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国の骨  作者: 清河逢真


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22/22

第二十二章 残す名、切る線


 議場脇の廊下は、朝のうちだけ木と紙の匂いが勝つ。


 京都の公議院西棟は、雨の抜けたあとの空気をまだ少し抱えていた。磨かれた床板は乾いているのに、欄間の奥に残った湿りだけが遅れて降りてくる。久世綾乃は控室へ入る前に立ち止まり、机上に置かれた二つの封筒を見た。


 一つは福原から回された【第一次切断案(仮)】。もう一つは博多通商局発の【対外条件変更対応記録】。どちらもまだ大きな扱いではない。だが、その二枚が同じ朝に京都へ届いた時点で、局所障害という言い方はもう国の外でも内でも痩せ始めている。


 綾乃は先に博多の記録を開いた。


【優先積み替え枠追加消失】

【仮押さえ解除】

【空走三台】

【補助材便一件 今日分取りやめ】


 文は短かった。短い文ほど、あとで残る。末尾の一行だけが少し違っていた。


【現場責任者より 明日の枠はもう約束できない】


 約束できない、という言い方が綾乃は嫌いだった。約束が壊れる時、壊れたのが誰の都合なのかを曖昧にするからだ。だが今朝に限っては、その曖昧さのほうが現実に近かった。誰か一人の悪意でここまで来たのではない。守りたいものが違う者たちが、それぞれ持たせようとして、別々の場所を先に痩せさせた。


 控室の襖が静かに開いた。桧垣仁美が入ってくる。公議院議長としての姿勢を崩さぬまま、目だけが少し早い。


「もう読まはりましたか」


「ええ」


「早いですね」


「早うないです。遅うございます」


 桧垣は机の向こうへ座らず、封筒の端だけを見た。


「兵庫側は、まだ局所で持たせたいようです」


「博多はもう、その言い方で条件を守れへん段へ入っています」


「分かっています」


 分かっている時の顔だった。だから困る。


「三条顧問が来はります。歴史代表枠としての見解を、先に揃えたいと」


「何を揃えるおつもりです」


「全面非公開です」


 その語だけが、部屋の温度を一段下げた。


「今ここで封印文書と現行運用の接続を認めれば、公議院は制度の重しではのうて、切り捨ての共犯に見える。そういう理屈です」


「見える、ではなく」


 綾乃はそこで言葉を切った。桧垣は続きを待たない。待たないのもまた、この人の長い政治だった。


「久世さん。あなたは、どこまで知ってはるんです」


「知っている量で言えば、まだ足りません」


「それでも、もう守り方は選ばなあかん」


 桧垣は声を低くした。


「名を残すのか、線を切るのか。どちらも一緒には持てません」


 綾乃は返事をしなかった。返事をしてしまえば、その問いがもう公議院側の言葉になる。


 桧垣が去ったあと、三条宗雅は本当に来た。古層保守は怒鳴らない。怒鳴らないまま、相手の逃げ道を先に数える。


「久世君」


「三条先生」


「博多は感情が速い。福原は実務が速い。どちらも、国の続き方を考えるには速すぎる」


「速い遅いの段ですか」


「まだその段です」


 三条は【第一次切断案(仮)】に視線を落とした。


「この男は、切るべき線を早う表にしすぎた。記録に残したら、それが国の判断になる。後から直しても、人は最初の紙を真実と呼びます」


「では、何も残さへん方がよろしいと」


「残さぬとは言うておりません」


 三条の指先が、机上の薄い封筒を二度だけ叩いた。


「名は残すべきです。誰が引き受けたか、誰が継いだか、どの制度が国を持たせてきたか。それは残さねばならん。けれど、線は残しすぎてはいけない。どの便を切った、どの病院が後ろへ回った、そういう生々しい線をそのまま表へ出せば、国は正しさの前に壊れます」


 綾乃はようやく顔を上げた。


「先生が残したいのは、名ですか。名だけですか」


 三条の目が細くなった。


「公議院が飾りになれば、この国はもう調停を失います」


「分かっています」


「なら、全面非公開に寄せなさい。今はそれがいちばん損が少ない」


 損が少ない。誰にとってかを言わない時、その言葉はたいてい古い側に寄る。


 綾乃は立ち上がった。


「先生、わたくし少し史料室へ参ります」


「この段で、まだ紙を見るんですか」


「紙でしか残っていない傷がございますので」


 三条は鼻で笑わなかった。その代わり、少しだけ肩を落とした。もうこちらが、自分と同じ棚には戻らないと分かった時の、静かな落胆だった。


 西棟から式部院寄りの渡り廊下へ出ると、雨の名残が石に薄く残っていた。綾乃は傘を開かずに歩いた。午前の京都は、濡れた庭石のほうがまだ人間より誠実に見える。


 史料室の奥で、冬木清馬が待っていた。いつも通りの灰色の袖口、いつも通りの低い会釈。だが机上に出された綴りは、いつもの棚番号ではなかった。


【終戦後調停編入覚書】

【別綴り照合控】


 冬木は声を潜めた。


「ここから先は、正式閲覧簿に載せると動きます」


「どこが」


「人が、です」


 綾乃は手袋を外し、古い紙の端に触れた。乾いているのに、指に少しだけ粉が残る。こういう紙は、燃えやすいのではなく、折れやすい。


 覚書の本文は短かった。終戦直後、幾つかの判断名簿を本綴りから外し、別綴りへ移す。理由は【戦後制度継続のため】。一方、配分線や輸送線の具体名は通史的整理へ編入し、個別照合不能の形に改める。名は残る。線だけが、あとから追えないように薄められる。


 綾乃は二枚目をめくった。そこには、後年の追記が細い字で入っていた。


【名を絶やさぬことと、線を語りすぎぬことは、同時に行うべし】


 古い理屈だった。だが古いからといって、間違っているとは限らない。問題は、その理屈が今もなお生きた運用を守るための言い訳に使われ始めていることだった。


「冬木さん」


「はい」


「この控え、今も照合できますか」


「条件付きでなら」


「条件とは」


「名簿そのものは出さず、別綴り番号と編入前の項目だけを抜くことです。名前を起こせば、議院線と式部線の双方に閲覧痕が立ちます」


「線だけを戻す、ということですか」


「戻すと言うより、つなぐ、でしょうか」


 冬木は少し言いよどんだ。


「ただ、それをやると、私の席はたぶん今夜で動きます」


 綾乃は顔を上げた。冬木は脅しているのではなかった。脅すには淡々としすぎている。もう数えてしまった損失を、先に置いただけだった。


「嫌ですか」


「嫌かどうかは、あまり関係ございません」


「ございます」


 冬木はそこで初めて、ほんのわずかに口元を動かした。


「なら、嫌です。けれど、嫌なだけで止める段も過ぎました」


 綾乃は綴りを閉じた。閉じた紙の中に、何代分もの保身と調停と祈りが同じ厚みで入っている。


 全面公開をすれば、公議院は壊れるだろう。少なくとも、いま生きている調停機能は無傷では済まない。全面秘匿を選べば、いま切られている線は、また誰の手でもないふりをして繰り返される。


 それなら、残すべきは名そのものではない。名が勝手に飾りへ変えられないだけの、線の骨格だと綾乃は思った。


「冬木さん。名前は伏せます」


「はい」


「ただし、別綴り番号と編入前項目は出してください。現行運用と照合できる粒度まで」


 冬木の目が一度だけ揺れた。


「それでは、公議院側の損も残ります」


「残しなさい」


「……承知しました」


 控えを起こす間、部屋には紙の擦れる音しかなかった。綾乃は手伝わなかった。手伝えば、余計に早くなりすぎる気がしたからだった。遅いくらいでよい。遅いほうが、人が何を傷つけているか分かる。


 出来上がったのは薄い三枚だった。


【別綴り照合控】

【名簿欄 伏字処理】

【編入前配分項目 照合可】


 名は出ていない。だが、どの種類の線がどの名簿群から剥がされ、どの後年整理へ逃がされたかは読める。真下に渡せば、彼は現在の切断案と接続できる。接続できる以上、公議院はもう「知らなかった」では済まない。


 冬木が控えを封筒へ入れながら言った。


「これ、正式閲覧ではなく、限定照合付記の形にせなあきません」


「起票は私がします」


「そうしてください。でないと、私だけが早う落ちます」


「一人だけ落とすつもりはありません」


 綾乃は封筒を受け取った。軽かった。軽い紙ほど、あとで重い。


 午後、真下との面会は公線では取らなかった。京都駅側の連絡廊下に近い、小さな応接室を使った。窓の外を行く人間は早足なのに、部屋の空調だけが少し遅い。


 真下は先に来ていた。机上には何も置いていない。置かないほうが、この男は怒っている。


「公議院から呼び出されるとは思いませんでした」


「呼び出したつもりはありません。渡すものがあっただけです」


 綾乃は封筒を机へ置いた。真下はすぐには手を伸ばさない。


「何です」


「別綴り照合控です。名前は伏せてあります」


「やはりそこだけは守る」


「守るためだけに伏せたのではありません」


「そう見えます」


 真下の声は静かだった。静かな時ほど、この人は赦さない。


「名を今ここで全部さらせば、あなたの案はすぐ政治の見世物になります。誰が悪いかの順番だけが前へ出て、どの線を今切るかが後ろへ回る」


「だから線だけ出す」


「今はそれが必要です」


「今は、ですか」


 綾乃は一度だけ息を整えた。


「真下さん。私はあなたの側へ立つためにこれを持ってきたのではありません」


「分かっています」


「公議院を無傷で守るためでもありません」


「それは、まだ分かりません」


 その返し方に、綾乃は少しだけ救われた。信じないまま話を続ける相手のほうが、まだ現実に近い。


「全面公開は致しません。全面秘匿にも戻しません。名前は私の側で受けます。その代わり、線はあなたの側で切ってください」


「きれいな分業ですね」


「きれいではありません」


「あなたは名を守る。私は線を切る。恨みの集まり方が違うだけです」


 綾乃は頷いた。


「そうです」


 真下はようやく封筒を開いた。最初の一枚を見て、目の動きが少しだけ速くなる。別綴り番号。編入前項目。後年整理の逃がし先。十分だったのだろう。十分であることが、綾乃にはむしろ痛かった。


「これで、今の切断案と接続できます」


「ええ」


「あなたも、公議院が知らなかったとは言えなくなる」


「承知しています」


「議場でこれを否定しますか」


 綾乃は真下を見た。


「全面公開の形なら、否定します」


「なるほど」


「けれど、今の運用線を切る必要までは否定しません」


 真下は封筒を閉じた。


「それは協力ではありません」


「存じています」


「なら、断絶です」


「ええ」


 その一語だけで十分だった。ここから先、同じ方角を向いているとはもう言えない。だが完全に敵でもない。その半端さがいちばん人を疲れさせる。


 真下は席を立った。


「受け取ります」


「そうしてください」


「ただし、あとであなたの名も記録に残ります」


「残りなさい」


 彼はそれ以上何も言わず、封筒だけを持って出ていった。追わなかった。追えば、まだ説明で繋げられる気がしてしまう。


 夕刻前、綾乃は西棟の小部屋へ戻り、端末を開いた。新規起票欄に、必要なことだけを打つ。


【限定照合付記】

【別綴り番号照合可】

【名簿欄 伏字維持】

【現行危機対応照合を許可】

【起票者 久世綾乃】


 送達先に、公議院議長、式部院別管理線、そして真下の照合線を入れる。最後の一つで指が止まった。ここへ入れれば、もう私的便宜では済まない。公議院側から、自分の名で、限定的な線開示を認めた記録になる。


 綾乃は宛先を外さなかった。


 送達する。


 画面の右下に細い帯が出た。


【正式記録化】

【限定照合許可】

【名簿伏字維持】


 同時に、内線が鳴った。桧垣ではない。冬木からだった。


『久世さん』


「はい」


『いま、史料室の席替えが出ました』


「そう」


『今日中に棚を一つ明けます』


 それだけだった。責める声ではない。けれど、その静かさのほうが綾乃には堪えた。


「冬木さん」


『何でしょう』


「お名前は、別綴りには残ります」


 向こうで少しだけ間があいた。


『線は残りますか』


 綾乃は答えなかった。答えれば、嘘になる気がしたからだった。


 通話が切れたあと、部屋には自分の呼吸だけが残った。全面非公開でもない。全面公開でもない。けれど、その中間は、誰も傷つけない場所ではなかった。


 端末の白い欄に、自分の名と、伏せたまま通した許可だけが残っていた。




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