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国の骨  作者: 清河逢真


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第四章 順番

 透明な順位札が、卓上で乾いた音を立てた。


 福原海事院の復旧優先会議室は、朝の熱をもう抱え始めていた。壁際の送風機が回っているのに、室内には紙と汗の匂いが残っている。港湾図、輸送線図、緊急便一覧。白板には色違いの札が並び、赤が医療、青が港湾復旧、黄が地方便、灰が民間混載で固定されていた。真下朔也は立ったまま、その並びを見ていた。


 神港側の制御は戻り切っていない。動かす線を増やせば、別の線が落ちる。


 黒瀬啓介が画面を切り替えた。復旧帯域の残量が、細い棒で表示される。まだ朝なのに、すでに底が見えていた。


「次の一時間、優先枠は三つです」


 黒瀬の声は低かった。


「神港中央荷捌所の医療系主幹線。港湾保全電源。もう一つだけ、別系統に振れます。ただし一段ずらすと、その下がまとめて落ちます」


 有村澄江が訊いた。


「今、下にいるのは」


 黒瀬が一覧を読み上げる。


「地方緊急混載一本。内陸県北部向け。県立病院補給、山間部仮橋継手、民間冷蔵庫用燃料の混載です。あと神港東外周の民間高鮮度便。さらに市内二次搬送補助線」


 真下は「内陸県北部」の文字だけを先に見た。あとの行が、遅れて入る。


 会議室の中央卓に、別回線がつながっていた。山の方の集積所からである。音声の後ろで、アイドリングの低い振動が混じっていた。金属鎖の触れ合う音もする。


『こちら北部第三集積所。混載便、まだ切られてませんね』


 男の声は落ち着いていた。落ち着いているだけに、待てる時間が短いと分かった。


「今、復旧枠を調整中です」


 真下が言うと、向こうで誰かが咳き込んだ。


『山越え規制が九時で戻ります。それを逃したら、次は夕方です。病院分は保冷二時間半。橋材は濡れてもええですけど、透析カセットはそうはいかん』


 黒瀬が画面に補助情報を出した。行先コードが三つ並ぶ。


 【内陸県立病院北部補給庫】


 【葛巻川仮橋復旧班】


 【白砂食品冷蔵倉庫】


 葛巻川の文字で、真下の指先が止まった。


 父が最後まで出ていた川だった。梅雨のたびに路肩が崩れ、予算を請う文書だけが増えた場所だ。帰宅した父の作業服は、いつも川砂の色をしていた。


 有村が言った。


「神港主幹線を落とす選択肢はない」


 片岡直孝が、対面卓の端で顔を上げた。内政院地方再建局長。眼の下に眠りの足りない影があった。


「分かっています。ただ、これを一段落とすと、北部は今日の昼を越えません。病院だけやない。仮橋材も止まる」


「仮橋材まで今ここで抱えられへん」


「抱えられへんから、また後ろへ送るんですか」


 片岡の声は強くなかった。強くできない種類の怒りだった。


「毎回同じです。港を生かす、都心を持たせる、国全体を見ろと言う。そのたびに、山の方は明日へ回される。明日で足りたことなんか、あっちには一度もない」


 有村は言い返さなかった。代わりに真下を見た。


「数字で言い」


 真下は画面を見たまま答えた。


「神港主幹線を守らない場合、医療主幹と保全電源が同時に詰まります。市内二次搬送も遅れます。港湾保全側が落ちると、次の時間帯で復旧枠自体がさらに痩せる。北部便を上げるなら、神港側で二本落ちます」


「逆は」


 有村が訊く。


「北部便を一段落とせば、神港側三系統は維持できます。ただし北部混載は山越え枠を失います。今日の第一便は止まる」


 片岡が、真下へ目を向けた。


「その第一便の先に、誰がいるかは見えてますか」


 真下は答えなかった。


 見えている。見えすぎるほど見えている。県立病院の補給庫、川筋の仮橋班、冷蔵倉庫。地図の上で読むには短い文字なのに、土の匂いが付いていた。


 黒瀬が補足した。


「保冷は二時間半。ただ、集積所の予備冷却は弱いです。山越えを逃せば、病院分は午後扱いへ回すしかない」


『午後やと遅いです』


 集積所の男が言った。


『北部病院、昼から透析回します。今日の分、刻んで使うつもりでしょうけど、落としたら明日の立ち上がりまで狂う。こっちはもう荷を積んでます』


 真下は音声の向こうで、風に煽られるシートの音を聞いた。平場ではない音だった。山の集積所は、少し風が強いとすぐそうなる。


 有村が白板の札を一枚持ち上げた。黄の札だった。


「これは感情で決める話やない」


 片岡が言う。


「分かっています」


「ほんまに?」


「分かってるから、ここに来てるんです」


 片岡はそこで一度だけ口を閉じた。怒鳴りたいのではない。怒鳴って変わる順番なら、とっくに変わっていると知っている顔だった。


 真下の端末に、別通知が入る。神港市内二次搬送補助線の遅延予測。数字だけの通知だった。後ろに、市内の名前がいくつもぶら下がっている。


 この国では、広い方を守る理由はいつも明快だ。狭い方を切る理由もまた、同じくらい明快だった。


 その明快さで育った。


 子どもの頃、台所の床に父の長靴が二足並ぶ夜があった。一足は泥で重く、もう一足は乾いて軽かった。軽い方の日は、工区が止まった日だった。父は飯の前に手だけ洗い、何も言わずに膳へ着いた。母が「また海の方?」と一度だけ訊いたことがある。父は頷かず、味噌汁の湯気だけ見ていた。


 真下はあの時の沈黙を、いま自分の喉の奥で覚えていた。


「署名票を出して」


 自分の声が、卓上に落ちた。


 当直補佐が一瞬だけ顔を上げ、それからプリンタへ走った。室内に、印字の細い音が走る。


 片岡が言った。


「真下」


 呼び方が名字だけになった。


「おまえ、どこ行きか見たやろ」


「見ています」


「なら」


「見た上でやります」


 片岡は何も言わなくなった。


 黒瀬が慎重に言った。


「優先順位変更は一段だけです。北部混載をB3からB4へ。神港主幹、市内二次搬送補助、保全電源を上へ固定します」


「民間高鮮度は」


 真下が訊く。


「主幹と束ねられてます。切り分ける時間がありません」


 その一言が、部屋の空気をさらに悪くした。


 片岡が乾いた声で笑った。


「病院と橋材と冷蔵倉庫が落ちて、港の民間便は束のまま残る。ようできた仕組みですわ」


 有村が片岡を見る。


「今は仕組みを説く場やない」


「説いてません。見えてる形を言うてるだけです」


 印字が終わり、紙が卓上へ置かれた。優先順位変更票。変更理由欄はすでに入力されている。


 【神港主幹線維持のため。復旧帯域逼迫に伴う一時措置。】


 きれいな文面だった。きれいだから、誰の顔も入っていない。


 真下はペンを取った。


 集積所の男が、回線の向こうで低く言った。


『こちら、待機員の交代もう利きません。切るなら切るで、早う言うてください。荷を戻すにも手が要る』


 真下は署名欄の自分の名前を見た。印字された文字は痩せていて、他人の名のようだった。


 有村が言う。


「今ここで迷う方が傷を広げる」


 その通りだった。迷いは人を救わない。救わないことを、一番よく知っているのがこの部屋の人間だった。


 真下は署名した。


 ペン先が紙を擦る音が、やけに大きかった。


 変更票が回収される。黒瀬が即座に端末へ反映をかけた。白板の黄札が一段下へずれる。たったそれだけで、画面の行先一覧から北部混載便の色が薄くなった。


 集積所の男が、無線を受けたらしい。少し離れた声で誰かに告げる。


『北部第一、今日の山越えなし。病院分は庫へ戻せ。橋材は天幕下。冷蔵燃料は午後扱い』


 そのあと、回線の近くへ戻ってきた。


『了解しました。こちらで刻みます』


 それだけだった。責めもしない。感情を投げても何も戻らないと知っている声だった。


 通話が切れた。


 室内で誰もすぐには動かなかった。白板の札だけが、ひとつ下の列で静かに止まっている。


 真下の私用端末が短く震えた。差出人は菜穂だった。


 【北部便、落ちたんやろ。こっちは刻んで回す。あとでええ。】


 文はそれだけだった。責める言葉はない。責める暇がない人間の文だった。


 真下は画面を伏せた。


 有村が次の指示を出し始める。神港主幹線の監視強化、市内二次搬送の時間再配分、保全電源の切替順。会議は前へ進む。進むたびに、さっき落とした線は過去の処理になる。


 真下は自分の署名が残った変更票の控えを見た。


 いま切ったのは、抽象ではなかった。地図でも、数字でもなかった。父が帰りの遅さで払ったものと同じ順番を、自分の手でまた作っただけだった。


 当直補佐が、新しい復旧順位表を各卓へ配る。紙の端が、汗ばんだ指で少し湿る。


 真下はそれを受け取り、折らなかった。


 折れば小さくなる気がしたからだった。



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