表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
国の骨  作者: 清河逢真


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

8/8

第八章 底に残る順番

 端末の黄線は、廊下を曲がる前からもう増えていた。


 東都技研の隔離区画へ向かう通路は、夜明け前の湿気を中途半端に引きずっている。外の雨を吸った上着の匂いと、自販機の安い湯気と、消毒液の乾いた刺激が、狭い空気のなかで噛み合っていなかった。向坂凌は歩きながら携帯端末の補助表示を睨んだ。


 【小児用抗痙攣薬補給 後順位移行】

 【島内透析補液 再審査待機】

 【緊急搬送指定便 経路保留】


 障害の説明はまだ付いていない。だが、順番だけはもう変わっている。


 おかしい、で済むうちは、まだただの障害だ。


 黄線の並びを見た瞬間、向坂の苛立ちは、回線や機器の話を越えた。太い束を先に通す時、こういう細い線から静かに遅れる。港の数字は持つ。報告も持つ。先に困るのは、紙の上で数に見えにくい側だ。


 隔離検証室へ入ると、冷却機の唸りが耳の奥で低く擦れた。白い壁、夜通し回した機材の熱、乾きすぎた空気。柚木が中央卓の端末から顔を上げる。


「自然故障なら、ここまで綺麗に並びません」


 挨拶の代わりみたいに言う。眠気で声は掠れているのに、指先だけ妙に速い。


「どこだ」


 向坂が覗き込むと、三面の比較窓が開いていた。左が港湾制御網の同期履歴、中央が復旧走行の優先経路、右が障害発生前後の差分。普通なら泥みたいに付くはずの再試行痕や欠損が、一箇所だけ不自然に揃っている。


 海底線異常から自動復旧へ移る手前だった。


「崩れてるのに、汚れ方が新しすぎる」


 向坂は中央画面を指で叩いた。壊れたものを継ぎ直した跡ではない。誰かが一度ほどいて、別の順番で積み直したような、いやな整い方だった。


「先に通した束、出せ」


 柚木が表示を広げる。神港の決済幹線。沿岸燃料束。中央港湾の保全系。向坂の眉が動いた。逆に押し下げられているのは、さっき廊下で見た黄線と同じ側だった。地方医療補給、内陸向け小口便、個別指定の緊急搬送。


「ここで切ったら、地方便が先に死にます」


 柚木は画面から目を離さずに言った。


「だから掘ります。今のうちに」


 向坂が指示を出すより先に、柚木の手が互換層の参照へ滑り込んだ。向坂はそれを止めなかった。誰が後ろへ回されるかを見たあとで手を止めない人間は、そう多くない。


「鏡像、もう一段下。今の走行じゃなく、休眠参照の呼び出しまで追え」


「権限、足りますか」


「足りないなら、足りる痕だけ拾え」


 柚木は短くうなずいた。キーを叩く音が、乾いた室内で細く跳ねる。向坂は立ったまま、補助窓の黄線がまた一本増えるのを見た。数字の変動は小さい。だからこそ、あとで誰も責任を引き受けない種類の遅れだった。


 待つ時間がいちばん嫌いだった。考えるには遅く、動くには止められる。その間にも、後ろへ回される線だけが増える。



 紙コップの縁は、最初から安っぽかった。


 検証室を出て廊下の自販機で黒い液体を買い、ひと口目でまずさに顔をしかめた瞬間、端末が震えた。隔離室の入室権限変更。共同検証班の権限が切り替わり、一覧から柚木の名前だけが落ちている。


 向坂は紙コップを握ったまま踵を返した。


 ガラス扉の前にはもう保安が二人立っていた。室内の柚木は立ち上がりきれず、椅子の脇で止まっている。そこへ、霧島沙映が廊下の奥から歩いてきた。眠っていない顔だった。


「早いですね」


「早くしたんでしょ」


 向坂の声は低く平たかった。霧島は受け流しも言い訳もしない。


「ここから先、共同封鎖扱い。福原側の要請も入った。ログ保全は上で持つ」


「だから柚木を外す?」


「そうね」


 霧島は一歩も引かずに続けた。


「未承認で深層を触らせたら、共同管理線そのものが閉じる。今ここで深部参照の痕が外へ漏れたら、港の決済束が先に波打つ。だから止める」


 向坂は黙った。理は分かる。分かるから腹が立つ。


「じゃあ、その間に後ろへ回された線は誰が持つ」


「持てない線が出るから、こっちも急いでる」


 霧島の声は硬いが、逃げてはいなかった。


「あなたが悪いんじゃない。柚木も悪くない。ただ、今この段で深層へ降りた人間をそのまま置いたら、上は保全面を理由に全部閉じる。そうなったら、あなたたちが今かろうじて見えてる断片も消える」


 柚木の喉が一度だけ動いた。


「僕、漏らしてません」


「知ってる」


 霧島は短く言った。


「だけど、漏らすかどうかじゃない。見たかどうかで切られる線がある」


 紙コップの薄い縁が、向坂の指の中で歪んだ。中央が細い線を当然みたいに遅らせる癖は、今さら珍しくもない。だが、それが現場判断ではなく、もっと深いところの順番とつながっているなら話は別だ。


「共同管理潰した時と同じだな。触った人間から外す」


「違うとこもある」


 霧島は向坂を真っ直ぐ見た。


「今回は、外す側も全部は見えていない。ただ、ここで触らせ続けたら、もっと広い線が閉じる。それだけは分かってる」


 柚木は保安の横を通る前に、机上の紙片を二つ折りにして向坂の手元へ滑らせた。何も言わない。その代わり、補助窓に残った黄線を一度だけ見た。小児用抗痙攣薬補給。まだ消えていない。


 扉が閉まる。電子錠の乾いた音が、部屋の中身まで別のものに変えた。



 紙片には、短い番号列が並んでいた。柚木が深掘りの手前で拾った参照先の控えだ。


 向坂は自席に戻らず、補助端末のローカル領域を開いた。上の封鎖が完全に降りる前に自動退避されていた断片鏡像が、まだ数十秒ぶんだけ残っている。足りるかどうかではない。足りるしかなかった。


 番号列を打ち込む。


 現れた層は、現行制御の下に張り付いたまま眠っていた。使われていないはずの優先処理。いや、使われていないように見せて、非常時だけ起きる回路だ。


 文字列が流れる。


 【海生維。】

 【港金安。】

 【中枢──】


 最後は欠けていた。だが十分だった。


 向坂は画面を見たまま、背中の奥が薄く冷えていくのを感じた。今の仕様書の思想ではない。太い束と中枢を先に持たせ、その代わりに地方、民間、個別現場を初めから遅れてよいものとして扱う順番。昨夜誰かがその場で書き足した傷ではない。もっと古い理屈が、今の基盤の底でまだ生きている。


 封鎖した側の理も分かる。ここで深く触れれば、上はもっと広く閉じる。だから止める。


 だが、止めることが正しいほど、その古い順番は下で守られる。


 冷却機の唸りが、さっきより低く聞こえた。封鎖されたガラスの向こうで、別の班が入ってくる。誰も彼も、全部は知らない顔で動いている。


 向坂は画面から目を離さず、ようやく息を吐いた。


 今、港の深層で起きているのは、障害対応の歪みではない。


 改ざんの下から、もっと古い順番が起き上がってきている。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ