比喩表現ってなんでしょうね
比喩表現が必要か否かみたいな議論があったような、あるいはなかったような……。
どうにも記憶の怪しい今日この頃ではありますが、個人的にはやはり比喩表現というのは好ましいなと思います。
さて、ご存じの通り感情というのはひどくアナログのものです。
途切れのない連続したものとして存在するこれらを、私たちは時折言葉によって切り取ります。
例えば、炎がゆらゆらとしているのを見て、「これは燃えている」と形容することでしょう。
「燃えている」この言葉は眼前の炎のみに適用されるものでしょうか?
遠い場所、誰かが付けたマッチの火や蝋燭の火なんかも「燃えている」と言えます。
これは果たして区別されるものでしょうか?
確かに時間や場所、あるいは温度だとか種々様々あります。
しかし、私たちは一様にこれらを「燃えている」と形容することでしょう。
このように個々の差異を捨て去り、一様にすることをデジタル化というのでしょう。
すると、言葉というのは事象のデジタル化するコンバータなのでしょう。
この点を考えると、感情のアナログをデジタル化するのは言葉ということになります。
例えば、優勝を目前に敗れた最後のインターハイと、家族を亡くした時の感情。
これらは同じ悲しいというカテゴリーに分類されます。勿論悔しいだったり、種々はあれ一般にこれというレッテルを貼ることにしましょう。
けれど、インターハイと肉親を亡くした苦しみは同質と言えるでしょうか?
どちらも一様に似た姿を持つ事実はありますが、しかし、完全に同一なものとは言えないでしょう。
この感情の差異を指し示す手段とは何でしょうか?
この一つが比喩表現と言われるものです。
恋い破れたことを花が散ったなんて言ったり、あるいはつまらない日々を灰色と言ったり。優勝を逃したことは足場を失くしたことかもしれないし、家族を失うことはしがみついていた柱を失うことかもしれない。
さてこれら一様に悲しいと形容されるものでも、差異は確かにあります。
すると、比喩表現とは何でしょうか?
これはきっとジオラマというべきものです。
デジタル化した感情というのは、決してアナログに戻らないものです。
比喩表現はそのデジタルを、投影して私たちに想像を促す装置なのです。
例えば、破れた恋の散った花は綺麗な桜色をしているかも知れません。しかし、これは全く事実ではなく、単なる私の想像です。
しかし、アナログ化の不完全な比喩表現は不要なものでしょうか?
これに私は間違いなく、大きな声で否と言います。
全く一つの解釈が正しいわけではなく、そしてアナログ的解釈は一過性のものだからです。
立場が違えば、体調が違えば全く考えることは変わって、それを単純に一意に決めることは不可能です。
ですからこそ、我々は比喩表現というツールを用いるのでしょう。




