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国の骨  作者: 清河逢真


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第五章 匂い

 防潮壁の向こうで、鉄板が一枚ずつ鳴っていた。


 神港再開発地区の仮囲いは、朝の潮気で白く曇っている。岸壁沿いの道路には工事車両の泥が乾き切らずに残り、風が吹くたび細かい砂が靴の甲へ当たった。梶原省吾は記者車両の助手席で窓を少しだけ下ろし、録音機の赤い点を見た。港の匂いの奥に、切断されたケーブルの焼けた樹脂臭がまだ薄く残っている。


 運転席の安住慶介が言った。


「ほんまにここで出てくると思うか」


「出てこなくても、待つ値打ちはあります」


「相変わらずやな」


 安住はハンドルに肘を置いたまま、仮囲いの切れ目を見た。


「今朝の障害だけでも充分記事になる。局所障害で押し切る政府の第一報、神港の優先歪み、病院便の遅延。そこへ再開発まで乗せたら、社は喜ぶやろうが、証拠が薄いと飛ぶぞ」


「分かっています」


「おまえの“分かってる”は、だいたい分かってへん時の言い方や」


 梶原は答えなかった。


 目の前の下請保守会社は、再開発地区の外縁にへばりつくような古い四階建てだった。外壁は塩でくすみ、入口脇の社名板だけが新しい。二十分前、港湾労務側の知り合いから短い連絡があった。


 【一人だけ口を開く。九時まで。録るなら今。】


 それだけだった。


 助手席の足元には、昨夜の取材メモが散っていた。神港障害の前から、再開発を急ぐ一群が「旧系統は危ない」「今のうちに統合基盤へ組み替えないと国が止まる」と、必要以上に吹いて回っていた話。単発なら、よくある営業文句で済む。だが今朝の障害と重なると、言葉の手触りが変わる。


 車外の自動扉が開き、一人の男が出てきた。四十前後。作業着の胸ポケットに名札はなく、肩にまだ油の黒ずみが残っている。男は左右を見てから、記者車両の後席へ滑り込んだ。


「五分だけです」


 声が小さかった。小さいというより、音量を上げる習慣を捨てた人間の声だった。


 梶原は名乗らず、録音機だけ見せた。


「切ってもいいです」


「入れといてください。切ると、あとで言うてないことにされる」


 男はそう言ってから、唇の端を拭った。


「ただ、名前は出さんといてください」


「分かっています」


「顔も」


「出しません」


 男は前を向いたまま訊いた。


「新聞さん、今朝の障害、ほんまに事故やと思うてますか」


「思っていません。ただ、思っていないことと書けることは別です」


「そらそうや」


 男は短く笑ったが、笑いはすぐ消えた。


「うちのとこ、去年の終わりぐらいからよう言われてました。今の系統は古い、危ない、切り替えを急がなあかん。港の顔を変えるには一回大きい見直しが要る。そういう言い方です」


「誰に」


「再開発機構の説明会に来る連中です。兵庫商事の実務も混じってた。名刺はよう配るけど、責任者は前へ出てこん」


 安住が、運転席でわずかに身体を動かした。梶原は視線だけで止めた。


「危ない、というのは具体に何を」


「旧系統が持たん、です。危機時の優先が硬直してる、港全体を統合せな次はもっとでかいことになる、そういう話をようしてた。けど、おかしいんですよ」


「何が」


「保守現場の人間なら、そんなふうに言い切らん。古い系統なんか、どこでも癖がある。危ない時もあるけど、危ないで済む話と、今すぐ全部変えろは違う」


 男はそこで、窓の外を見た。仮囲いの向こうから、重機がバックする警告音が聞こえる。


「それを、あの連中はよう知った顔で言うんです。障害が起きる前から、“次に何かあったら一気に話が進む”みたいに」


「誰の言葉です」


「そこまでは言いません」


 言えない、ではなく、言わない、と男は言った。


 梶原は手帳を開き、短く書いた。【障害前から危険を吹聴。再開発加速の前提。】


「その話が社内で共有されていた証拠は」


 男はすぐには答えなかった。代わりに作業着の袖を引き、手首の浅い傷を指でなぞった。数日前についたような新しい傷だった。


「準備メモはあります」


「どこに」


「表には出ません。説明会の段取り、言い回し、旧系統の危険性をどう強調するか。再開発機構と兵庫商事、両方の名前が入ってるやつが一枚」


 梶原はそこで初めて、男の横顔をまっすぐ見た。


「見たんですか」


「見ました。昨日の夕方です。うちの課長の机で」


「持ち出せますか」


 男は首を振った。


「無理です。今朝から空気が変わった。上がずっと電話してる。紙も回収し始めてる」


「内容を覚えている範囲で」


「件名までは曖昧です。ただ、“障害時説明補助線”って言葉が入ってた。あと、“旧系統危険性の対外周知は機を逸せず”。そんな感じの文があった」


 安住が息を吐いた。小さかったが、車内では十分大きかった。


 梶原は質問を急がなかった。こういう時に急ぐと、相手の記憶は防御へ戻る。


「あなたは、それを見て何を思った」


 男はしばらく黙った。


「思ったというか、嫌なだけです。現場の障害なんか、誰かの都合のええ札やない。こっちは夜中に泥の中入って直す側やのに、上の人間は“これでやっと変えられる”みたいな顔してた」


「誰が」


「言いません」


「そこは書きません。あなたが嫌だったものの形だけでいい」


 男は鼻で短く息をした。


「……海が止まるのを待ってたみたいに見えました」


 その一言だけで足りた。


 梶原は録音機の時間表示を見た。三分四十秒。まだある。


「そのメモ、今も課長机に」


「もうないかもしれません」


「複写は」


「ない。けど、会議招集の送信記録なら残るかもしれん。兵庫商事の担当窓口名と、再開発機構の企画室番号が並んでたから」


「番号、覚えてますか」


 男は少し考え、二つの内線番号の下四桁を言った。片方は曖昧だったが、もう片方は迷いがなかった。


 梶原が手帳へ書きつけた瞬間、男の携帯が震えた。


 画面を見た顔色が変わる。


「もうあかん」


「何が」


「呼び戻しです」


 男は録音機を一度見てから、低く言った。


「今日の昼で、自分、三浜の倉庫管理へ飛ばされます」


 安住が振り向いた。


「今ので決まる話か」


「いや、たぶん朝から決まってた。けど、呼ばれ方が早い」


 男はドアに手をかけた。


「新聞さん。記事はまだ出さんでください。出したら、自分だけやない。残っとる若いのまで切られる」


「分かっています」


「分かってへん顔してますよ」


 男はそこで初めて、梶原の目を見た。


「あなたらは書いたら前へ行ける。でもこっちは、書かれる前に沈むんです」


 梶原は、その言葉に返事をしなかった。返せる文があると思う方が傲慢だった。


 男は車を降り、振り返らずに社屋へ戻った。入口の自動扉が閉まる寸前、受付の若い女が立ち上がるのが見えた。呼び出しはもう中まで通っている。


 安住がハンドルを握ったまま言う。


「これで一本はできる」


「まだです」


「まだ、やろうな」


 安住は苦い顔をした。


「でも匂いは出た。再開発機構、兵庫商事、旧系統危険性の吹聴、説明補助線メモ。十分嫌や」


「嫌なだけでは足りません」


「おまえは昔からそれや。嫌なだけの段階で止まれん」


 梶原は窓の外を見た。仮囲いの上に、新しい完成予想図の看板が立っている。水辺の遊歩道、商業棟、耐災害型物流中枢。どれも明るい色で塗られ、朝の湿気の中で薄く膨らんでいた。


 母が死んだ年の夏、県の仮設道路の完成図もあんな色だった、と梶原は思った。完成すれば助かる。整えば回る。そういう言葉だけが先にあり、実際に人が届くのはいつも遅かった。


 助手席の端末へ、短い通知が入る。【社内人事速報 港湾下請会社、設備保守二課、担当一名異動。三浜倉庫管理課付。】


 名前は出ていない。だが、十分だった。


「早いな」


 安住が言う。


「早すぎます」


 梶原は録音機を止め、再生せずにポケットへ入れた。いま聞き返すと、相手の声が記事の材料へ変わりすぎる気がした。


「会社登記と再開発機構の委託一覧、当たります。兵庫商事の窓口も」


「今日は出すなよ」


「出しません」


「ほんまか」


「記事はまだ無理です」


 梶原は手帳を閉じた。


「でも、メモの存在は掴みました。これで消せなくなった」


 安住がエンジンをかける。車がゆっくり岸壁沿いを離れると、仮囲いの向こうで鉄骨を吊るクレーンが見えた。港は動いている。動きながら、要らないものを静かに下へ沈めている。


 その沈み方を、梶原はよく知っていた。


 記者車両が信号待ちで止まる。横断歩道の向こう、港湾会社の掲示板に今朝の異動紙がもう貼られていた。紙の端が潮風でめくれ、画鋲だけが強く光っている。


 梶原はその一枚を見たまま、母の最期の顔は思い出さなかった。思い出すと、取材の順番を間違えるからだった。


 代わりに、手帳の末尾へ一行だけ足した。


 【再開発は、障害の後で動いたのではない。前から待っていた可能性。】


 可能性。まだそこまでだ。


 だがその言葉の温度だけは、もう記事未満では済まなかった。



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