あなたのために尽くすのは、今日で終わりにいたします
「リディアは少し世話を焼きすぎるんだ。頼んでもいないのに、何でも先回りしてやりたがる」
伯爵家で開かれた夜会の最中、その言葉を耳にした瞬間、リディア・エルフェルトは回廊の途中で足を止めた。広間から少し離れた場所だったため人影は少なく、開け放たれた窓から入り込む夜風が薄いカーテンを揺らしている。角を曲がった先には数人の青年が集まっているらしく、笑い混じりの声がよく聞こえた。そして、その中にひときわ聞き慣れた声がある。アルベルト・クラウゼン。伯爵家の嫡男であり、幼い頃からリディアの婚約者として隣にいた男だった。
「だが、お前は随分助けてもらっているだろう。今日の夜会だって、かなりリディア嬢が準備していたんじゃないのか?」
友人らしい青年がそう返すと、アルベルトは軽く笑った。
「確かに多少はな。でも、あれくらいなら誰にでもできるだろう。本人が好きでやっているんだから、好きにさせているだけだよ」
リディアは何も言わなかった。胸を抉られたように痛んだわけでも、今すぐ泣き出したくなったわけでもない。ただ、不思議なくらい頭の中が静かになった。
二人が婚約したのは十歳になるよりも前のことだ。侯爵家と伯爵家を繋ぐために決められた婚約ではあったものの、リディアはそのことを不幸だと思ったことはなかった。アルベルトは幼い頃から真面目で、勉強もよくできた。社交の場では少し不器用で、人の顔や名前を覚えるのも得意ではなかったが、根は悪い人間ではない。それどころか、長く一緒にいるうちにリディアはいつしか彼を本当に好きになっていた。将来夫婦になるのだから、苦手な部分くらい自分が補えばいい。彼が困っているなら支えればいい。そう思うようになったのは自然なことだった。
だからリディアは、アルベルトが夜会へ出席する前には参加者の名前や家族構成をまとめ、最近何があった家なのかまで整理して渡した。返事を忘れている手紙があればそれとなく知らせ、取引先へ贈る品を選ぶ際には相手の好みを調べた。伯爵家で茶会を開くことになれば席順を確認し、予定が重なれば調整し、アルベルトが不用意な発言をした時にはその後ろでさりげなく相手との関係を修復した。いつからか伯爵家の使用人たちまで、何か困ればリディアへ相談するようになっていた。
誰かから命じられていたわけではない。リディア自身がしたくてしていたことだ。
だから、アルベルトの言葉はある意味では間違っていなかった。
本人が好きでやっている。
その通りだ。
けれど、好きでやっていることと、相手がそれを当然だと思っていいことは別だった。
「結婚してからもあの調子だと、少し息が詰まりそうなんだよな。『これは済ませた?』『あの方には返事をした?』って毎回確認されるし。母親じゃないんだから、そこまで構わなくてもいいだろうに」
そこで周囲から小さな笑い声が上がった。
リディアの中で、何かがすっと冷めた。
怒りよりも先に、馬鹿らしくなってしまった。自分はずっと彼のためになると思って動いていた。けれど、その相手から見れば、自分は頼まれてもいないのに勝手に世話を焼き、少し鬱陶しい女だったらしい。
ならば、やめればいい。
それだけの話だった。
リディアは踵を返さず、そのまま角を曲がった。数人の青年に囲まれていたアルベルトは、彼女の姿を見つけると一瞬笑顔を浮かべたものの、リディアがどちらから歩いてきたのか気づいた途端、わずかに表情を強張らせた。
「リディア……いつからそこに?」
「少し前からよ。私が世話を焼きすぎているという辺りからかしら」
穏やかに答えると、アルベルトは気まずそうに咳払いした。
「いや、今のは別に悪く言うつもりじゃなかったんだ。お前が色々してくれているのは分かっている。ただ、その……何でも先回りしすぎるところがあるというか、もう少し肩の力を抜いてもいいんじゃないかと思っているだけで」
「そうだったのね。私はあなたが困らないようにと思ってやっていたけれど、かえって迷惑だったのならごめんなさい」
「迷惑とまでは言っていないだろう。少し構いすぎると言っただけだ」
「でも、誰にでもできることなのよね?」
アルベルトは黙った。リディアは責めるつもりもなく、ただ自分の中で答えを決めるように続けた。
「だったら、もう大丈夫ね」
「何が?」
「あなたのために尽くすのは、今日で終わりにするわ」
アルベルトが目を瞬かせた。
「……何だ、それは。そこまで極端になる必要はないだろう」
「極端かしら?あなたは自分でできるし、私は少し世話を焼きすぎていたのでしょう。なら、余計なことをしないようにするだけよ」
アルベルトはしばらく困ったように眉を寄せていたが、やがて肩をすくめた。
「まあ……お前が少し楽になるなら、それでいいんじゃないか。何でも自分で抱え込む必要はない」
その言葉を聞いた時、リディアはもう何も言わなかった。
翌日から、彼女は本当に何もしなくなった。正確には、自分が自主的に引き受けていたアルベルト関連のことをすべて手放したのである。伯爵家の執事から三日後の晩餐会について使いが来ても「アルベルト様ご本人にご確認ください」とだけ返した。取引先への贈答品について相談されても「私が決めることではありません」と断った。翌日にはアルベルト本人から『明日の会食に参加する侯爵夫妻について、以前何か聞いていなかったか』と手紙が届いたため、『招待状や記録をご確認くださいませ』とだけ返した。
以前なら、侯爵夫妻がどのような話題を好むか、最近領地で何があったか、前回アルベルトとどんな会話をしたかまで整理して渡していただろう。けれど、もうしない。彼が自分でできると言ったのだから。
最初の数日は、何も起こらなかった。アルベルトからも特に文句は来ず、リディアはむしろ少し拍子抜けしたほどだった。本当に自分が余計なことをしていただけだったのかもしれない。そう思いかけた頃から、少しずつ妙な話が耳へ入るようになった。
アルベルトが会食の日を一日勘違いした。以前会ったことのある子爵を初対面だと思い込み、相手を不快にさせた。重要な取引先から届いた手紙への返答を十日近く忘れていた。長く付き合いのある老侯爵の誕生日祝いを失念し、その一方で交流の薄い家へ必要以上に高価な贈り物をしてしまい、妙な憶測を呼んだ。
以前なら起きなかった失敗ばかりだった。
いや、以前だって起きる可能性はあった。ただ、その前にリディアが気づき、何もなかったように整えていただけなのだ。
「お嬢様、本当にこのままでよろしいのですか?」
ある日、侍女が心配そうに尋ねた。アルベルトが今度は王宮で開かれる晩餐会の招待客をほとんど把握していないらしい、と噂になっているのだという。
リディアは手元の本から顔を上げると、小さく首を傾げた。
「どうして私が何かする必要があるの? アルベルトは一人でできると言っていたもの。私は今まで少しやりすぎていたみたいだから、これからは自分の時間を大切にするわ」
そう口にすると、自分でも驚くほど心が軽かった。
実際、時間は一気に増えていた。これまでは朝からアルベルトの予定を気にし、午後には伯爵家から届く相談事に目を通し、夜会が近づけば彼のための準備をしていた。それらがなくなった最初の数日は、逆に何をすればいいのか分からないほどだった。
そこでリディアは、以前何度も誘われながら断っていた友人の茶会へ出席してみることにした。
「リディア、本当に来てくれたのね! 最近は誘っても『アルベルト様の予定があるから』ばかりだったでしょう?」
「今までなかなか時間が取れなくて、ごめんなさい。でも、これからは少し自分の時間も持とうと思って」
「……何かあったの?」
「少し考え方を変えただけよ」
友人は何か察したようだったが、深くは聞かなかった。久しぶりの茶会は思っていた以上に楽しく、誰かの予定を気にせず、時計を見る必要もなく、ただ好きな話をして笑うだけの時間がこんなにも気楽なものだったのかと驚いた。
さらにリディアは、父である侯爵が管理する領地経営にも興味を持つようになった。以前から学びたいと思ってはいたものの、アルベルトを支えるための勉強を優先して後回しにしていたのだ。
「領地の仕事を学びたい?急にどうした」
書斎を訪ねた娘に、侯爵は少し意外そうな顔をした。
「前から興味はあったの。ただ、他のことを優先していただけ。これから少しずつ教えてほしいのだけれど、駄目かしら」
「構わないが……アルベルト君の手伝いは?」
「やめたわ」
その答えを聞いた侯爵はしばらく黙っていたが、やがて「そうか」とだけ言った。なぜか少しだけ機嫌が良さそうだったことにリディアは首を傾げたものの、それ以上は気にしなかった。
父から領地の産業、商会との取引について教わり始めると、リディアは思っていた以上に早く内容を理解していった。考えてみれば当然だった。 それまでアルベルトのために使っていた能力を、今度は自分自身のために使っているだけなのだ。
「お前、随分できるじゃないか。正直、ここまで理解が早いとは思わなかった」
「そう?」
「ああ。もっと早く教えておけばよかったな」
父からそんな言葉を掛けられたことはなかった。
その頃になると、社交界でも少しずつリディア自身の名前が話題に上るようになった。
今まではすべてアルベルトの成果の陰に隠れていた能力が、ようやく彼女自身のものとして評価され始めていた。
一方、アルベルトから届く手紙は日に日に増えていった。晩餐会の参加者について何か知らないか、以前選んでくれた贈答品はどこの商会のものだったか、予定をどのように整理していたのか。リディアはそのどれにも必要最低限の返事しか送らず、やがて数日後、ついにアルベルト本人が侯爵邸へやってきた。
応接室へ入ってきた彼は、以前より少し疲れて見えた。服装も髪もきちんと整っているが、目元には薄く疲労が滲んでいる。
「最近、随分忙しいらしいな。侯爵領の仕事まで手伝っていると聞いた」
「時間ができたからよ。それで、今日は何の用?」
リディアが尋ねると、アルベルトは少し言いにくそうに視線を逸らした。
「その……来週、重要な晩餐会があるんだ。参加者の中に、以前お前が話していた公爵がいるだろう? 確か最近、領地で新しい事業を始めたはずだ。その辺りを少しまとめてもらえないかと思って」
以前なら、何の疑問もなく引き受けただろう。
けれどリディアは、静かに首を傾げた。
「どうして私が?」
「どうしてって……お前はそういうことが得意だろう。今までだって調べてくれていたじゃないか」
「あれくらい、誰にでもできることなのでしょう?」
アルベルトの表情が固まった。
「……あの時のことを、まだ怒っているのか?」
「怒ってはいないわ。ただ、もうしないと決めただけ」
「言い方が悪かったことは認める。そこは謝る。だから今回だけでも――」
「嫌よ」
はっきり断ると、アルベルトは目を見開いた。
「リディア。私たちは婚約者だろう。互いに支え合うのは当然じゃないか。何も全部やれと言っているわけじゃない」
「支え合う、ね」
リディアは静かに彼を見つめた。
「だったら、私があなたを支えていた間、あなたは私のために何をしてくれたの?」
「……何?」
「あなたの予定を管理して、手紙を確認して、贈り物を選んで、失言したら取りなして、伯爵家の方から相談を受けて。私はずっとあなたを支えてきたわ。でも、あなたは?」
アルベルトはすぐには答えられなかった。
リディアは見返りが欲しかったわけではない。ただ、今まで一度も考えなかったことを、初めて口にしただけだった。
「私はあなたが大変なら助けたいと思っていた。夫婦になるのだから、一緒に頑張ればいいと思っていた。でもあなたは、それを誰にでもできることだと思っていたのよね」
「……あれは、本当に言い方が悪かった。悪かったと思っている」
「それだけじゃないの。私が何もしなくなって困ったから、今になって私のしていたことが必要だったと気づいただけでしょう?」
アルベルトは何も言わなかった。
「もし何も困らなかったなら、今日ここへ来た?」
その問いにも答えられず、アルベルトは俯いた。
しばらく沈黙が続いた後、彼は小さく息を吐いた。
「……来なかったと思う」
その答えは、リディアが想像していたものよりずっと素直だった。
「自分でも馬鹿だったと思う。お前がやってくれていたことを、いつの間にか全部当然だと思っていた。予定を忘れなくなったのも、人付き合いが上手くなったのも、自分が成長したからだと勘違いしていた。でも、お前が何もしなくなって初めて分かった。私はずっとお前に助けられていた」
リディアは何も言わず、アルベルトの言葉を聞いていた。
「だから手伝ってほしくて来た。それも本当だ。でも……今は、それより先に謝るべきだった。悪かった、リディア。お前がしてくれていたことを軽く扱った」
それは、夜会の後に彼が口にした言い訳とは違っていた。
リディアはしばらく考えた後、静かに答えた。
「私も、やりすぎていたのかもしれないわ。あなたが何も言わなくても先回りして、何でもやってしまっていたもの。だからあなたが慣れてしまった部分もあると思う」
「いや、それでも――」
「でもね、前みたいには戻らないわよ」
リディアが言い切ると、アルベルトは真剣な顔で頷いた。
「分かった。これからは自分のことくらい自分でやる。お前が何でもしてくれる前提で考えるのはやめる」
「本当に?」
「ああ。……正直、もう少し失敗するかもしれないが」
その言葉に、リディアは思わず小さく笑った。
「それくらい、自分でどうにかしなさい」
「そうするよ」
その日はそれで終わった。
それからしばらく、アルベルトは本当にリディアへ頼らなくなった。以前ならすぐに確認してきた予定も自分で整理し、手紙も自分で返し、贈答品も伯爵家の使用人と相談して選ぶようになった。当然、失敗がすべてなくなったわけではない。相手の好みを間違えて少し気まずい思いをしたり、予定を詰め込みすぎて疲れ果てたりすることもあった。それでも、そのたびにリディアへ泣きつくことはなくなった。
一方のリディアも、以前のようにアルベルトのことばかり考える生活には戻らなかった。侯爵領の仕事を続け、友人との時間も大切にし、時にはアルベルトと会って話をする。二人の距離は少し変わった。婚約者であることに変わりはないのに、以前よりも互いに一歩ずつ離れて立っているような、不思議な関係だった。
けれど、その距離は嫌なものではなかった。
数週間後、アルベルトが侯爵邸を訪れた時のことだった。用事を終えた彼はいつものように立ち上がり、「今日はもう帰るよ」と言った。以前なら、この後の予定をリディアが確認し、次に会う日を決め、何か忘れていないかまで口を出していたところだろう。
「じゃあ、またな」
「ええ」
彼が扉へ向かう。
リディアはその背中を見つめながら、ほんの少し迷った。
「……ねえ、アルベルト」
呼び止めると、彼はすぐに振り返った。
「何だ?」
「今度の休日、予定はある?」
「いや、特にはないけど……どうした?」
リディアは一瞬だけ視線を逸らした。別に大したことを言おうとしているわけではないのに、なぜか少しだけ気恥ずかしい。
「だったら……外食に行かない?」
「……え?」
「たまには二人で食事くらいしてもいいでしょう」
アルベルトは驚いたまま数秒固まっていた。
「私と?」
「他に誰がいるのよ。嫌なら別に――」
「嫌なわけがない。行こう」
食い気味に返され、今度はリディアが少し目を丸くした。
「そんなに慌てて答えなくてもいいでしょう」
「いや、断られたら困ると思って」
「誘ったのは私よ」
アルベルトが少し照れたように笑う。
「店は私が探しておくよ」
その言葉に、リディアは反射的に眉を上げた。
「それ、また私に候補を調べさせるつもりじゃないでしょうね?」
「違う違う。今度は本当に私が探す。予約もする」
「……なら、期待しているわ」
「あまり期待しすぎないでくれ。店選びはまだ慣れていないから」
「誰にでもできることなのでしょう?」
「それはもう忘れてくれないか……」
困ったように顔をしかめるアルベルトを見て、リディアはとうとう笑ってしまった。アルベルトも少し遅れて笑い出し、久しぶりに二人の間へ以前とよく似た空気が戻る。
けれど、それは以前とまったく同じものではなかった。
リディアはもう、アルベルトのために何もかも先回りして尽くすつもりはない。アルベルトもまた、それを望んではいなかった。
誰かのために尽くすことが悪いわけではない。好きな人を支えたいと思うことも、決して間違いではない。ただ、それが一方通行になってしまえば、いつかどちらかがそれを当然だと思ってしまう。
だから、あの日の言葉を撤回するつもりはなかった。
けれど、それは大切にするのをやめるという意味ではない。
今度は一人がもう一人を支えるのではなく、二人で支え合えばいいのだから。
数日後の休日、どんな店へ連れて行かれるのか少しだけ楽しみにしながら、リディアは笑顔でアルベルトを見送った。




