ホテルと印税
「無事だったか」
そう言って、ステファンはホテルのエントランスであからさまにホッとした顔で出迎えてくれた。
私って、そんなに幸薄そうですか。いや自分でも常々思っておりましたが。いや口にしたら負けだからね! こういうことは!
私はティエンポスおじさんに連れられて、ホテルに放り込まれて自分でフロントに手続きをしたところでステファンに見つけられました。
ステファンはモニカさんが手続きやら書類やら全部揃えてくれたらしい。―――私は無しですか。まぁ、言葉は忘れかけの日本語で書かれた書面だったんで理解できましたがね。
「ステファンはよくしてもらったみたいだね」
どこか古いイギリスのホテルみたいな内装の宿屋で、なんとフロントやホテルマンまで揃ってる。制服着た人たちににこやかに案内されるとか初体験でした。
迷い人専用だという宿には、同じような人たちが集まっているようで、会話も人種も多国籍だ。
ステファンは、どうやら自分の英語が通じる人たちを見つけたようで、彼らと話してきたと普段の彼からは想像できないほど熱っぽく話してくれた。
「ヨウコも同じ国の人を探すといい」
「うん。そうだね」
興奮気味のステファンに、私は曖昧に答えた。
この世界で会ったあちらの世界の同じ国の人にあまりいい思い出がなくて、正直言うと探すのは気が進まない。偏見だろうけど。
身形もすっかり元の世界にあるようなTシャツとジーンズに着替えたステファンは、どう見てもあちらの世界の住人だった。
未だチャリムを着ている私は、すっかり取り残されていた。
「ヨウコ。この北国から、元の世界に帰れるぞ」
人通りの多いエントランスから少し離れたカフェに入ると、ステファンはそう切り出した。
ステファンを連れていったモニカさんの話によると、このホテルは他の国からやってきた迷い人たちの滞在用のホテルで、北国が運営しているらしい。そして、迷い人はここで選択を迫られる。
「この世界に残るか、元の世界に帰るか」
いつか、伯爵に聞いた話の通りだ。
「案内人が話してくれなかったのか?」
ティエンポスおじさんは訊けばだいたいのことは教えてくれるけど、そういう親切な解説はなかったです。
それに魔術の効かない私では、どうも事情が異なるらしいし。
このホテルに留まる期間は決められておらず、そのままここで仕事を探して北国に暮らす迷い人もいるらしい。
「俺は、しばらくここに滞在するつもりだ」
ステファンはもう今後のおおよその事を決めているようで、北国を観光でもしながら、帰るかどうかを決めるという話になった。
そうして話しながら、夕食のバイキングに二人で行って、懐かしい食材のパンやスープや、料理を食べていると(ポタージュとかカレーとかあったよ!)まるであちらの世界に帰ったようだった。
「私も、西国から逃げてきたんですよ」
向こうの世界なら話なんかできなさそうな黒人のお兄さんが、たまたま隣になった夕食の席で西国語で話しかけてきた。
「奴隷として働かされて、戦争に駆り出されて、家族も友人も皆失いました」
ステファンと同じような人たちは他にもたくさん居た。
全部の人と話すことはできなかったけれど、広いレストランを埋める人たちが、全部同じ世界の人だと思うと、少し圧倒された。
ステファンは彼らと熱心に話していたけれど、私は何だかカヤの外だ。
彼らがこちらの世界にやってきた理由はほとんどない。ほとんどが、突然にこの世界に落とされたらしい。
私は、完全に巻き込まれた形でこの世界にやってきた。
でも、彼らは何の理由もなく神隠しみたいにこちらにやってきたのだ。
じっと自分のすっかり硬い手を見ると、今までの思い出ともつかない出来事が思い出されたけれど、それがどれほどの人たちに助けられて、どれほどの幸運だったのか、何だか実感してしまった。
急に目標を見失ったような気がしたまま、私はステファンと別れて与えられた部屋に戻った。
「あ」
ひと気のない廊下に、さっき別れたばかりの丸まった背を見つけて思わず立ち止まる。
「ティエンポスさん」
おじさんは無表情に頭を下げると、懐から封筒を取り出して私に押し付けた。
「明日もまた、我が主があなたにお会いになります。明日の午後にまたお迎えに上がります」
「え。明日はちょっとステファンと街を見て回る約束で」
「お迎えに上がります」
私に拒否権はないらしい。
丁寧にお辞儀をして慇懃無礼に立ち去って行くおじさんの後ろ姿を見て、私は溜息をついた。
翌朝、レストランで待ち合わせたステファンに、街には行けないことを告げた。
ステファンは不機嫌そうな顔のまま、私を見上げてくる。睨まないでよー。
「午前中はどこへ行くんだ?」
「ギルド」
最後の原稿を届けないといけない。
昨夜、荷物は自分の部屋に運び込まれていたので、辿りつくまでのことを原稿にしていたのだ。これを渡せば、最後になる。
ステファンは口を尖らせて小言を言ったけど、滞在して長い人たちに街を案内してもらう約束をとりつけていたようで、そちらに向かった。私は、フロントでギルドの場所を聞いて、出かけることにした。
ホテルに連れてこられた時は、ほとんどトンネルを通っていたから全くわからなかったけど、日に照らされた街は壮大だった。
鉄と石造りのビルが立ち並び、電線や路面電車まで走っている。灰色の街を歩く人たちはどこかで見たことがあるようなスーツやドレスがほとんどで、髪の色もこちらの世界によくあるような色とりどりのものではなくて、やっぱりどこか元の世界に似通っている。
車も走っていたけど、排気ガスなんかは出なくて、道路の真ん中にはちゃんと信号機もついていた。商店は小奇麗な外国風で、ガラス張りの店がほとんどだ。
フロントで教えてもらったとおりに幾つかの通りを抜けて信号を渡ると、東国でもラーゴスタでも違和感のあったギルドの建物がここではそこにあって当然のように鎮座していた。ここのギルドは他の国の支部より大きくて、この建物そっくりに他の国にも建てていることは分かった。ここが、ギルドの本部だという。
ギルドに入るといつものように窓口のお姉さんが挨拶してくれるので、私は原稿を差し出した。が、お姉さんは受け取ってくれなかった。
「こちらへおいでください」
なぜかお姉さんに連れられていつもよりも広いギルドの奥の、エレベーターに乗せられた。案内してくれるお姉さんは私に答えるつもりがまったくないようで、操作板に向いたままさっさと私に背を向ける。
大人しくエレベータの向かう先を見ていたら、
「―――最上階?」
ちん、と甲高い音とジャっという格子戸の開く音と共に連れ出されたのは、ふかふかのカーペットの廊下。他の階や一階はタイルだ。
嫌な予感がひしひししつつ、一際大きな観音開きのドア前に立たされた時には帰りたくなった。
それでもお姉さんは上品にノックしてからドアを開けてしまう。
その奥から響いてきたのは、
「いらっしゃい」
聞き覚えある声のような。
何だかやる気とかそういうものを削がれた気分で、私はお姉さんに導かれるまま部屋に入った。
部屋は広かった。
何枚あるんだか分からない窓の並ぶ明るい部屋の真ん中にぽつんと机が一つある。
やっぱり広いその机についていたその人はゆっくりと席を立って、私を出迎えた。
「お久ぶりですね。ヨウコさん」
上等そうなフロックコートに透けるほど淡い金髪の男が西国語で胡散臭く笑う。
「……ミカエリ・ジョーンズさん」
胡散臭い男はますます何を考えているのか分からない微笑みを深めた。
「まずは、ここ北国へようこそ。無事に辿りつかれたようで、おめでとうございます」
「どうも」
どうして北国に居るとか、なんでアンタがギルドの本部の最上階にとか、色々訊ねたいとは思ったけれど、どれもミカエリ・ジョーンズがちゃんと答える可能性が限りなくゼロなので、私は手に持たされたままだった原稿を彼に差し出した。
「これが最後の原稿です」
渡された原稿を、ミカエリ・ジョーンズは不思議そうな顔で受け取って、
「では、元の世界に帰るおつもりなのですか?」
「―――私が北国についたら、もう仕事は終わりなんじゃないですか?」
もともと、私が資金を欲しかったのは北国に辿り着くためだ。
「ツケになった借金はどうなさるおつもりで?」
そういえば、一年契約で待ってもらってるんだった。
とはいえ、私はまだ何も決めていない。
押し黙った私に、ミカエリ・ジョーンズは自分が今まで座っていた机に目を向ける。
「原稿は全て読ませていただきましたよ」
広いはずの机の半分を埋める原稿用紙を指されて、私は思わず目を丸くした。
私、あんなに書いたのか。すごいな。
「大変興味深い内容でした。よく立ち寄った街のことを調べて書かれましたね」
「じゃぁ…」
「ええ。ギルドで本にさせていただきますよ。本が売れたら印税でこれまでの資金を回収させていただきます」
自分の書いたものが本になるのか。
何だか妙な興奮で、お腹の中がぞわぞわする。
「それで、元の世界に戻ることをお決めになったんですか?」
私の妙な興奮を無視して、ミカエリ・ジョーンズはまた話を戻してしまった。
答えるまで同じ問いかけをされそうだ。
「昨日着いたばかりなので決めていません。私が戻ると不都合でもあるんですか?」
「そうですか」と胡散臭い男は頷いて、
「本の印税が多く入れば、あなたの借金も同じく回収させていただきますが、せめて本が出来上がるまで居てはどうですか?」
確かに。
それに本が売れるかどうかも分からないわけだしね。
自分の本がどういうものか、見てからでも良いだろう。
選択の材料に加えておこう。
これからお茶でも、とミカエリ・ジョーンズがまた下手なナンパみたいなことを言うので、私は断った。
「午後から約束があるので」
そういうと、いつも胡散臭いはずのミカエリ・ジョーンズが笑みを無くして見つめてくる。
「気をつけてくださいね。誰もがあなたの味方ではありませんから」
当たり前じゃないか。
「味方かどうかは私が決めます」
呆れ顔の私に、ミカエリ・ジョーンズはいつもとは違う、どこか嬉しそうな顔で笑った。
相変わらずよく分からない男だ。