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国の骨  作者: 清河逢真


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第三章 爪痕

 隔離端末の横で、感熱紙が細く吐き出されていた。


 東都技研・物流OS統合部門フロアは、まだ始業前の白さの中にあった。窓の外では東都の高層線が薄い朝靄に沈み、室内には空調の乾いた風と、夜通し回った筐体の熱い樹脂臭が残っている。向坂凌はジャケットも脱がず、出力されたばかりの同期ログを片手で押さえた。


「ここ、もう一回」


 隣の席で篠原奈津が端末を叩く。二十代の後半、夜勤明けの目をしていた。彼女が引き出したのは、南西海域第一海底線の瞬断前後、神港側制御網の再同期記録だった。


「同じです。四時四十一分に落ちて、四時四十五分台に再同期。表向きは普通です。でも」


「でも、じゃない」


 向坂は紙へ視線を落とした。


「普通なら、こうは揃わない」


 自然障害のあとに残るログは、もっと汚い。抜け方にむらが出る。時刻もずれる。途中で拾えたものと拾えないものが混ざる。けれど目の前の出力は、削られたようにきれいだった。欠落区間の前後だけが不自然に整っている。切断面が、鋏で合わせたみたいに真っ直ぐだった。


 向坂は赤鉛筆で三か所に線を引いた。


「この再同期、変です。自然に崩れたなら、検査用のハッシュがこんなふうに並び直るわけがない」


 篠原が言った。


「自動補正では」


「自動補正なら、もっと雑になる。機械は辻褄を合わせるけど、見栄えまでは気にしない」


 彼は端末に身体を寄せた。時刻列の下、制御テーブル呼び出し履歴が短く流れている。現行港湾OSで使っている命名規則と、途中の一行だけが合っていなかった。


 【pri_map_legacy.tmp】


 向坂はそこで指を止めた。


「何だこれ」


 篠原も覗き込む。


「こんな名前、今の系統にありましたっけ」


「見たことない」


 彼はすぐ別窓を開き、参照履歴を追った。権限外の表示は黒く落ち、見えるのは断片だけだった。だが、その断片の中に、現行仕様書で見慣れた記号列に混じって、今は表で使わない並びが一瞬だけ残っている。


 向坂は眉を寄せた。


「……気持ち悪いな」


 篠原が椅子を引く音を立てた。


「向坂さん、これ、上に出しますか」


「出す」


 向坂は即答した。


「自然障害だけで済ませるには、揃いすぎてる。少なくとも神港側の優先判定、まともじゃない」


「でも中央はもう局所障害で出してます」


「知ってるよ」


 向坂は短く言って、別端末へ認証を通した。優先判定が再同期と一緒に揺れるなら、せめて医療と検疫だけでも現行制御から一段逃がす。前から握っていた再設計案の簡易版で足りる。応急でも、今朝の落ち方よりはましになる。


 画面に草案の雛形を開く。


 【神港障害対応暫定再設計案――優先判定系の分離運用】


 そこへ、背後から女の声がした。


「朝から速いわね」


 霧島沙映だった。濃紺の上着のまま、鞄も置かずにフロアへ入ってくる。寝不足の顔はしていたが、足取りは崩れていない。向坂は椅子を半分だけ回した。


「神港の同期ログ、変です。変というより、触られたみたいに整ってる。しかも変な文字列が一瞬噛んでる」


「言い方を選びなさい」


「選んでる場合じゃないです」


 霧島は向坂の端末ではなく、机の脇に出た感熱紙の方を先に見た。彼女は一読してから、篠原へ訊いた。


「保全コピーは取った?」


「まだです。中央側の自動清掃が先に走りそうで」


「何分」


「十分……あるかどうか」


 霧島は小さく頷き、向坂へ視線を戻した。


「で、あなたは何を上げるつもり」


「同期記録の異常と、暫定再設計案。優先判定を切り離して、医療と検疫を現行制御から一段逃がします。今のままだと、また同じ落ち方をする」


「中央案件に口を出すな」


 声は強くなかった。だからこそ、止める線だけがはっきりしていた。


 向坂は椅子を回し切った。


「口じゃない。手です。こっちは直せる」


「直せると、向こうが認めるかは別」


「認めさせればいい」


「今この時刻にそれをやると、東都技研が事故に乗じて設計主導権を取りに来た、で終わる」


「終わらせなきゃいいでしょう」


「終わらせるのはあっちよ」


 霧島は感情を混ぜなかった。


「福原はもう第一報を出してる。局所障害。その段階で、民間側の統合部門が“実は深いところが変です、設計を組み替えましょう”と出たら、何に見えると思う」


「本当のことに見えます」


「あなたにはね」


 そこで初めて、霧島の声にわずかな疲れが混じった。


「でも国家案件では、本当かどうかより先に、誰がいつ言ったかで潰れることがあるの。あなた、その順番を毎回甘く見る」


 向坂は返事をせず、草案画面を睨んだ。甘いのではない。遅い方がおかしいだけだ。だが、その言い方をしても通らない相手だとも知っていた。


 フロア奥で、隔離検証用の警告音が鳴る。篠原が振り向いた。


「清掃ジョブ来ます。神港系キャッシュ、先に消されます」


「コピーを取れ」


 向坂が言うより先に、霧島が言った。


「ただし社内隔離保全。外へは出すな」


 篠原が一瞬迷った。


「これ、私の権限で残すと履歴に出ます」


 誰もすぐには答えなかった。警告音だけが一定の間隔で鳴る。


 向坂が言った。


「今消えたら、あとで誰も困った顔をしない。困るのは今ここだけだ」


「そういう言い方しないで」


 霧島が切った。


「残すなら、あなたの名前で残る。査閲が入った時に説明するのは篠原よ」


 篠原は唇を結び、数秒だけ画面を見たまま固まった。それから、指を動かした。


「……取ります」


 向坂はもう一つの窓を開き、中央案件共有の申請画面へ再設計案を投げた。件名は短くした。


 【神港障害対応・暫定優先判定分離案】


 送信から戻りまで、一分もかからなかった。


 【受領保留。現時点での設計提案受付対象外。中央対処方針に従い、範囲外分析の発信を控えられたい。】


 向坂はその文面を見て、笑いもしなかった。


「ほら来た」


 霧島は言ったが、勝った顔はしなかった。


「だから言ったでしょう」


「範囲外分析」


 向坂は画面を読み上げた。


「神港の医療便が落ちても、今は範囲外。便利な言葉ですね」


「向坂」


「受ける箱すらないってことでしょう。見つけても、今はそこへ置くなって言ってるのと同じだ」


「断定するな」


「断定じゃない。文面の速度の話です」


 霧島は少しだけ沈黙し、それから答えた。


「残すべきものを残しなさい。喚くより先に」


 向坂はその言葉で、ようやく画面から目を離した。


 篠原が保全コピーの進捗バーを見ながら言う。


「断片しか残りません。参照履歴の前後、かなり削られてます」


「どこまで取れた」


「再同期直前二十三秒、直後十九秒。呼び出し名の断片と、区分記号の切れ端、それと検査ハッシュの重複列」


「十分だ」


 向坂は席を立った。空調の風で、机の上の感熱紙がわずかに捲れる。彼はそれを指で押さえ、もう一度文字列の断片を見た。


 【legacy】


 たったそれだけだった。現行の仕様書と噛み合わない、それだけで十分嫌だった。


「篠原、その断片、共有庫には上げるな」


「え」


「標準保全とは別に、ローカル隔離へ落とす。検証用フィクスチャ扱いで偽装しろ」


「それ、規定上は」


 向坂は答えず、篠原の端末に残った監査ログを見た。保全開始の権限名が、もう彼女の識別子で刻まれている。


「……もう履歴は付いた。中途半端が一番まずい」


 篠原の顔から、夜勤明けの色が消えていた。


「これ、査閲来たら私です」


「来たら説明する。俺も入る」


「向坂さんが入っても、残るのは私の権限です」


 その言葉で、向坂は一瞬だけ黙った。正しいのは自分だ、と押し切れば済む話ではなかった。履歴は熱意では消えない。彼が急いで投げた提案より、篠原の一回の保存操作の方が、ずっときれいに首へ残る。


 霧島が静かに言った。


「私は聞かなかったことにする。でも持ち出しはするな。社内から出した瞬間、あなたを切れなくなる」


「十分です」


 向坂はそう言って、保全先のパスを書き換えた。共有番号列を外し、検証サンドボックスの旧案件名へ紛れ込ませる。手元に置くには汚いやり方だったが、きれいな手続きは今朝もう死んでいた。


 画面の隅で、神港障害の第一報が再配信された。


 【局所障害。復旧中。】


 向坂はそれを見て、鼻で息を吐いた。


 局所。復旧中。文字だけなら、何も壊れていない顔をしている。


 だが、さっき見た切断面は違った。自然に裂けた傷には見えない。妙に整いすぎている。しかも、その整い方は今の仕様書の中だけでは説明がつかなかった。


 篠原が小さく言った。


「向坂さん、ほんとに追うんですか」


 彼はローカル隔離に落ちた断片ログを開いた。短い列の末尾に、現行の帳票では見ない記号がまだ残っている。


「追うよ」


「中央が止めても」


「だから追う」


 霧島は何も言わなかった。ただ鞄をようやく机の脇へ置き、朝の光が薄く差し始めたフロアを一度見渡した。その沈黙は許可ではない。だが否定でもなかった。


 向坂は検証環境をもう一つ起動した。神港の再同期を、断片から私的に再生するための小さな箱だった。正式案件名は付けない。共有もしない。どこで何が噛んだのかを、自分の手で見直すためだけの箱だ。


 画面に最初の再生線が立ち上がる。


 真っ直ぐすぎる欠落が、黒い帯のように浮かんだ。


 向坂は椅子へ座り直した。始業のチャイムはまだ鳴らない。だがもう、今日の仕事は別のものになっていた。



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