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国の骨  作者: 清河逢真


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第二十五章 好かれない案


 官邸前の水盤は、風がない時だけ空を映した。


 福原政務中枢、内閣棟西側の進入路は、日が落ちても明るすぎた。白い照明が濡れた石畳に反射し、通る人間の影だけを薄くする。真下朔也は警備線を抜け、金属探知の短い音を背中で聞いた。鞄の中には紙しか入っていないのに、紙ほど人を止めるものはない。


 受付の先、控え室へ通じる廊下の壁際で、片岡直孝が携帯端末を耳に当てていた。内政院地方再建局長。ふだんは顔に疲れを出さない男だが、今夜は目の下だけが少し濃い。


「いえ、夜間透析班を一つ閉じるなら、先に家族説明を……ええ。分かっています。順番の問題やないことも、分かっています」


 そこで片岡は言葉を切り、壁へ目を落とした。怒鳴らない。怒鳴れない種類の連絡だったのだろう。


「いや、違います。順番の問題やから、閉じるんです」


 通話を切ると、片岡は真下に気づいた。


「早いですね」


「遅いほうです」


「でしょうね」


 片岡は端末をポケットへ戻した。右手に持った紙だけが湿っている。


【夜間透析班 一組停止】

【説明担当 未定】


 真下はそこへ視線を落としたが、何も言わなかった。言えば、今ここで決められることより、決められなかったことの方が先に増える。


「総理は」


「待ってはります。蓮見さんも中です」


 片岡は紙を折らなかった。折ればただの連絡票になる。今日はまだ、そう見せたくないのだろう。


「真下さん」


「何です」


「今日のうちに、誰の顔で止めるかだけは決めてください」


 片岡はそれだけ言って、別の扉の方へ去った。誰を止めるかではない。誰の顔で止めるか。国の上のほうへ行くほど、そういう言い方になる。


 控え室は静かすぎた。空調が効きすぎていて、卓上の水差しに細い結露が残っている。蓮見佳朗が窓際に立っていた。内閣官房副長官らしい、どちらの側にも体重を乗せきらない姿勢だったが、今夜は肩だけが少し前へ出ている。


「見ました」


 挨拶の代わりにそう言う。


「【継承骨格/運用枝 分離起案】。好かれへん案ですね」


「だから上げました」


「分かってます」


 蓮見は机上の封筒へ手を置いた。真下が持ち込んだ中間案、その下に重ねた第二十章から第二十四章までの記録。内部起案、対外条件変更、限定照合、共同管理切断、分離起案。紙の順番自体が、もう後戻りの順番ではなかった。


「総理、通すとも蹴るとも、まだ言うてません」


「正式議題へ乗せるかどうかだけです」


「そこがいちばん重いんです」


 蓮見は目を伏せた。


「これを卓へ上げた瞬間、福原は“知らんかった”で逃げられへん。京都も、東都も、博多も、もうそれぞれの言い方だけでは持たんようになる」


「そうしないと持たないでしょう」


「そうです」


 蓮見は苦くもなく笑った。


「それでも、嫌われる順番は作らなあかん」


 扉が開いた。呼ばれたのは真下だけだった。


 総理執務室は広くなかった。広くない方が、ここでは都合がいいのだろう。大きな卓はあるが、周りに飾りは少ない。壁面の運用盤に神港、博多、東都、京都の四点が薄く浮いている。青と黄が混じっていて、どこも完全には持っていない。


 九条尚央は机の奥ではなく、横の丸卓に座っていた。資料を山にしない人だと真下は知っている。山にすると、誰かが隠れられるからだ。


「お疲れさんです」


 九条の声は柔らかかった。柔らかいままで、人を引かせる声だった。


「座ってください」


 真下が座ると、九条は紙ではなく真下の方を見た。


「読んでます。けど、紙の言い方やなく、あなたの言い方で聞きたい」


 真下は封筒を開いた。


「名簿欄は別管理のまま維持します。その代わり、継承骨格と運用枝を分離し、現行危機対応へは運用枝だけを接続します。旧起動条件は即時停止。共同管理橋の復旧は保留。港湾金融安定帯を一時縮域し、地方医療と内陸救援を暫定繰上げへ移します」


 九条は頷かなかった。


「それで、何が助かる」


「地方病院補液線と内陸救援の一部です。少なくとも、旧起動条件で同じ切れ方を繰り返すのは止まります」


「何が落ちる」


 真下は間を置かなかった。置けば、言わずに済む気がするからだ。


「港湾金融安定帯が痩せます。外で条件はさらに固くなる。共同管理は実質破綻済みです。京都側は名簿を守ったまま傷み、全面公開を求める側からも全面秘匿を求める側からも叩かれます。博多は対外で先に嫌われ、福原は内で切った顔になります」


「あなたは」


「起案者として残ります」


 九条は机上の紙へようやく目を落とした。


「ずいぶん正直ですね」


「正直に書かないと、次も局所の名で落ちます」


「正直に書いたら、今度は国が落ちるかもしれん」


「だから全部は書いていません」


 九条はそこで初めて紙を一枚引き寄せた。綾乃の限定照合付記だ。名簿欄は伏字、編入前項目だけ照合可。次に向坂の技術断片を見る。共同管理再同期時、旧分類呼出。最後に志岐の対外記録。仮押さえ解除、空走、補助材便取りやめ。


「ようここまで集めましたね」


「集めたんじゃありません」


 真下は低く言った。


「それぞれが、自分の側を傷めてまで残しただけです」


 九条の目が少しだけ細くなった。


「それを一つにしたら、もっと傷む」


「承知しています」


 九条は椅子の背に体重を預けた。柔らかい声のまま、次の問いを投げる。


「全面公開はしない。全面秘匿にも戻らない。名簿欄は閉じる。運用枝だけ切る。――誰も納得せん案ですね」


「ええ」


「公議院は怒る」


「怒るでしょう」


「市場も嫌う」


「もう嫌い始めています」


「地方は喜ばへん」


「一部しか持たせられません」


「東都も満足せん」


「共同管理を切りました」


「なのに、これを上げる」


「他に、同じ切れ方を止める案がありません」


 九条は手元のペンを回さなかった。ただ持ったまま動かさない。動かさない時の方が、この人は深く考えている。


 内線が鳴った。蓮見が取る。短いやり取りのあと、紙を持って入ってきた。


「総理。北沿線、夜間透析班一組停止、確定です。説明担当、まだ未定」


 九条は紙を受け取らなかった。


「誰の顔で止めるか、まだ決めてへんのやね」


「はい」


「そうですか」


 その三語だけが、部屋の温度を変えた。怒りではない。遅れた責任の向きが、そこで定まる感じだった。


 九条は真下を見た。


「あなたの案を今ここで正式議題へ上げたら、その説明の顔もこちらが持つことになります」


「はい」


「せやけど、持った瞬間、次は別の顔が落ちる。港、金融、京都、東都。全部からや」


「はい」


「それでも上げるべきやと?」


 真下は夜間透析班の紙を見た。そこに名はない。だが名がないまま止められる側の顔は、もう十分に見てきた。


「上げるべきです」


「なぜ」


「もう“誰も決めていない”という形で落とせる段を過ぎたからです」


 九条は少しだけ目を閉じた。長くはない。長く閉じる人ではなかった。


「好かれへん案やな」


「ええ」


「あなたも、好かれへん顔になる」


「そのために出しました」


「違います」


 九条は静かに言った。


「あなた個人が嫌われるために上げるんやない。国家が、どの顔で誰を先に落とすかを、初めて自分で引き受けるために上げるんです」


 真下は返せなかった。正しい言い方だったからではない。正しすぎて、逃げ道が一つ減ったからだった。


 九条は蓮見へ向いた。


「特別議題化します」


 蓮見の肩がわずかに動く。


「今夜の危機対応特別卓へ」


「はい」


「議題名は」


 九条は真下の中間案を見たまま言った。


「【継承骨格/運用枝 分離運用案】。起案者名は真下さんでええ」


 蓮見は確認しなかった。確認する段を越えたのだろう。


「関係線は」


「福原危機対策卓、商務院博多通商局、公議院限定照合線、東都独立保全線。式部院別管理参照線は外したままで」


「承知しました」


 蓮見が端末へ打ち込む音は小さかった。小さい音ほど、あとで大きい。


 九条はなお真下を見ていた。


「通すとはまだ言わん」


「はい」


「蹴るとも言わん」


「はい」


「ただ、もう戻せへん卓へ上げます」


「分かっています」


「ほんまに?」


 柔らかい声のまま、その問いだけが少し深かった。


 真下は答える前に、机上の紙を見た。向坂の三行、綾乃の伏字、志岐の記録、片岡の夜間透析班停止。御厨の渡した骨格語はここにはない。ないまま、もう十分に重い。


「分かっています」


 九条はそれ以上言わなかった。説教にしない人だった。代わりに、最後の責任だけは曖昧にしない。


「蓮見さん」


「はい」


「議題登録と同時に、説明担当の仮置きも切ってください。地方医療線は片岡。対外信用は商務院。共同管理切断は東都保全。公議院照合は京都限定。福原側の中間案説明は、真下さん」


 蓮見の指が一度だけ止まった。説明担当を切るとは、恨みの向きを切ることだ。


「承知しました」


 九条は椅子から立たなかった。


「これで、誰の顔で止めたかが残ります」


 真下は頷いた。好かれない案は、好かれないまま国の机へ置かれた。そこから先は、もう自分ひとりの紙ではない。


 蓮見の端末が短く震えた。登録完了の通知だ。画面がこちらからも少し見える。


【国家危機対応特別卓】

【特別議題 第七号】

【継承骨格/運用枝 分離運用案】

【起案者 真下朔也】

【記録扱い移行】


 それだけで十分だった。


 九条は通知を見て、ようやく小さく息を吐いた。


「行ってください」


「どこへ」


「自分の顔のいる場所へです」


 真下は立ち上がった。椅子の脚が床を擦る音が、さっきより大きく聞こえた。


 廊下へ出ると、片岡が壁際で待っていた。まだ湿った紙を持ったまま、真下の顔を見る。聞かなくても分かる顔だった。


「上がりましたか」


「はい」


「そうですか」


 片岡は夜間透析班停止の紙を胸ポケットへしまった。しまったからといって、止まらなくなるわけではない。ただ、もう誰の顔で止めるかだけは決まったのだろう。


 内閣棟のガラス廊下の先で、若い事務官が新しい議題票を小走りで運んでいく。足音は軽いのに、紙だけが重そうだった。


 真下は立ち止まらなかった。立ち止まっても、もう観測者の場所へは戻れない。


 白い照明の下で、特別議題第七号の文字だけが、妙に静かに残っていた。


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