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国の骨  作者: 清河逢真


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第六章 継ぎ目

 控室の銀盆に置かれた水差しが、窓の白さを鈍く返していた。


 京都・公議院西棟の控室は、朝から妙に乾いていた。外は雨の気配を残しているのに、室内だけが紙と古い木の匂いで静まり返っている。久世綾乃は机上の議事差替え票へ目を落とした。薄い和紙の端が、指先にかすかなざらつきを返す。


 【本日午前 公議院改革法案 採決前審議】


 その下へ、赤い追記が一行だけ差し込まれている。


 【神港障害に係る緊急説明聴取 先行】


 綾乃は紙を裏返さなかった。裏を見ても、同じ手が入っていると分かるだけだった。


「ようできた順番やこと」


 そう言うと、秘書の槙原が顔を上げた。


「昨夜のうちに差し替えが入っています。議長室経由です。法案側には今朝六時台」


「早いですね」


「早すぎます」


 綾乃は頷いた。


 神港の障害はまだ一つの説明に収まっていない。なのに、公議院ではもう、それを法案の前へ置く段取りだけが整っている。偶然で済ませるには、紙の届く速度がきれいすぎた。


 控室の外で足音が止まり、三条宗雅が入ってきた。年齢のせいではなく、昔からああいう歩幅なのだろうと思わせる入り方だった。背後に二人、朝正会の若手がつく。


「久世さん、今日の運びは見はりましたな」


「見ましたえ」


「なら話は早い」


 三条は立ったまま言った。


「改革法案は一度引かせましょ。こんな日に、継ぎ目を外すような真似をしてよろしいことない」


「継ぎ目、ですか」


「そうです。国は速さだけで持つもんやない。神港ひとつ乱れただけで、この騒ぎですやろ。いま要るんは、古い骨を残すことです」


 綾乃はその言い方を聞きながら、三条の爪の先だけを見た。よく手入れされている。こういう男ほど、泥のついた話を上品な言葉で包む。


「古い骨が、何を残してきたかも、今日の議場では問われましょう」


「問わせたらよろしい。答える側を選べばええだけや」


 三条はそこで少し笑った。


「久世さんは、壊し方の雑な若い連中とは違う。どこで止めるか、ようご存じや」


 改革法案そのものを嫌っているのではない。今日、神港を使って止めたいだけだ。綾乃にはそれが分かった。分かったうえで、嫌悪も、完全な否定もできなかった。こういう男がいるから壊れずに済んだ場面を、彼女は知っている。


 ただ、それで切られたものの方も知っているつもりだった。


 三条が出ていくのと入れ違いに、久世澪が入ってきた。東新会の紺のバッジを胸に付けたまま、母を見た。


「お母さん、もう聞いてるよね」


「聞いてます」


「うちの法案にぶつける気や。しかも、神港の話をまだ誰も説明できてへん段階で」


 澪の声は抑えられていた。抑えている時ほど、怒りが浅くない。


「今朝、朝正会が“危機時に制度の柱を揺らすな”で回し始めてる。お母さんもそこへ乗るの」


「乗るかどうかで済む話やないでしょう」


「済まへんから言うてるの」


 澪は机へ一歩だけ近づいた。


「今日これを止めたら、次は“危機対応優先”で何でも先送りできる。神港が本当に危ないならなおさら、見えへん段取りで潰したらあかん」


 綾乃は娘の顔をまっすぐ見た。若い頃の自分より、目に迷いがない。それが羨ましくないと言えば嘘になる。


「澪」


「うん」


「今日ここで、全部を明るい方へ開くのが正しいとは限りません」


「それ、お母さんの嫌いな言い方やで」


 澪は即座に返した。


「“限りません”で止める時って、だいたい誰かが後ろへ回される時や」


 その一言で、控室の空気が少しだけ冷えた。


 綾乃は言葉を選んだ。選びすぎれば逃げになると知りながら。


「私は法案を捨てる気はありません。ただ、今朝のぶつけ方が雑すぎます。雑なまま押せば、あとで法案そのものが軽くなります」


「軽くしてるの、誰なん」


「議場でしょう」


「違う。そう言って受ける側や」


 澪はそこで唇を噛み、すぐ離した。


「お母さん、今日わたしらを守る気ないんやね」


 守る、という言葉が、一番残酷だった。守れないものを知っている者に、その語はよく刺さる。


 綾乃は答えなかった。答えないこと自体が、もう返事だった。


 澪は頷きもせず、控室を出た。扉が閉まる音は軽かったのに、信頼が削れる時の音だけは、いつも大きい。


 午前の議場は、静かな顔で荒れていた。神港障害の緊急説明は、説明になっていない数字と時間だけが先に並ぶ。そこへ改革法案反対派が、「こういう時こそ継続機構を弱らせるな」「古い手当てを壊したあとで誰が責任を取るのか」と丁寧な声で重ねていく。


 綾乃も立った。


 立てば、言わなければならない。


「拙速な制度変更が、危機の最中にさらなる空白を生むことは避けねばなりません」


 言葉は滑らかに出た。滑らかに出るほど、嫌だった。


「少なくとも本日の採決工程については、一度落ち着かせるべきです。いま必要なのは、勝ち負けではのうて、順番を誤らぬことやと考えます」


 場内には大きなざわめきは起きなかった。こういう時の京都は、正面から騒がない。代わりに、賛同の沈黙が広がる。


 綾乃は演壇から降りながら、傍聴席の端に澪の姿を見た。娘は拍手しなかった。ただ立ち上がりもせず、母を見ていた。失望は、怒りより静かだった。


 昼を過ぎると、法案採決前審議は正式に先送りされた。記者向けの文言は整っていた。


 【危機下における慎重運用のため。】


 綾乃はその文を読んだ時、言い回しに小さく引っかかった。慎重運用。珍しくはない。だが、今朝からその語ばかりが妙に揃っている。議長室差替え票、朝正会の口上、官房説明の下書き、そしていまの文面。


 誰かが同じ箱から言葉を配っている。


 夕刻、綾乃は公議院西棟を出て、式部院外縁の回廊へ向かった。観光客の入らない石敷きはまだ少し湿っており、苔の匂いが低く残っている。表の門ではなく、記録官が使う脇の通路だった。


 冬木清馬が待っていた。史料室主任記録官。頭を下げる角度まで古い人間だが、今日の顔には余白がなかった。


「次長は、長うは取れへんと」


「それで結構です」


 案内された先の小さな応接には、御厨宗親が一人で立っていた。障子の向こうの光だけが白く、部屋の中は静かすぎる。


「久世さん」


「急で失礼します」


「急な方がええ時もあります」


 御厨は座らずに言った。


「何をお聞きになりたいんです」


 綾乃は少しだけ間を置いた。


「今日の神港障害そのものではありません」


「ほう」


「その使われ方です。説明が整う前から、議事の順番だけが整いすぎている。しかも、どこも同じ語を使いすぎています」


 御厨の目が、ほんのわずかに細くなった。


「慎重運用、継続保全、順番を誤らぬこと。誰かが古い箱を開けて、そこから言葉を出しているように見えます」


「古い箱、ですか」


「ええ」


 綾乃は御厨から目を逸らさなかった。


「封じたはずのものが、また現役の顔をして動いている。そう見えるのですが、私の見過ぎでしょうか」


 冬木の指が、後ろで一度だけ止まった気配がした。


 御厨はすぐには答えなかった。答えない時間の取り方が、肯定よりよほど多くを漏らす男だった。


「久世さん」


 やがて彼は言った。


「見過ぎではありません。ただ、見えたからといって、いま開けてよいものとも限りません」


「開いているから、聞きに来たのです」


「開いているのは、蓋やないかもしれません」


「では何です」


 御厨は障子の桟へ視線を移した。


「継ぎ目です」


 その一語だけで十分だった。神港の危機、今日の議場、差し替え票の速さ、同じ語の並び。全部が一本ではなくても、同じ古い手つきの近くにある。


 綾乃はそこで初めて、喉の奥に薄い冷えを覚えた。


「……昔の話が、いまの順番に混じっていると」


「私は何も申し上げておりません」


「そうでしょうね」


「ただ」


 御厨はそこで初めて綾乃へ正面から視線を戻した。


「いま慌てて全部を白日に出せば、折れるものが多すぎます」


「折れなければええんですか」


「折れずに腐るよりは、まだ」


 その先を、彼は言わなかった。


 綾乃は小さく息を吸った。守るために使ってきた論理が、自分の足元を侵し始める時の音は、いつも外からは聞こえない。


「分かりました」


 そう言って立ち上がると、御厨が最後に一つだけ付け足した。


「真下さんは、もう痛みの側に入っています」


 綾乃はその名で足を止めた。


「あなたがどちらへ寄るかで、次に壊れる順番が変わります」


 回廊へ出ると、夕方の湿気が少し戻っていた。石の目地にたまった水が、薄い空を逆さに映している。綾乃はそこへ自分の顔を見なかった。


 見れば、まだ戻れる気がしてしまうからだった。



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