歴史と明かり
ふわり、と何かが私の頬を撫でる。
産毛を撫でるような柔らかな刺激に、私はぼんやりと目を開けた。
「やぁ」
私は椅子に座らされているようだった。そんな私を覗き込んでいるのは、真っ白い髪の男だった。
容姿はひどく整っていて痩身の彼は、まだ青年と言ってもいいような体格で、シャツにズボンというラフな格好で私を見下ろしている。
「気分はどう? ヨウコ」
聞き覚えのある声だった。
テノール、の。
「うわ!」
一気に目が覚めて、私は椅子から飛び上がろうとしたけれど、あっさり男に手を肩に置かれて椅子に引き戻される。
「大人しくしてなよ。無理矢理ここに飛ばしてきたんだ。まだふらふらするだろう?」
「……アルティ…」
私が呻くと、男はその白い顔ににんまりと笑みを浮かべる。
「悪いおじさんたちに騙されて、どこへ行くつもりだったの? ヨウコ」
女装をしてない女装男は、体が重くてあまり動けない私の頬を細い指で撫でた。
「……アンタ何者なの」
指は冷たくて、ひんやりと私の頬を冷やす。
「あのおじさん達に聞いたんじゃないの? バルガーとミカエリに」
「アンタが、十三人目のマイスターだってことと魔術を作ったってことは、聞いた」
「そう」と呟いて、アルティは私の頬から指を放した。
「魔術が出来たのはいつだと思う?」
知るはずもない。答えずじっとアルティを見上げると、彼は面白がるように目を細めた。
「九百六十二年前だよ」
でも、魔術を作ったのは、
「僕は今年で九百七十五歳になるかな」
事もなげに言って、アルティは言葉を次げない私を見下ろして笑う。
「バルガーとミカエリも、マイスターの古参だから僕と百年ほど違うだけだよ」
化け物、という言葉を自分で使ったミカエリ・ジョーンズの顔が浮かんだ。
「僕らは、みんな元は迷い人なんだよ」
アルティはゆっくりと私から離れて、部屋を歩きだす。
そうして、ここがいつかアルティが居た筒の部屋だと分かった。
ぼんやりと浮かぶ青白い光が無数に飛び交って、天井へと昇っている。
「迷い人は、色んな時代からやってくるけど未来から来たって人はいない。だから、僕はあちらの世界とこちらの世界は常に並行して存在しているんじゃないかと考えた」
アルティの声は聞こえていたけど、彼は私と一番遠いところをのんびりと歩いている。
その周りをふわふわと青白い光がまとわりついて、彼のあとを追いかけている。
「人が生まれてから、あちらもこちらも独自の進化と歴史を遂げてきた。でもこちらには迷い人がやってくる。住む人が同じになるなら、文化が似てくるのは流れだろう。でもやっぱりこちらの世界はあちらとは違う」
歩きながら、アルティは手の平にふわりと明かりを生み出した。
「こちらには力があった。だから百年ぐらいかかって魔術を作りあげて、元の世界へ帰るための技術を作った。あとは時差と座標さえ揃えば、元の世界と行き来が出来るんじゃないかとね」
でも、と呟いたアルティの手から光は消える。
「行き来は出来なかった。落ちる時も、帰る時も、向こうに居場所がある者だけ。人間、百年も故郷を離れたら、友人知人はおろか家族だって居ないからね」
帰れなかったのか。
私は青白い光に囲まれている青年をぼんやりと見つめた。
彼は帰る手段を作ったけれど、自分は帰れなかった。
「色々なことを試したよ」
笑っているのに置いて行かれた子供のような顔で、アルティは私のところへ足を向ける。
「いっそ世界が変わればいいのかと思って、大則を作ったり、戦争をさせたり」
紅い瞳が私を見下ろして、ふんわりと笑った。
「奴隷を作らせたり」
私の顔が歪んだのが面白いのか、アルティはけたけたと笑った。
私は吐きたくなって、ますます口を歪めた。
「―――人間殺して、面白い?」
「別に。僕は殺人狂じゃないからね」
吐きたい私の頬を、また冷たい指がなぞった。
「でも、君は面白いな。こんな話をしたら、だいたいが大声を上げるか叫ぶか、僕をなじるよ」
私だってそうしたい。でも、
「ホルマリン漬けは嫌だから」
「ホルマリン漬け? 君を?」
アルティは今度こそお腹を抱えて笑い出す。
「誰が言ったのそれ! あははははは!」
こっちにしてみたら冗談じゃない。
私の憮然とした顔を見て、アルティは目尻に溜まった涙を拭う。
「そんな面白いことしないよ。まぁ、確かに君は面白いからね。もしも死んだらそうしてもいいけど」
「やめてください」
全力で拒否だ。
何が何でも自分の死体がこの男に見つからない方法を考える。
「面白そうだけど」と呟く目の前の男は、やっぱり宇宙人だ。伯爵、バルガーさんというよりこの男が宇宙人でしたよ!
「ここで君が死んだら、すぐにでも漬けてあげるけど」
するり、と首が撫でられた。
思いがけなく広い手が、私の首をゆっくりと伝う。
「そんなことしないよ」
ごめんね、と手は離されたけど、首にはじんわりとした冷気が残ってる。
鳥肌立ったまんまだ。
「ちょっとね。僕に黙ってどこかに行こうとするから、腹が立っただけ。驚かせてごめんね」
ごめんねと言われても、この人がどうやって私をこの部屋に連れてきたのかが見当もつかない。まぁ、とりあえず服は着ているみたいだから、真っ裸で放り出される事態にはならなかったようだけど。
「どこに行きたい? 連れてってあげるよ」
にっこりとアルティは笑う。
魔術師の実質的な頂点に立つらしいこの男に言えば、まぁ、どこへでも行けるだろうが。
言いたくない。
言いたくないが、言わないとここを出られそうもない。
私は渋々告げた。
「東国に」
「うーん。今、そこは駄目だな」
にこにことあっさり却下してくれたよこの人!
「どこでもって言ったんじゃ…!」
「うん。他にないなら僕が決めてあげよう」
それじゃ、私に決定権なんかないじゃないか!
そう思ったら、体がふんわりと宙に浮いていた。
「ぎゃぁ!」
「大人しくしてね。座標間違えたら、海の上に落ちるよ」
にっこりと嫌なこと言った!
うわぁドエス!
アルティが指ですいっと空に円を描いたら、私の周りを複雑な紋様の魔法陣が包みこむ。
ぼんやり明るい法陣に囲まれて、じたばたするも足の先から順にどういうわけだか吸い込まれていく! ぎゃぁあ!
「鬼! 悪魔! 女装変態!」
「女装に対する偏見だよそれは」
もっともらしく説教する白髪頭が憎い。
「あんたなんか大嫌いだ!」
私の子供みたいな罵声が部屋に響いた。
にっこりとアルティが微笑む。
それが、私の見た最後の北国の風景だった。
嫌いだって言われて、嬉しそうに笑ったよ。
変態だ。あいつ。