欲しがり妹と恐怖の儀式
とても小さな頃。
リリハには大切な記憶がある。
幼い妹のマリナと、屋敷の奥の。森で遊んだ。マリナが花を摘んでリリハに渡してくれた。
空がきれいで、草も木もきれいで、マリナの笑顔が可愛くて。不安なことがまだ何もなくて。
ただそれだけだった日々の記憶。
朝食の席で、マリナは姉の髪飾りに目を留めた。
「お姉様、その髪飾り、わたくしにちょうだい?」
リリハは手にしていた銀のスプーンを置き、妹の顔を見た。
マリナ・クジョー、十五歳。
人形のように整った顔立ちに、くるくると表情の変わる大きな瞳。小柄な身体に似合う愛らしい仕草は、彼女が何をしても周囲に許させてしまう不思議な力を持っていた。
一方、姉のリリハは十七歳。
すらりと背が高く、目鼻立ちも整っている。しかし、華やかというよりは端正という言葉が似合う。妹の隣に立つと、どうしても地味な印象になってしまうのだった。
「これ?」
リリハは髪に触れた。
そこには、細い銀の枝に小さな青い石をあしらった髪飾りがあった。
先日の王宮舞踏会で、婚約者のケント殿下から贈られたものだ。
「ええ! わたくし、これが欲しいの。ねえ、お姉様、いいでしょう?」
「これはケント殿下からいただいたものだから」
「お姉さまがとても素敵に身に着けていらっしゃるから、うらやましくて欲しくなってしまったの」
マリナは屈託の無い顔だ。両親に伸び伸びと育てられた。自分の欲求にいつでも正直に、何の躊躇もなくお願いが出来る無邪気な子供。
断っても根に持ったりはしない。
「マリナ。人から贈られたものを、欲しいからという理由で譲ることはできないわ」
「……そう」
マリナはあからさまにしょんぼりとして、残念そうな顔をした。
「リリハ、妹にそれくらい譲ってやってもよいだろう」
父がナプキンを置いた。
「お前は姉なのだから」
「ですが、お父様。これは殿下からの贈り物です」
「ケント殿下は心の広いお方だ。妹が気に入ったと知れば、むしろ喜ばれるのではないか?」
母も微笑んだ。
「マリナはまだ十五歳ですもの。お姉様のものが素敵に見える年頃なのよ」
リリハは両親を見た。
クジョー公爵家は、王国でも特別な家柄だった。
クジョー家の人間は国を守護する精霊を使役する事が出来るという。
王家でさえ、この家には一定の敬意を払う。父は国王と対等に近い立場で言葉を交わすことのできる数少ない貴族の一人であり、母もまた王宮の者たちから一目置かれていた。
そんな両親が、娘の髪飾り一つについて、これほどまでに妹の肩を持つ。
「……わかりました」
リリハは髪飾りを外した。
「マリナ、なくさないようにね」
「ありがとう、お姉様!」
マリナはぱっと顔を輝かせ、髪飾りを受け取った。
そして、そのまま自分の髪に飾った。
「似合う?」
父も母も、目を細めて笑った。
リリハは再びスプーンを手に取った。
今日の午後は、領地の農務官たちと来季の作付け計画を詰めなければならない。
確認する項目は多い。
髪飾りのことを考えている時間はなかった。
ただ、ひとつだけ。
ケント殿下に何と説明すればよいのだろうか。
それが、少しだけ気がかりだった。
朝食後、リリハが打ち合わせの書類を確認していると、執務室の扉が勢いよく開いた。
「お嬢様ぁぁぁ!」
侍女のサナが、今にも泣き出しそうな顔で駆け込んできた。
「何事?」
「何事ではございません! 殿下からいただいた髪飾りを、あのように簡単にお譲りになるなんて!」
「マリナが欲しがったのよ」
「それは存じております! 存じておりますが、だからといって、どうしてお嬢様が我慢なさらなければならないのですか!」
サナは両手を握りしめた。
「お嬢様は、いつだってそうです。ご自分が我慢すれば済むとお考えになる!」
「我慢というほどのことでもないわ」
「では、今朝の朝食は何ですか! 昨日の夜は何ですか! 先週は何ですか!」
サナは指を折り始めた。
「先週、マリナ様が欲しがった刺繍入りの手袋。先々週、マリナ様が気に入った本。先月は、お嬢様が殿下とお出かけになる予定だった日に、マリナ様が急に王都の新しい菓子店に行きたいとおっしゃって……!」
「サナ」
「はい!」
「書庫から持ってきてもらった資料があるの。もうすぐ農務官が来るわ」
「……お嬢様!」
サナの顔が、今にも泣き出しそうに歪んだ。
「お嬢様がおいたわしすぎます!」
リリハは少しだけ困ったように笑った。
「大丈夫よ。今日の打ち合わせは簡単なすり合わせだけだから」
「そういう問題ではございません!」
サナの声が、また廊下に響いた。
リリハは窓辺の机に向き直った。
机の上には、領地の地図と帳簿が広がっている。
将来、クジョー家を継ぐことになるリリハには、やるべきことも学ぶべきことも、まだたくさんあった。
二十年前。悪天候による凶作と、例を見ない疫病の流行で、国全体が打撃を受けた。
リリハの生まれる前の話だ。少し年上の貴族子女には親を亡くしている者が多い。
侍女のサナもそういった境遇の一人だ。
当時の領民達の記録を見ると、さらに心が痛む。
災厄の代償は今も残っている。
見えないところにも。
リリハはペンを走らせた。
昔のようなことは繰り返させない。
翌週の休日、昼食の席で父が告げた。
「リリハ、今日の午後はマリナと観劇に行くことにした」
父がそう告げたのは、昼食の席だった。
「王都の劇場で、話題の新作が上演されるの。マリナが見たいと言うものだから」
母が楽しそうに付け加えた。
「そうですか」
リリハはスープを口に運んだ。
今日の午後は珍しく予定が入っていない。両親も知っている。
珍しく自分も誘われるかもしれないと、リリハは思った。
「それでね、リリハ」
母が、いかにも思い出したという顔をした。
「今日の午後は、領地の倉庫の修繕計画を確認しておいてくれないかしら。」
父も当然のように頷いた。
「一昨年は資材調達のトラブルで大変なことになったからな」
リリハは一瞬、何かを言いかけた。
しかし、やめた。
父と母は、観劇のあと、王都の老舗で夕食をとるらしい。
マリナは今朝から、その話を聞いて浮き立っていた。
「お姉様も一緒に行きましょうよ!」
弾んだ声で、マリナは続けた。
「わたくし、家族みんなで行きたいわ!」
「リリハは仕事があるだろう」
父が即座に答えた。
「リリハは後継ぎとして学ぶことが沢山あるからな。遊びはそれからだ」
「そうよ、リリハ。あなたはしっかりしているから安心だわ」
母が微笑んだ。
リリハは食器を置いた。
「承知いたしました」
両親はいつだってマリナとだけ出掛ける。リリハは、家族のお出かけの頭数に最初から入っていない。
午後、リリハは帳簿の整理を続けていた。その隣で、サナがとうとう堪えきれないというように口を開いた。
「お嬢様。わたくし、もう我慢の限界でございます」
「またなのですね。旦那様も奥様も、マリナ様には観劇を、お嬢様には領地経営を」
「サナ、声が大きいわ」
「大きくもなります!」
サナは机の上の帳簿を見下ろした。
「お嬢様は学園で首席を維持なさりながら、公爵領の会計まで確認していらっしゃるのですよ? そのうえ、王宮から届く書類まで目を通して……。最近はマリナ様の宿題までやっていらっしゃいますよね!どうしてお嬢様が?」
「マリナはまだ学園の初等課程だもの」
「それはマリナ様ご自身がお勉強なさることでございます!」
サナの正論に、リリハは黙ってペンを動かした。
学園での成績は、リリハが常に首席だった。
魔法理論、歴史、法学、経済学、外交文書の読解。
どの科目でも、彼女は他の生徒を大きく引き離していた。
一方、マリナの成績は平均より少し上といったところだった。
持ち前の愛嬌と家柄の良さもあって、マリナは学園生活で困ったことがあっても、大抵は何とかしてきた。
教師は小さな失敗を笑って許し、同級生たちはマリナの頼みなら喜んで引き受けた。
宿題を忘れたと言えば、友人がノートを貸してくれる。
課題の提出が遅れたと言えば、教師が期限を延ばしてくれる。
そして、姉がいると知れば、誰もがこう言った。
『リリハ様が教えてくださるのでしょう?』
最初のうちは、リリハも妹に勉強を教えていた。
だが、いつからか、教えるのではなく、代わりに解くようになっていた。
「お姉様、これ、わからないの」
そう言ってマリナが持ってきた課題。
リリハが解き方を説明すると、妹は目を輝かせた。
「すごいわ、お姉様! でも、わたくしには難しいわ。お姉様が書いてくださらない?」
断ると、マリナはしょんぼりした。
両親は言った。
「妹の手助けをしてやりなさい」
だから、リリハは書いた。
課題の答えも、読書感想文も、歴史の小論文も。
マリナが提出する答案には、いつしかリリハの筆跡が増えていた。
そのとき、部屋の扉が勢いよく開いた。
「お姉様!」
マリナが飛び込んできた。
手には、分厚い課題集が抱えられている。
「明日までに、これをお願い!」
サナが絶句した。
「マリナ様……。これは、学園の課題ではございませんか」
「そうよ! 先生が難しい課題を出したの。でも、わたくし、明日はお友達とお出かけする約束があるの」
「それで、リリハお嬢様に?」
「だって、お姉様は勉強がお好きでしょう?」
マリナは、何の疑問もない顔で言った。
「お姉様が解いてくだされば、わたくしも助かるし、お姉様だって得意なことができて嬉しいでしょう?」
リリハは課題集を見た。
学園の初等課程の課題だ。
彼女なら、三十分もあれば解けるだろう。
サナが物言いたげな顔でリリハを見守る。
「……わかったわ。マリナ。明日はお友達と楽しんでいらっしゃいね」
リリハの言葉にマリナはパアッと顔を輝かせた。
サナが少し非難するような顔でリリハを見る。
「ありがとう!お姉様!大好き!」
そう言ってリリハにハグをすると、慌しくマリナは立ち去った。
「お嬢様」
サナが口を開いた。
「ごめんなさい。サナ」
「先回りして謝らないで下さい」
「断っても、どうせお父様の命令で手伝うのだもの。だったら早めに終わらせた方がいいと思ったの。」
窓の外では、馬車の車輪が石畳を踏む音がした。
両親とマリナが、観劇へ出かけるのだろう。
リリハは課題集に取り掛かった。すぐ終わるものだ、たいしたことでは無い。
学園の昼休み。リリハが食事を終えようとしていたとき、向かいに座る婚約者のケントが口を開いた。
「リリハ嬢。今度の休日、王都の庭園を一緒に歩かないか」
穏やかな笑顔を浮かべる婚約者に、リリハは微笑んだ。
「喜んで」
リリハが答えると、ケントは嬉しそうに微笑んだ。
その約束を、リリハは楽しみにした。
久しぶりの、二人きりのお出かけだった。
髪飾りのことは、まだ説明できていない。
それでも、ケントが自分を気遣ってくれていることは、嬉しかった。
ケントは、穏やかな笑顔の似合う青年だった。この国の第三王子だ。
整った容姿に、申し分のない王族としての血筋。人当たりがよく、誰に対しても柔らかな態度を崩さない。
学力はリリハほどではない。
しかし、王位継承順位の低い第三王子に求められるのは、必ずしも兄たちを凌ぐ政治的能力ではなかった。信頼できる側近を選び、適切に人に任せることができれば、それでよい。
クジョー家についても時間をかけて学び、理解してくれるだろう。
少なくとも、リリハはそう考えていた。
約束の日。
リリハは約束の時間に庭園へ向かった。
だが、ケントの姿はなかった。
「殿下は?」
近くにいた王宮の侍従に尋ねると、侍従は困った顔をした。
「それが……。マリナ様とご一緒に、温室へ向かわれたようでございます」
「マリナと?」
マリナが庭園に来ることは、聞いていない。
リリハは時計を見た。
約束の時間から、二十分が過ぎていた。
温室へ向かうと、すぐに二人の姿が見つかった。
「まあ、ケント様! あのお花、こちらにも咲いているわ!」
マリナが小さな手を伸ばした。
ケントはその手を取り、花壇の縁を越えないように支えている。
「危ないよ、マリナ嬢。足元に気をつけて」
「ふふっ。ケント様はお優しいのね」
「君が怪我をしたら大変だからね」
二人は笑い合っていた。
その光景を見たリリハに、ケントが気づいた。
「ああ、リリハ嬢!」
彼は慌ててマリナの手を離した。
「待たせてしまったかな?」
「二十分ほど」
「すまない。マリナ嬢が花を見たいと言うものだから、つい」
「そうですか」
リリハは頷いた。
マリナが、申し訳なさそうに両手を合わせた。
「ごめんなさい、お姉様。わたくし、お姉様から王都の庭園へ行くと聞いて、わたくしも行きたくなってしまったの。それで、お父様とお母様にお願いして馬車を出してもらいましたの。そうしたら、庭園でケント様にお会いして……」
「そう」
「怒っている?お姉様」
「いいえ」
リリハは、ケントに視線を移した。
いつも穏やかな婚約者は屈託なくリリハにこう提案した。
「マリナ嬢に、王都の新しい菓子店を案内してあげる約束をしたんだ。この後、3人でどうかな?」
リリハは、しばらく彼を見つめた。
「……わかりました」
それ以上、何も言わなかった。
その日の帰り、リリハは馬車の中で、窓の外を眺めていた。マリナはケントにプレゼントされたお菓子の包み紙を嬉しそうに眺めている。
「今日はとても楽しかったわ。お姉様」
「よかったわね。マリナ」
リリハは心からそう言った。
それから一か月が過ぎた。
ケントとマリナが一緒にいる姿を見かけることが増えた。
王宮の茶会。
学園の庭園。
王都の商店街。
そして、クジョー公爵家の応接間。
ケントがクジョー家を訪ねる日が増えた。
「ケント様、今度はあちらのお店に行ってみたいわ!」
「いいね。次の休日にでも行こうか」
「本当? 約束よ!」
マリナは楽しそうに笑った。
ケントは、その笑顔を眺めながら、優しく頷いた。
リリハが応接間に入ってきたとき、二人は一枚の絵葉書を覗き込んでいた。
「あら、お姉様」
マリナが振り返った。
「ケント様が、王都の新しい宝飾店に連れていってくださるのですって!」
「そう」
「ねえ、ケント様。お姉様も一緒にいらっしゃる?」
ケントは一瞬、言葉に詰まった。
リリハは、絵葉書に視線を落とした。
そこには、宝石を散りばめた髪飾りの絵が描かれていた。
透かしの入った精巧な金細工に宝石がいくつもちりばめられている。
リリハがかつてケントから贈られたものよりも、さらに高級そうな品だ。
「リリハ嬢」
ケントが声をかけた。
「少し、話があるんだ」
「何でしょう?」
「できれば、二人で」
マリナはすぐに立ち上がった。
「わたくし、お部屋に戻るわね!」
そう言って、扉へ向かう。
だが、その直前にケントが呼び止めた。
「マリナ嬢。君も、ここにいてくれないか」
マリナが振り返った。
リリハは、静かにケントを見た。
「……殿下。お話とは?」
ケントは一度息を吸った。
「君との婚約について、考え直したいんだ」
応接間が静まり返った。
マリナの瞳が大きく見開かれる。
ケントは続けた。
「君は素晴らしい女性だ。学業も優秀で、領地経営にも明るい。クジョー公爵家を支えるにふさわしい人だと思う」
「ありがとうございます」
「けれど……」
ケントは言葉を選ぶように、ゆっくりと続けた。
「私は、マリナ嬢と一緒にいるときのほうが、自然に笑えるんだ」
マリナが頬を赤くした。
「ケント様……」
「君といると、私はいつも、立派な王族でなければならないと感じてしまう。勉強のことも、将来のことも、君は何でも正しく理解している。君の隣にいると、自分がひどく頼りなく思えることがあるんだ」
リリハは黙って聞いていた。
「だが、マリナ嬢は違う。私が何をしても、楽しそうに笑ってくれる。私のことを、難しいことを考えなくてもよい一人の人間として見てくれるんだ」
「それで?」
リリハの声は静かだった。
「マリナを選びたい、ということですか?」
ケントは目を伏せた。
「……そうだ」
マリナは困ったように首を傾げた。
「でも、ケント様。お姉様はわたくしの大切なお姉様よ?」
「わかっている」
「わたくし……」
マリナの声が震えた。
「ただ、ケント様とお話しするのが楽しくて。ケント様も、わたくしと一緒にいると楽しそうだったから……。でも、でも、ケント様はお姉さまの婚約者で…………我慢するつもりでしたのに……」
涙が、マリナの頬を伝った。
「わたくし、どうしたらいいの?」
ケントは、すぐにマリナのそばへ歩み寄った。
「泣かないで、マリナ嬢。君が悪いわけではないよ」
リリハは、その光景を見ていた。
婚約者は妹の涙を拭い、妹は婚約者の胸元に顔を伏せている。
まるで、最初から自分など、そこにいなかったかのようだった。
この一か月で、かなり親密に過ごしていたことが伺えた。
「殿下」
リリハが口を開いた。
ケントは顔を上げた。
「はい」
「婚約を解消なさりたいのであれば、正式な手続きをお取りください。私からは以上です」
「リリハ嬢……」
「それでは、失礼いたします」
リリハは一礼した。
背筋を伸ばし、扉へ向かう。
その背中に、ケントの声が追いかけてきた。
「君なら、わかってくれると思っていた」
リリハの足が止まった。
振り返らなかった。
「……そうですか」
リリハは、ただ一言だけ答えた。
リリハは自室に戻り、ぼんやりと窓の外を眺めていた。
「お嬢様ぁぁぁぁ!」
サナが叫びながら、勢いよくドアを開けて駆け込んできた。
貴族出身で、行儀作法もしっかりと身に付いているサナだが、リリハが絡むと、そんなものは吹き飛んでしまう。
「わたくし、もう、本当に、もう……!」
サナはリリハの顔を見るなり、両手で口元を覆った。
「殿下が……。ケント殿下が、マリナ様をお選びになったと……!」
「ええ」
「それを、お嬢様は、そんなに平然と……!」
「正式な手続きをお願いしたわ」
「そういうことではございません!」
サナの目に、涙が浮かんだ。
「お嬢様は、こんな風にないがしろにされていい存在ではありません!」
リリハは、サナを見つめた。
「……どうかしら」
「何をおっしゃっているんですか! お嬢様はご自身をもっと大切にするべきです!」
サナは声を震わせた。
「どうして皆、お嬢様が譲るのを当然のように思うのでしょう。どうして、マリナ様が欲しいとおっしゃれば、お嬢様が差し出さなければならないのでしょう!」
リリハは答えなかった。
「サナ」
「はい、お嬢様……!」
「明日から月末までは、商談や面会の申し出を断ってちょうだい」
「……はい?」
「クジョー家の精霊の儀が迫っているわ」
「精霊の儀……」
「サナも、毎年、聖域で私たちが感謝のお祈りを捧げていることは知っているでしょう? 今年は特別な儀式があるの。いろいろと準備があるわ」
リリハは窓の外を見た。
公爵邸の奥に、古い森に囲まれた聖域がある。
そこでは、代々クジョー公爵家が執り行ってきた儀式が行われる。
王国の歴史よりも古いとさえ言われる、特別な儀式。
サナはクジョー家の精霊使いとしての側面はほとんど知らない。
彼女にとってクジョー家は、国を守護する精霊を何百年にもわたって祀り続けている高貴な家柄だった。
侍女として教育を受けた際も、詳しく教えられたことはない。ただ、いかなることがあっても森の奥の聖域に立ち入ってはならないとだけ、聞かされていた。
「私、詳しいことは全く存じ上げないのですが、こんな時まで、家のお仕事のことを心配する必要はございません。お嬢様はまず、ご自分をいたわるべきです!」
「ありがとう、サナ」
リリハはサナの両手をキュッと握って、心からの感謝を述べた。
「お嬢様………」
半泣きのサナを無理やり退出させるとリリハは机の鍵付きの引き出しから儀式の記録を取り出した。
古い羊皮紙に、歴代の公爵家当主たちの記録が並んでいる。
普段は父の執務室の隠し扉の中にあるものだ。
今は正式にリリハに閲覧が許可されているが、実はは幼い頃にもこっそり読んだことがある。
儀式が終わった後のことを考え、リリハは深く息を吐いた。
太陽が西に傾いている。
昼と夜の長さが同じになる特別な日。
儀式の日。
森の奥に、そのストーンサークルはあった。周りにはかがり火が焚かれている。
苔むした巨石が円を描き、その中央には、平らな岩が据えられていた。
クジョー公爵家が代々、精霊の儀を執り行ってきた聖域と呼ばれる場所。
この日、儀式を見届けるため、国王と三人の王子が参列していた。ノリト王太子、ユージン第二王子、そしてケント第三王子。
ケントとリリハの婚約解消は、正式に認められた。
ケントとマリナの関係に、クジョー公爵夫妻はかなり困惑していた。それでも、マリナがケント殿下を望むのなら、その願いは叶えられるべきだと考え、婚約解消を了承した。
国王とケントからは、クジョー家に正式な謝罪があった。
国王は息子の軽率な行為は自分にも責任があるとし、王家に遺恨を残さなぬよう、リリハに高額な賠償を提示した。
クジョー家ではなく、リリハ自身に。
リリハは当然のものとして受け止めた。
ただし、社交界ではこの件はまだ公表されておらず、マリナとケントの関係に公的な位置づけはない。
すべては儀式が終わってからだと、二人は聞かされているはずだ。
少し、風が強くなった。
国王は、儀礼用の外套をまとい、石の円を見つめていた。
表情はゆったりとして、落ち着いている。
「父上。これほど大勢の王族が参列する必要があるのでしょうか」
ケントが尋ねた。
国王は息子を見た。
「必要だからだ」
「しかし、儀式の詳細は私にも……」
「知らずともよいことはある」
国王は、それ以上答えなかった。
ケントは口を閉じた。
彼の視線は、クジョー公爵家の家族へと向かった。
公爵は杖を手に、ストーンサークルの中央へ進もうとしていた。
公爵夫人は、その隣に立っている。
そして、リリハとマリナ。
リリハは白い儀礼服に身を包み、背筋を伸ばしていた。
マリナは淡い桃色のドレスを着ている。
マリナとケントはしきりに目を合わせ、お互いを確認し合っていた。
無邪気で仲睦まじい若い恋人たちの姿だ。
「お姉様」
マリナが小声で話しかけた。
「今年の儀式はいつもと大分違うのね。なんだか怖いわ」
「そうね」
夕暮れの赤に染まったストーンサークル、絶え間ない葉擦れの音。マリハは少し緊張しているようだ。
「お父様が一緒だもの。大丈夫よね?」
確認するように問いかけるマリナ。
ケントとのことがあってからしばらくは姉の様子を伺うような態度を見せていたが、すっかりいつも通りのマリナに戻った。
家族の愛を疑うことの無い純粋な子供。
リリハは改めて妹を見つめた。
人形のように愛らしい顔。大きな瞳。小さな手。
その髪には、銀の枝に青い石をあしらった髪飾りがついていた。
ケントから贈られ、リリハから譲られたものだ。
「……安心なさい。マリナ。すべてうまくいくわ」
リリハは答えた。
「そうよね!」
マリナは安心したように笑った。
杖を掲げた公爵が宣言する。
「これより、精霊の儀を執り行う」
公爵はストーンサークルの中央へ進み、杖の先を地面につけた。
「地脈の覇者、常世の大君よ」
クジョー公爵が口上を述べると、木々のざわめきがぴたりと止まった。
全ての音が消え去ったかのような静寂。
王子達の表情がこわばった。
「我が御霊に呼応しその姿を表せ。約定に従い、我らはここに参じた」
低い声が、森に響く。
「定められた代償を捧げる。契約の主よ、応えよ」
国王は目を閉じた。
公爵夫人もまた、祈るように頭を垂れた。
マリナは、両親の様子を不思議そうに見ていた。
地面が揺れた。
最初は、小さな震動だった。
足元の小石が跳ね、巨石の隙間から黒い煙のようなものが立ち上る。
公爵は杖を握りしめた。
地鳴りがした。
ストーンサークルの中央で、地面が大きく盛り上がった。
土が割れた。
岩が砕けた。
そこから、何かが這い出してきた。
巨大な節足動物だった。
無数の脚が地面を掻いている。
黒く光る硬い外殻。幾重にも連なる節。前方には、鋏のように開閉する巨大な顎があった。
ムカデに似ていた。
ただし、人間が知るどんなムカデよりも、はるかに大きかった。
長い胴体はストーンサークルの外へ伸びても、まだ終わりが見えない。
「ひいっ……!」
ケントが叫び声を発しながら後ずさり、へたり込んだ。
腰を抜かしたのか、その場から動くことができない。
ノリト王太子とユージン第二王子は、青ざめていたが、前もって何かを言い含められていたのか、かろうじて平静を保ち、その場に立ち続ける。
マリナは金縛りにあったように硬直している。
彼らの知る精霊とは、もっと美しく、神秘的なものだった。
少なくとも、こんなおぞましい存在ではない。
国王とクジョー夫妻、そしてリリハは平坦な面持ちでその光景を見つめていた。
「な、な、な、何だこれは……!? 精霊? これが、精霊!? ……父上!! これは、どういうことですか!?」
ケントは喚き続けたが、国王は我が子を見ようとしなかった。
儀式を行う公爵と同様に、ただ目の前のおぞましい蟲を見つめていた。
その巨大な触角が揺れた。
頭部が、ゆっくりと持ち上がる。
そして、その顎が向いた先にいたのは、マリナだった。
「え?」
マリナが小さく声を上げた。
巨体からは想像もできないほど、素早かった。
マリナが逃げるより早く、巨大な顎が彼女の上半身を呑み込んだ。
ぱちゅん、と。
奇妙な音がして、マリナの腰から下だけが、石の上に残った。
次の瞬間、鮮血が噴き出した。
白い石が赤く染まる。
桃色のドレスが血に濡れていく。
「――マリナ!」
ケントが叫んだ。
「マリナ!! マリナ!! 嘘だ……! 」
彼は腰を抜かしたまま叫ぶ。失禁をしたのか周囲にアンモニア臭が漂う。
蟲は石の上に残された下半身へと頭を戻すと、何事もなかったかのようにそれを呑み込んだ。
マリナの小さな足先が、蟲の口許に吸い込まれていく。
石の上には、何も残っていない。
ただ、赤い染みだけがそこに広がっていた。
蟲は長い胴体をくねらせ、再び地面の裂け目へと戻っていく。
無数の脚が石を踏み、土を掻く。
やがて、その姿は地中へ消えた。
最後に、巨大な尾の先端が闇へ沈んだ。
地面が閉じた。
ケントはわなわな震えると、そのまま意識を失い倒れこんだ。
聖域は再び静寂に満たされた。
陽は完全に落ち、かがり火が人々を照らす。
「儀式は完了いたしました」
クジョー公爵が告げた。
その場の全員が強張った顔をして、 黙りこくっていた。
リリハは、一歩も動かなかった。
妹が失われていくのを、ただ見つめていた。
忘れないように。
儀式の日から三日が過ぎた。
今日もよく晴れていた。秋らしい乾いた風が吹いている。
リリハはいつものように執務室で書類の整理をしていた。
マリナについては、先日の儀式で体調を崩し、王宮の医師のもとで治療を受けていると屋敷の使用人たちに周知した。
ほとぼりが冷めた頃、温暖な気候の保養地へ向かったことにする予定だ。
来年の今頃には、愛らしいクジョー家の令嬢が病気のため身罷ったと発表されるだろう。
ケントの心は壊れたまま戻らない。王宮の奥深くでそのままひっそり朽ちていくはずだ。
かつての婚約者だが、何の感情もわかなかった。
窓の外では、いつもと変わらない庭師が植え込みの手入れをしていた。
遠くから、厨房の物音が聞こえる。
クジョー公爵邸は静まり返っていた。
いつも明るく賑やかなマリナの姿は無い。
マリナの部屋は、まだそのまま。
机の上には、読みかけの本。
鏡台には、香水瓶。
宝石箱の蓋は開いたままで、いくつもの髪飾りが並んでいた。
銀の枝に青い石をあしらった髪飾りはそこに無い。
サナが、温かい紅茶を運んできた。サナはいつも、リリハの好みに合わせて茶葉を選び、最適な温度で紅茶を淹れてくれる。
「お嬢様、少し、お休みになってはいかがでしょうか」
「ありがとう。あともう少し」
サナは、マリナについて何も聞かなかった。
儀式についても。何があったのかも。
今年は、二十年前の代償を精霊との契約によって支払う儀式の年だった。
二十年前。
王国は未曾有の災厄に見舞われた。
長雨と異常な寒波が国土を襲い、作物は枯れた。収穫は激減し、食料は不足した。飢えによって体力を失った民の間で疫病が広がり、王都も地方も、死者が絶えなかった。
王家も、貴族も、神殿も、できる限りの手を尽くした。
だが、天候は回復せず、疫病も収まらなかった。
このままでは、王国そのものが崩壊しかねない。
当時の国王が、クジョー公爵家に精霊の使役を依頼した。
クジョー家は精霊を使役し、代償を払い、代々この国を支えてきた家系だ。
精霊は様々な力を持ち、古来より畏れられていた。
天候を正常に戻し、大地の実りを回復させ、疫病を終息させることも可能な、はかり知れない存在。
この国では、クジョー家の血をひく、力を持つ者だけが精霊を使役することが出来る。
そして、天候や疫病の収束のような大きな頼み事で精霊を使役する時は、必ず代償が伴う。
代償はいつもクジョー家の子供。
ただし、誰でもよいわけではない。精霊に差し出す子供は、クジョー家で最も大切な価値のある子供でなければならなかった。
精霊は人の血脈やエネルギーの流れを読む。大切で、貴重なものを与えられると、自分が尊重されたと分かり、喜ぶ。
リリハはその理屈をよく理解していた。
精霊にとってクジョー家は特別な何か、らしい。
あの化け物の目を確実にマリナに向けるために。確実に契約が執行されるために、 両親はマリナを一番に愛した。
両親がリリハを軽んじるのはできる限り、リリハから精霊の目をそらすためだ。クジョーの後継ぎは残さなければならない。
家が雑に扱う家畜のような子供を精霊は喜ばないし、選ばない。
こんな儀式に国王とその直系を立ち会わせるのは精霊の実態と怖ろしさを代々の王族に植え付け、強い共犯関係を築くためだ。
大昔のクジョー家当主が出した条件だ。
精霊を意のままにしたいなどと、未来の愚王が考えないように。
リリハは紅茶を一口飲むと、窓の外を見た。
眼前に広がる木々の向こうに、精霊の儀が行われた聖域がある。
二十年前、国は救われた。
作物が実り、疫病が終息し、民は再び暮らしを取り戻した。
リリハは、紅茶のカップを置いた。
「サナ」
「はい」
「私が当主になったら、やらなければならないことがあるわ」
「……領地のことでございますか?」
「それもあるわね」
リリハは、微笑んだ。
自室の机の引き出しにある、忌々しい儀式の記録を思い浮かべる。
すべてを、リリハは読み、覚え、こう結論づけていた。
精霊と契約を交わす義務がある訳ではない。
これまでの当主たちは、得たい利益の為に精霊と契約を交わし、捧げることを続けた。
国王も、それを望んだ。
都合の良い力を、誰もしなかった。
窓の外で風が吹き、森のざわめきが伝わる。
あの蟲はマリナを手に入れて満足しているのだろうか。
マリナは何も悪くない。
汚物が混じった愛情を注がれ、歪められ、捧げられた。
私が当主になったら。
こんな力を守り続ける愚かな両親も。
他人に代償を支払わせてまで、精霊の力に縋る愚かな国王もその係累も。
全員、蟲に捧げてやる。
もう、譲るつもりはなかった。




