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国の骨  作者: 清河逢真


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第二十七章 伏せて残す儀


 白い封緘紐の結び目は、まだ誰の指にもほどかれていなかった。


 久世綾乃が式部院外縁の儀礼前室へ入った時、包みはもう卓の上にあった。朱印前へ上げる前の確認卓である。磨かれた黒塗りの台の上に、白い奉書で包まれた細長い束が一つだけ置かれ、その上へ細い札が渡してある。札には短く、乾いた字で打ち出されていた。


【照合前】


 それだけだった。


 前室の空気は、朝の京都らしく乾いていた。障子の奥までは明るくなっているのに、石床の冷えだけがまだ夜を引きずっている。紙の匂いと、漆の浅い匂いと、わずかに残る墨の湿りが、声を少しだけ低くする部屋だった。


 綾乃は卓の手前で足を止めた。誰かが何かを説明する前に、白い紐の結ばれ方だけを見た。保管の結びではない。照合へ上げる時の結びだ。見間違えようがなかった。


 横で、冬木清馬が包みから目を離さずに言った。


「この形で卓へ出しますと、もう通常保全の棚へは戻せません」


 老いた声ではなかった。古い棚の前で長く働いた人間の、紙を傷めない声だった。


「ええ」


 綾乃は答えた。


「戻せない形にしないと、今朝は持ちません」


 冬木はすぐには返さなかった。奉書包みの右端、紐の下に差し込まれた細い控え札を見ている。そこには手書きで、式部院側の管理記号が入っていた。その記号自体はいつものものだ。違うのは、左肩に小さく赤で添えられた一字だった。


【照】


 照合物へ振り替えた時だけ付く字だった。


 冬木の喉が一度だけ動いた。


「この字を打った時点で、保管物ではありません」


「承知しています」


「承知していて、出されるのですか」


 問いではなく確認に近かった。綾乃は包みへ手を伸ばし、触れずに止めた。触れば冷えていると分かる距離だった。


「出さないままでは、福原側の暫定運用だけが先に立ちます」


「だからこそ、京都は戻す側にいなければなりません」


「戻せる段なら、そうしました」


 綾乃はそう言ってから、ようやく冬木を見た。冬木は怒っていなかった。怒るより先に、何を失うかを数えている顔だった。


 奥の控え机で、若い実務者が細い端末を見ていた。画面には今朝方の連結票が一行だけ出ている。


【暫定運用着手】


 福原から上がってきた、その短い表示は、京都の部屋では妙に軽く見えた。軽い言葉ほど、あとで長く残る。


 前室の扉が開き、御厨宗親が入ってきた。歩き方にも口調にも急ぎは出さない人だったが、今朝は襟元だけが少し乱れていた。ここまで来る間に一度は誰かに止められたのだろう、と綾乃は思った。


「久世さん」


「御厨さん」


 御厨は包みを見たあとで、綾乃にも冬木にも視線を置かず、卓上の札だけを見た。


「もう棚の顔ではありませんね」


「ええ」


 綾乃が答える。


「そうしないと、向こうの紙だけが先に残ります」


 御厨は短く息を吐いた。


「では、言葉を決めましょう。中身ではなく、先に外枠です」


 その言い方で、前室の空気がさらに狭くなった。綾乃は自分でも分かるくらい、肩の奥の力を少しだけ抜いた。御厨が長く説明し始めない時は、まだ間に合う余地がある。


 包みは卓に残したまま、三人は隣の小部屋へ移った。


 小部屋は、前室よりも暖かかった。窓が小さく、空調が紙の乾きだけを守るように回っている。中央に細長い机が一つあり、その上へ文言票が順に並べられていた。票はまだ仮のものばかりで、どれも端が切り揃っていない。決まっていない紙の形だった。


 最初に置かれていた票を、冬木が指で押さえた。


【戦時末期危機運用記録】


 冬木はその一行を見たまま、静かに言った。


「ここは変えるべきです」


「どこを」


 綾乃が訊く。


「【危機運用】です。そこまで書けば、国家判断との接続が前へ出すぎます。【戦時末期関係記録】で十分です」


「十分ではありません」


 綾乃は即答した。


「そこまで抜いたら、何に接いでいる記録かが空きます」


「空いた方が守れる棚もあります」


「今朝、守り切れないからここへ上がってきたのです」


 冬木は声を強めなかった。だが、引く気もなかった。


「言葉は、出した分だけ残ります」


「ええ」


「なら、残しすぎない方がいい」


「残さなすぎても、別の嘘が残ります」


 二人のあいだに、まだ決裂の匂いはなかった。ただ、どちらも自分の側の壊れ方をよく知っているだけだった。


 御厨が、その票を裏返した。表にしたまま揉ませないための手つきだった。


「【危機運用】は残します」


 短く言う。


「そこを抜くと、福原の暫定運用との接続だけが空文になります」


 冬木は御厨を見た。


「そこまで外へ通されますか」


「外へは通しません。照合主体を絞ります」


 御厨は次の票を引いた。


【照合主体 官邸危機対応線・公議院照合限定】


 今度は冬木の返答が少しだけ遅れた。


「【官邸危機対応線】まで入れるのですか」


「入れます」


 綾乃が言う。


「そこを落とすと、京都の中だけで回したことになります。今朝もうそうではないでしょう」


「京都の外を照合主体へ入れるなら、形式は限定にしても実質は広がります」


「広がりません」


 綾乃は票を自分の方へ寄せた。


「【公議院照合限定】を残します。福原の誰でも見る形にはしません。危機対応線と公議院照合だけ。そこが最低限です」


 冬木は唇を結んだ。嫌がっている語が、はっきり見えた。【官邸危機対応線】という文字列は、京都の外へ責任の輪を少しだけ開く。冬木が守ってきた棚は、その開きをもっとも嫌う側にあった。


 小部屋の隅で、若い実務者が新しい票を印字した。短い熱音がして、白い紙片が一枚出る。


【公開範囲 継承骨格接続確認に要する抄記のみ】


 綾乃はそれを見て頷いた。


「ここはこれで通します」


 冬木が顔を上げた。


「抄記だけで足りますか」


「足りる形へ絞ります」


「誰が」


「こちらで」


 綾乃は答えた。


 足りるかどうかの話ではない。足りるところまでしか、今は出さない。そういう章句だった。


 その時、別の仮票が机の端に残っているのを、綾乃は見つけた。


【人命切断の実態確認】


 誰が打ったのかは分からない。若い実務者の整理用か、誰かの覚え書きか。だが、この部屋へ置いてよい語ではなかった。


 綾乃が手を伸ばす前に、御厨がその票を裏返した。


「その語はここでは使いません」


 低く、はっきり言う。


 冬木は何も言わなかった。綾乃も言わなかった。使わないからといって、無かったことにするわけではない。ただ、そのままの語で出せば、この部屋の外へ漏れる幅が広すぎる。


 御厨は新しい票へ指を置いた。


【固有人名・個別輸送記録・個別医療補給記録は別封】


「ここへ押し込みます」


 綾乃は頷いた。冬木は、その票だけはすぐに否定しなかった。全部を閉じたい側の人間でも、別封という手は分かる。消さずに伏せる時の、いちばん古い逃がし方だった。


「【全文公開にあらず】も付けます」


 綾乃が言う。


「ええ」


 御厨が応じる。


「【一般公開手続へ移行せず】も併記します」


 冬木がそこで初めて、自分から一枚の票を寄せた。


【朱印前照合】


「これを先に置いてください」


「理由は」


 綾乃が問う。


「ここを外すと、ただの内部閲覧になります」


 冬木は机の上の票を見たまま続けた。


「ただの内部閲覧なら、あとでいくらでも言い換えられます。今朝そこまで出すなら、逆に印前だけは曖昧にしない方がいい」


 綾乃はその言葉を受けて、ほんのわずかに視線を落とした。冬木は何もかも閉じたがっているのではない。閉じたまま持たない形になったと分かっているから、せめてどこに傷を固定するかを選んでいる。


「分かりました」


 綾乃は言った。


「【朱印前照合】は入れます」


 票が机の上で並び替えられる。古い棚の理と、新しい傷の持たせ方が、白い紙の上でようやく一列になった。


【戦時末期危機運用記録 限定照合許可】

【照合主体 官邸危機対応線・公議院照合限定】

【公開範囲 継承骨格接続確認に要する抄記のみ】

【全文公開にあらず】

【固有人名・個別輸送記録・個別医療補給記録は別封】

【朱印前照合】

【式部院保全継続】

【一般公開手続へ移行せず】


 それが、今朝この国が出せる最小だった。


 若い実務者が清書票の印字へ移った。熱を通った紙の匂いが、小さく部屋に広がる。綾乃はその匂いを吸い込みながら、自分の側でもう一つ戻れなくなったものがあるのを知った。ここまで言葉を揃えた以上、全面秘匿の棚へきれいに戻る道は、もう残らない。


 御厨が短く言った。


「列席を整理しましょう」


 それが、文言よりも冷たく響いた。


 朱印前列席確認卓には、白い札が横一列に並べられていた。札はどれも同じ厚み、同じ大きさで、人の名前だけが違う。こういう場では、名そのものより、札が置かれた場所の方がよく物を言う。


 綾乃は、自分の札を見た。御厨の札、その隣に式部院実務、さらに照合補助。冬木清馬の札は、まだそこにあった。まだ、という言い方になるのは、その朝にはもう外すと決まっていたからだった。


 前室から運ばれてきた奉書包みが、列席卓の向こうへ置かれる。白い紐は解かれていない。それでも、もう誰の前で開くかだけは決まりかけていた。


 冬木が自分の札を見たまま言った。


「ここで外されますか」


 綾乃は、札から目をそらさなかった。


「ええ」


「史料室の担当も、保全の線も、まだ私のままです」


「承知しています」


「それでも列席だけを外す」


「この包みには、もう戻す側の席を残せません」


 冬木はそこで初めて綾乃を見た。責める目ではなかった。長く守ってきた順番が、自分の前で少しだけずらされるのを見ている目だった。


「戻せるうちは、戻すのが役目です」


「ええ」


 綾乃は柔らかく答えた。


「ですけど、もう戻らない形で上がりました」


「戻らなくしたのは、あなた方です」


「そうです」


 否定しなかった。


「その責任で外します」


 その一言のあと、誰もすぐには動かなかった。若い実務者が札を持ち上げるには、少しだけ時間が要った。人の名を消すわけではない。ただ席から外すだけだ。だが、席だけを失う処理ほど、本人にも周囲にもよく残る。


 御厨が低く言った。


「冬木さん。本件は保全側で残ってください。列席は外れます」


 冬木は返事をしなかった。代わりに、自分の札を一度だけ見た。その薄い白さを、覚えるように。


 若い実務者が札を取り上げる。木の卓に触れる乾いた音がして、その場所だけが空いた。


 綾乃は、そこへ視線を置いたまま言った。


「あなたが悪いからではありません」


「分かっています」


 冬木はようやく答えた。


「悪い人間なら、もっと楽です」


 その言い方に、綾乃は何も返せなかった。悪の切断ではないからこそ、手続きは静かで、手触りだけが残る。


 奉書包みが、列席卓の向こう側へ一寸だけ滑った。もう冬木の手が届く距離ではない。白い封緘紐はまだ解かれていないのに、その包みはすでに冬木の棚から離れていた。


 若い実務者が、清書された票を卓端へ差し入れた。綾乃は声に出さず、それを目で追った。


【戦時末期危機運用記録 限定照合許可】

【照合主体 官邸危機対応線・公議院照合限定】

【公開範囲 継承骨格接続確認に要する抄記のみ】

【全文公開にあらず】

【固有人名・個別輸送記録・個別医療補給記録は別封】

【朱印前照合】

【式部院保全継続】

【一般公開手続へ移行せず】


 紙の上では、わずか数行だった。だが、その数行で戻れない幅が決まる。出す幅も、伏せる幅も、今朝の国はそこまでしか持てない。


 御厨が包みの脇へ新しい札を差した。


【限定照合】


 冬木の目が、その札へ落ちた。怒りも懇願もなかった。ただ、まだほどかれていない白い紐と、自分の無い席と、新しく差し込まれたその二字を、順に見た。


 綾乃は自分の指先が少し冷えているのに気づいた。部屋が寒いのではない。紙に触れずに決めることばかりが増えると、指だけが先に冷える。


「進めます」


 綾乃が言うと、誰も異を唱えなかった。


 前室の向こうで、どこかの戸が静かに閉まった。大きい音ではない。だが、その朝、京都で全面秘匿へ戻る戸が閉まった音としては、それで十分だった。


 白い封緘紐の結び目は、まだ解かれていない。


 それでも、その奉書包みはもう棚へ戻る包みではなかった。



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