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国の骨  作者: 清河逢真


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第十四章 欠けた目録

 照会票は、戻るべき段で戻ってこなかった。


 福原海事院北棟の夜間文書受付は、深夜二時を過ぎると、人の気配より機械の癖の方が先に立つ。複合機の排紙が短く鳴り、少し遅れて廊下の奥で自動扉が擦れる。空調は効きすぎているのに、床のワックスだけが昼の熱を薄く抱えたままで、立っている足裏の温度感覚が揃わない。真下朔也は受付台の横の細い端末卓に片手を置き、画面の更新欄を見ていた。


 【第一種制限資料事前照会】

 【原目録照会】

 【受付状態――保留】


 保留なら、普通は理由が付く。手続不備、様式相違、所属確認待ち。どれか一つでも文言が出れば、押し返す相手も押し返し方も分かる。だが今夜の画面には、保留の二字だけが硬く残り、その下が不自然に白かった。受領番号欄も空欄のまま、更新時刻だけが三度変わっている。


 端末の横に置いた照会控えは、紙の端だけが少し湿っていた。さっきまで握っていた手の汗ではない。受付台のガラス越しに当たる冷気が、紙の薄さだけを先に冷やしている。


「番号が付かないんですね」


 横で黒瀬啓介が低く言った。透明袋を抱えたまま、声だけを寄せてくる。深夜帯の廊下では、語尾ひとつで誰が何を見ているかが変わる。


「通常線なら、もう付いてます」


「通常線じゃないってことですか」


「少なくとも、夜間文書係の棚には落ちてません」


 黒瀬は端末台の下段を見た。受領済みの紙が順番に差される薄い金属棚は、上から三段目だけが空いていた。空き方が不自然だった。まだ誰も受けていない空きではなく、受けたあとで中身だけ抜かれたような、軽い空きだった。


 真下は照会票の控えを持ち上げた。自分で起こした票だ。所属、照会目的、現行危機運用との接続理由、緊急性判断の根拠。余計な文を削り、足りない線だけを残した。ここまで絞った票が、受理でも差戻しでもなく、番号のない保留に沈む。手続きの段で揉まれている形ではなかった。


 受付窓の向こうで、若い係員が一度だけこちらを見た。女だった。白い名札に野津とある。すぐ視線を落とし、端末に何かを打つ。指の動きは速いのに、受付済みの印を押す動きに移らない。


 真下は窓口へ歩いた。


「今夜出した第一種制限資料の事前照会、受理番号が出ていません」


「少々お待ちください」


 野津はそう答えたが、定型の落ち着きがなかった。視線が票ではなく、票の左上に寄ったまま動かない。そこには、真下が自分で打った照会対象の補助記載がある。


 【原目録照会】


 それだけで声が少し遅れた。


「所属確認ですか」


「いえ……系統確認です」


 系統。普通の夜間受付ではあまり使わない言葉だった。所属や資格ではなく、流す線の問題として返している。真下は何も言わず、受付台の上に置かれた自動印の位置だけを見た。押せる場所にあるのに、誰も押さない。


 野津の内線が鳴った。受話器を取る。はい、はい、と短く返す。そのたびに肩の力がわずかに変わる。説明を受けている顔ではない。説明を受けないまま、止まれと言われている顔だった。


「申し訳ありません」


 受話器を置いたあとで、野津はようやく言った。


「こちらの票、今の窓口では預かれません」


「理由は」


「別管理の可能性があるためです」


「別管理なら、どこへ回る」


「それは、こちらでは」


 そこまでで言葉が切れた。言えないのではなく、言った瞬間に自分の線から落ちると分かっている切れ方だった。


 黒瀬が一歩だけ前へ出た。


「受付保全だけ先に掛けられませんか。原票が消えると後追いも効かない」


「保全番号も出ません」


 野津は自分でも意外そうな声でそう言った。


「今、様式自体が閉じています」


 真下は窓口の補助画面を見た。操作途中の窓が一瞬だけ反射して見える。入力欄の上に、灰色の帯が横に走っていた。受付停止ではない。別欄移行準備。そんな意味の薄い語が、画面の端にほんの一瞬だけ出て、すぐ消えた。


「閉じたのは今ですか」


「……はい」


「俺の票を開いたあとに」


 野津は答えなかった。沈黙が答えだった。


 廊下の奥で足音がした。夜間統括の札を付けた男がこちらへ来る。寝不足で瞼が重いのに、声だけは整っていた。


「真下次長補佐、こちらの件は今夜の一般受領では扱いません。朝の所管確認後、改めて通知します」


「朝まで寝かせる理由がない」


「理由の有無ではなく、扱い系統の確認です」


「受領番号も保全番号もないまま置けと」


「現時点では、それが最も適切です」


 適切、という語が廊下の冷気より冷たく響いた。適切であるほど、後ろへ回される線がある。真下は今夜だけで、その言い方を何度も聞いてきた。現場では遅延と言えず、対外では局所と言えず、院内では確認中と言って持たせる。そのたびに、先に切れるのは紙の上で数に見えにくい側だった。


 夜間統括は窓口へ目をやった。


「野津さん、離席してください」


 女は一瞬だけ固まった。


「ですが、まだ引継ぎが」


「いい。ここは代わる」


 野津は頷いたが、すぐには動けなかった。受付台の下で、指先が小さく紙の縁を押している。自分で受けたわけでもない票の重さに、もう触ってしまった人間の手つきだった。


 真下はその指先を見た。見たまま訊いた。


「あなた、さっき一度は開いたな」


 野津の喉が動いた。


「入力欄だけです」


「何が出た」


「受領番号欠」


 そこで彼女ははっとした顔になり、口を閉じた。言いすぎたのが分かったのだろう。だがもう遅かった。


 夜間統括の目が細くなった。


「それ以上は不要です」


 野津は小さく頭を下げ、カウンターの内側から外れた。歩き方が少し速かった。逃げるためではない。そこに立ち続けると、自分の名札ごと別の棚へ移されると知った人間の速さだった。


 黒瀬が真下の横で息を吐いた。


「見たかどうかで切られます」


「向坂のとこだけじゃないな」


「こっちも同じです」


 夜間統括は票を手に取らなかった。取らずに、受付台の上へ視線だけを置いた。


「朝以降、正式な照会ルートをご案内します」


「正式なルートで扱えないから今こうなってる」


「現時点で申し上げられるのはそこまでです」


「じゃあ、こっちもここまでだ」


 真下は控えを取り上げ、窓口を離れた。男は止めなかった。止めない方が広く閉じずに済むと分かっている顔だった。


 北棟の廊下は長かった。深夜帯は窓の外の景色も役に立たない。暗いガラスに、自分たちの姿だけが薄く映る。黒瀬が後ろから追いつく。


「このまま待つと、朝には正規説明の棚に吸われます」


「分かってる」


「でも、ここで保全掛けると俺の線も切れます」


「切れる前提で言ってるのか」


「今夜のうちに票の痕だけ残すなら、その言い方になります」


 黒瀬は相棒ではない。ただ、どこまでが福原の内側で保てるかをよく知っている。その余地が今、狭まっている。真下は足を止めずに訊いた。


「保全で残せるのは」


「通常照会の起票痕、送達時刻、入力者欄までです。中身に別管理が掛かると、その先は俺でも見えません」


「原票は」


「上が引けば消えます」


「お前の名も残る」


「残ります」


 その返答だけで十分だった。黒瀬は怖がってはいない。怖がる段を過ぎて、何を失うかだけを先に数えている。


 二人は文書保全部屋の脇を曲がった。ここだけ空調が弱く、紙とトナーの匂いが少し濃い。壁際の補助端末を開く。真下が照会番号未定の控えをかざすと、画面に細い一覧が出た。


 【起票者 真下朔也】

 【送達時刻 二時〇七分】

 【受領状態 未確定】

 【受領番号 欠】


 欠、の一字だけが浮いていた。誤入力なら修正符号が付く。欠は、その前に別の棚へずらされた時に残る痕だ。


「見たか」


「ええ」


 黒瀬の声がさらに低くなる。


「普通の欠け方じゃないです」


 背後で扉が開き、誰かが入ってきた。保全係の若い男だったが、真下たちを見ると歩幅が目に見えて変わった。知らないふりをしようとして、しきれず、端末台の前を一度通り過ぎる。戻ってきて、声を潜めた。


「今、その画面、長く開かないでください」


「なぜ」


「閲覧フラグが立ちます」


「立ったらどうなる」


「別管理側から逆に見えます」


 男はそれだけ言って、すぐ奥へ消えた。助けたのではない。触れた瞬間に自分も線を失うと分かっているのに、見過ごせなかっただけだ。名前を確認する間もなかった。人間単位の損失は、こういう時、たいてい名札より先に起きる。


 真下は画面を閉じた。


「福原の内側にいたままじゃ追えない」


「はい」


「朝まで待てば、朝の言い方に整えられる」


「はい」


「じゃあ、今ここで切る」


 黒瀬は何も返さなかった。反対しない代わりに、賛成も言わない。そこがちょうどいい距離だった。


 個人端末が震えたのは、その直後だった。一度だけ短く。対策室の更新通知にしては軽い震え方だった。真下は立ち止まり、受信欄を開く。差出人名は出ない。だが、回線記号の並びだけで分かった。久世側の非公式線だった。


 本文は短かった。


 【閲区乙三】

 【統優付】

 【北棟別管理欄】

 【窓口ではなく欄へ】

 【四時前。公線不可】


 それだけだった。説明は一つもない。だが十分だった。存在確認ではなく、扉に触れるための片割れだ。閲覧区分記号。欠けた簿冊略号。受付語ではなく、受付の欄を指す語。番号でも面会線でもない。だが押せば次の棚に触れる。


 黒瀬が横で気配を殺した。


「来ましたか」


「最低限だけ」


「具体番号は」


「ない」


「なら、今夜は入口だけか」


「それでいい」


 端末を閉じかけて、真下はもう一度本文を見た。壊すためではなく、壊さないために。文面は冷たいが、投げてはいない。綾乃は継続を守る側から、通常線の外にある最小片だけを寄越してきた。


 真下は保全机の上に照会控えを置いた。空調の風で紙の端がわずかにめくれる。黒瀬が何か言いかけてやめた。


「控え、借りる」


「真下さん」


「借りるだけだ」


 ペンを取る。票の左下、通常受付欄の余白に、自分の字で短く書いた。


 【別管理照会切替】

 【北棟欄扱い】

 【閲区乙三】

 【統優付】

 【起票者再送 真下朔也】


 自署を入れる。インクが紙に沈む音はしない。だが、沈んだと分かった。通常線の外へ、自分の名で踏み出す記録だった。


 黒瀬が低く言う。


「その注記、もう戻せません」


「戻す気はない」


「俺の保全線からも半分外れます」


「半分でいい。起票時刻だけ残せ」


「残します」


 真下は補助端末を再び開いた。今度は通常受領ではなく、北棟別管理欄。夜間帯の裏側にある細い入力窓だ。ふだんは灰色で眠っている欄が、閲区乙三の入力で一瞬だけ白く変わった。統優付。欠けた略号の前半だけを打つと、候補欄が二つ現れ、片方がすぐ消える。残った一つに指を置く。


 受理確認の音は鳴らなかった。代わりに、画面の右下に小さな帯が出る。


 【仮収受】

 【番号後付】

 【別管理接続待機】


 それだけで十分だった。通常の受領番号はまだ付かない。具体綴り番号も見えない。だが、もう存在確認ではない。次の扉に触れるための最小片が、真下の控えと端末の両方に残った。


 その時、背後で足音が止まった。さっき窓口から外された野津が、廊下の角からこちらを見ていた。着替え用の薄い鞄を肩に掛け、もう勤務の線から外れた顔をしている。目が合うと、彼女は小さく会釈した。それ以上は何も言わない。言えば、自分が今夜見たものまで記録になると分かっているからだ。


 真下は会釈を返さなかった。返すと、彼女の名前をここへ繋いでしまう。代わりに、机上の控えを一枚だけ裏返した。そこに自分の署名があることだけを、見せるために。


 野津はそれを見て、すぐに視線を外した。踵を返し、北棟の出口へ消える。夜明け前の薄い時間帯に、もう自分の窓口へ戻れない人間の歩き方だった。


 黒瀬が端末の時刻を見た。


「三時四十八分」


「ちょうどいい」


「これで朝の通常線には戻せません」


「戻さない」


「対策室へは」


「一度戻る」


 真下は控えを折らずに持った。折ると、あとでただの書類に見える。今はまだ、紙の薄さのまま持っていたかった。北棟の廊下を引き返す。窓の外は、夜の色が崩れる前のいちばん硬い青だった。


 対策室へ戻れば、また速報が来る。人が持たない線から先に崩れる。国内発火、旧回路、隠蔽。その三つはもう別々ではいられない。だが今夜、真下が受け取ったのは真相ではない。欠けた目録の、欠けたままの入口だけだ。


 それでも足りた。


 真下は控えの端を指で押さえたまま、対策室の白い灯りの方へ歩いた。受領番号はまだ欠けている。


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