今まで黙って控えていた若い騎士だった。
屈強な戦士にも見えない痩身の男の腕が、立ち向かう騎士たちを払う。
そう見えた瞬間、彼らは消えた。
何の冗談か。
忽然と消えたのだ。
何者だ。
イーエロの困惑を見てとったのか、若い男はにやりと笑う。平凡な男だ。少しはねた黒髪の痩身で、騎士の格好をしてはいるが、腰に下げた剣さえ抜こうとしない様は軽薄に見える。
「無駄だ。イーエロ。彼には勝てない」
王であり、剣士であるアウトロッソがまるで敬意を払うような言い草だ。
だが、勝てないというよりも、まるで悪夢じみた手品を見ているようだ。
イーエロはこんなものを飼っている人物を今になって思い至った。
「―――貴様、伯爵の手の者か!」
イーエロの計画をたった数手で破ったあの怪物の。
兄の召喚にずっと応じなかったというのに、あの、ネロが殺されかけた時に、奇跡のような間合いで姿を見せ、それから瞬く間に混乱を極めていた内政を掌握して、アウトロッソの信を得た。
その場所は、イーエロの物であったはずなのに。
気付いた時には全てが遅過ぎる。
イーエロはすでに逃げ腰の騎士たちを放って、窓へと駆けだした。
あまり使うことのない腰の剣を抜き、勢いのまま窓を斬り破る。
けたたましい音と共に、大広間から外へと飛び出した。
誰かが追ってくる気配はあったが、イーエロは構わず城の周りにある森へと駆けた。
もしものための逃走用にと、森を抜けた先に馬が用意してある。
窓ガラスで切った傷を無視して走る中で、イーエロは三年前のことを思い出していた。
あの時も、森の中だった。