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国の骨  作者: 清河逢真


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第二章 先触れ

 署名用の紙の端が、博多の朝の湿気でわずかに反っていた。


 商務院博多通商局の国際回線会議室は、夜を越えた人間の匂いがしていた。冷めた珈琲、乾いた喉、卓上端末の熱。壁際のガラスは白く曇り、港の方角だけが少し明るい。志岐真帆は、前に置かれた契約案から目を上げた。


 画面の向こうには三つの窓が並んでいた。主幹引受側、荷主側法務、博多交易。あと一つ、音だけで入っている国内金融の監視回線がある。


 今日、ここでまとめるはずだったのは、西海圏向け高鮮度貨物の年間共同保証案件だった。医療用冷蔵便と高感度部材を、博多・神港経由で優先的に通す枠組みである。数字は大きいが、重要なのはそこではなかった。一度この枠を落とせば、次からは日本国側の説明より、他所の保険筋の顔色で条件が決まる。


 それを、志岐はよく知っていた。


「では、先方最終文言を確認します」


 彼女が言うと、画面中央の男は頷かなかった。背後の照明だけが白く、顔色が平たい。


『その前に、神港側の障害について確認したい』


 志岐は紙から手を離した。


「どのレベルのお話でしょう」


『港湾制御。冷蔵レーン。優先処理の逸脱です』


 その言い方で、会議室の空気が変わった。隣の席で、博多交易の周布晶がペンを置く。端末の冷却音だけが、やけに耳に残った。


「日本国側の正式公表はまだ出ていません」


『承知しています』


 荷主側法務の女が、画面の右窓で言った。


『だから先に確認しています。神港第七码頭、搬送レーン三。医療便の優先区分が落ちた、という理解で差し支えありませんか』


 志岐は一拍だけ黙った。


 福原から、まだその番号は来ていなかった。商務院に降りてきているのは、南西系海底線の瞬断と、神港側の付随遅延、その二行だけである。


「その照会源は」


『お答えしません』


「なら、こちらも未確認事項として扱います」


『未確認にしては、保険指数が早すぎます』


 音声回線だけで入っていた国内金融側が、そこで初めて口を開いた。南雲寛の声だった。低く乾いていて、誰かを助けるための声には聞こえない。


『始値前の気配が動いています。量はまだ薄い。ただ、匂いを拾った連中がいる』


 志岐は南雲の声を聞きながら、画面の向こうの沈黙を見た。向こうはもう、日本国の発表を待っていない。待つ段階を過ぎている。


「現時点で申し上げられるのは、局所障害の可能性が高いということだけです」


 そう言った瞬間、周布が横でごく薄く息を吐いた。


 主幹引受側の男が、初めて手元の書類をめくった。


『では、本案件の署名は一時保留にします』


 卓上の湿気が、急に冷たくなった気がした。


「理由を明確にお願いします」


『理由は単純です。障害そのものではありません。公式説明より先に、現場番号と優先逸脱の話が外へ出ている。その状態で“局所”と言われても、引受条件を据え置く根拠になりません』


『荷主側も同じです』


 右窓の女が続けた。


『わたしたちは遅延を嫌っているのではありません。何が優先され、何が落とされるかが読めないことを嫌っています。そこが揺れたままでは、医療貨物を神港経由の幹線に戻せません』


 志岐は、喉の奥に残っていた苦い珈琲の味を飲み込んだ。


「保留の期間は」


『日本国側から、優先制御と対外説明の整合が出るまで』


「それでは間に合いません。この枠は今朝閉じます」


『閉じるなら閉じてください』


 男の言い方は静かだった。静かだからこそ、余地がなかった。


『志岐さん、あなた個人の見立ては信用しています。ですが今日は、その信用で受けられる額を超えました』


 会議室の誰も、すぐには言葉を出さなかった。


 志岐は画面の自分を見た。表情はほとんど動いていない。こういう時の顔だけは、若い頃から崩れなかった。崩れないまま、目の前で話が死ぬことには慣れている。


「承知しました。こちらから再照会を入れます」


 画面が一つずつ落ちていく。主幹引受、荷主法務、博多交易側共有窓。最後に残った南雲が、感情のない声で言った。


『局所で持つなら、今日のうちは持つかもしれません』


「何がです」


『紙の上の信用が』


 それだけ言って、音声回線も切れた。


 室内は急に狭くなった。周布が背もたれにもたれ、反り返った契約書の端を指で押さえる。


「今ので飛びましたね」


「ええ」


「向こう、障害を怖がっとるんやない。順番が読めんことを怖がっとります」


「分かっています」


「いや、そっちは分かっとるでしょうよ」


 周布は契約書から手を離した。


「問題は、福原が分かっとる顔をするかどうかです。こっちの顔で通してきた分、今日ので一段落ちました。次は、志岐さんの言葉だけでは開かん」


 その言い方には同情がなかった。商人として正確だった。


 志岐は端末を引き寄せ、福原から回ってきた第一報を開いた。文面は短かった。


 【南西海域第一海底線瞬断に伴う神港側付随遅延。局所障害。復旧中。】


 たったそれだけだった。


 彼女は数秒、その二行を見た。笑いそうにもならない。向こうは搬送レーンの番号まで持っている。医療便の優先逸脱を前提に話を止めてきた。こちらはまだ、局所障害の紙を配っている。


 最前線にいるのに、中枢ではない。


 その古い感覚が、乾いた釘のように胸の内側へ立った。


 端末が鳴る。鳥飼仁志だった。


「はい」


『今、そっちの件を聞いた。案件は落ちたか』


「署名保留です。理由は障害ではありません。外が、こちらの第一報より先に番号を持っていました」


 数拍の沈黙があった。


『局所障害の線で押し返せんか』


「押し返せる段階は過ぎています」


『志岐』


 鳥飼の声は低かった。怒鳴りはしない男だが、押しつける時は平らになる。


『こっちも福原の正式線がいる。今は勝手に大きく言うな』


「大きくする気はありません。ただ、向こうはもう小さい話として受けていません」


『それでも手順は踏め』


「踏んでいる間に、外で値段が決まります」


『分かっとる』


「いいえ、長官。分かって止めているなら、なお悪いです」


 受話の向こうで、誰かが息を呑んだ気配がした。鳥飼ではない。近くに秘書官でもいるのだろう。


 鳥飼は声を落とした。


『文面で上げろ。残る形で』


「そうします」


 通話を切る。


 志岐は会議室のガラス越しに、曇った港の輪郭を見た。博多の港は動いている。クレーンも、誘導灯も、朝のトラックも。止まっているようには見えない。だが、外から見れば、もう一本の見えない線が傷んでいる。


 契約の線だった。信用の線だった。


 彼女は新規照会文を開いた。宛先に、福原海事院危機対応窓口、航路保全局、必要最小限の官房共有を入れる。少し考えてから、真下朔也の名も加えた。


 件名を打つ。


 【件名:神港障害に係る対外信用案件緊急照会】


 本文の最初の一行で、指が止まった。


 柔らかい文にしても意味がない。今ほしいのは配慮ではなく、整合だった。彼女は語尾を一つ削り、もう一つ削った。


 ――貴院第一報は、対外実務上、説明能力を欠く。


 ――海外保険筋および荷主側は、公式説明以前に優先処理逸脱の存在を前提として照会している。


 ――局所障害の文言を維持する場合、その根拠と、医療・高鮮度貨物に関する優先制御の変動有無を直ちに示されたい。


 ――示せない場合、商務院側は対外説明を独自補正する。


 周布が横から画面を見て、短く言った。


「喧嘩ですね」


「確認です」


「それを福原は喧嘩と言うとります」


「知っています」


 志岐は送信欄へ指を置いた。


 今ここで引けば、博多はまた“国内線が固まるまで待て”の側へ回る。外で傷が広がってから、あとで説明だけ持ってこられる。そういう順番で、何度も仕事を潰されてきた。


 彼女は送信を押した。


 端末の右上に、小さな送達表示が灯る。


 同時に、未読のまま溜まっていた外信通知が一つ、二つ、三つと増えた。どれも件名に、神港の名が入っていた。


 志岐はそれをまだ開かなかった。


 まず福原に返させる。国内の説明だけでは、もう持たない。その確信だけが、会議室の冷えた空気の中で固く残っていた。



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