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国の骨  作者: 清河逢真


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第十章 剥がした跡

 港は、普通に動いているように見えた。


 神港港湾地区の朝は、まだ曇りきらない雨雲の下で鈍く光っていた。記者車両の前窓に薄い塩気が張りつき、ワイパーが一度それを払って、またすぐに曇らせる。岸壁のクレーンはいつもの速さで首を振り、フォークリフトも止まらない。信号の向こうでは作業服の列がコンビニの前にほどけ、紙コップの湯気が短く風に切られていた。


 安住慶介は運転席でエンジンを切らず、窓を少しだけ開けて煙草に火をつけた。吸いきらないうちに消す癖は、締切のある人間のものだった。


「静かですね」


 梶原が言うと、安住は笑わなかった。


「静かな時ほど、人はよう消える」


 それだけ言って、前方の掲示板へ顎をしゃくった。


 港湾会社の仮設事務棟の外壁に、今朝の異動紙が貼られていた。濡れた紙の端がめくれ、画鋲だけが小さく光っている。白い用紙は三枚並んでいたが、中央だけ新しい。右端に、紙を剥がしたあとの薄い糊の痕が残っていた。文字は読めない。だが、昨夜のうちに貼り替えた手つきだけは分かる。


「昨夜、こんなんやったか」


 安住が呟いた。


 梶原は答えなかった。見たいのは異動紙の内容そのものではない。貼り替える速度だ。港が動いて見える朝に、そこだけ先回りしているものがある時、人はたいてい後ろで沈んでいる。


 車外に出ると、潮の匂いに油の甘い臭気が混ざっていた。靴裏が濡れた舗道にわずかに吸いつく。遠くで鉄が擦れる音がして、すぐにフォークの警告音が短く重なった。安住は煙草を靴で潰し、鞄から古い身分証を出した。


「一応言うとくけど、今日はまだ記事の形にする日やない」


「分かってます」


「ほんまに分かってる顔やないな」


「書くために来た訳ではないです。消された順番を見に来たんです」


 安住はそれで何も返さなかった。返さない時の方が、聞いている。


 最初の二人は、揃いすぎていた。


 荷役会社の班長は、昨日までと何も変わっていない顔で立っていた。濡れたヘルメット、蛍光の入った上着、寝不足で白くなった目。だが口に出る言葉だけが、妙に滑った。


「現場運用に大きな変動はありません」


「一部の人員配置と作業順が見直されただけです」


「再開発機構との定例調整の範囲です」


 言い換えだけが早い。意味のある説明より先に、意味のない安心が出てくる。


 梶原は手帳を開いたまま、相手の靴を見ていた。右のつま先に、乾いた泥が薄く固まっている。岸壁側ではなく、裏手の未舗装通路を朝のうちに歩いた跡だ。定例調整の朝に、わざわざ裏へ回る必要はない。


「じゃあ、あの異動紙は」


 班長の視線が一瞬だけ浮いた。ほんの一瞬だったが、見えれば足りる。


「通常の配置転換です」


「紙を剥がす必要のある配置転換なんて、どこの通常です」


「細かい実務までは、うちは」


「うち、じゃないですね」


 梶原は顔を上げた。


「その言い方、現場の人間の言い方じゃない」


 班長はそこで黙った。怒るでもなく、否定もしない。ただ、次の言葉を選ぶ時間だけ長くなった。安住が少し横で息を吐いた。庇いには入らない。今の沈黙の方が記事になると分かっているからだ。


 別の係員は、もっと雑だった。


「再開発の方で人員整理が入るって話は、前から」


「前から、っていつです」


「それは、まあ」


「障害前ですか、後ですか」


「……現場じゃ分かりません」


 分からない人間の言い方ではなかった。分かっているが、どこから先を知らない顔にするかだけを決めている声音だった。


 梶原は二人とも深追いしなかった。欲しいのは、口を割る瞬間ではない。揃いすぎた口ぶりの向こうに、同じ紙を読まされた気配だ。


 事務棟の脇を抜けると、作業当番表が見えた。青と黒のマーカーで何本も線が引かれ、左端の一列だけ不自然に空いている。休暇でも欠勤でもない空き方だった。名前を書いたあとで消した紙の、呼吸の悪さが残っていた。


 安住がそれを見て、低く言った。


「おるはずの奴がおらん」


「名前はまだ出さない方がいいですね」


「珍しいな。あんたが慎重や」


「名前より先に、消し方が見えてます」


 安住は口の端だけで笑った。


「そういう時のあんた、たいてい当たる」


 正午前、倉庫街の裏で会う約束だった。


 相手は港湾労務側の人間で、昨日の夜、安住経由で連絡が来た。話すのは一度だけ。録音は条件つき。名前はまだ出すな。再開発機構と兵庫商事の名が、障害前から同じ資料に乗っていたのを見た、とだけ先に伝えてきた。


 梶原は、こういう相手の遅れ方を嫌というほど見てきた。来ないかもしれない。来ても、もう話せる立場ではないかもしれない。だから待つ時ほど、時間を見ない。


 待ち合わせの角には、古い自販機が二台並んでいた。一台は釣銭切れの紙が貼られ、もう一台は冷たい缶だけが妙に残っている。安住は何も買わず、自販機の横に寄りかかった。港の雑音が、表通りよりよく聞こえる場所だった。鉄の擦れる音。海鳥。遠くで誰かが怒鳴りかけて、途中でやめる声。濡れた軍手をはたく音。フォークリフトの後退音。


 約束の時間を五分過ぎても、相手は来なかった。


 安住が腕時計を見たが、何も言わない。梶原は自販機の横の排水溝を見ていた。雨水に紙片が一つ貼りつき、インクが滲んでいる。勤務票か、通行許可証の切れ端か、判別はつかない。


「遅いな」


 安住がようやく言った。


「遅れ方が悪いです」


 梶原は答えた。


「迷ってる遅れじゃない」


「来られへん方か」


「たぶん、そうです」


 言った瞬間、携帯端末が震えた。非通知ではない。さっきまで相手の窓口になっていた番号だった。


 梶原は出る前に、安住へ目だけ向けた。安住はすぐに少し離れた。聞かないふりをする距離の取り方がうまい。


『……梶原さんですか』


 声は若かった。約束した本人ではない。


「そうです」


『今日の件、会えません』


「本人は」


『いません』


「いない、はどっちです」


『今日付で現場から外れました』


 梶原は黙った。向こうが続ける。


『朝一で通行証、止められてます。事務棟にも入れてません。今は会社にもおれん』


「理由は」


『再配置です』


「それを本人が言いましたか」


『いえ』


「誰が」


『上からです』


 その「上」がどこまでの高さを持つか、訊く必要はなかった。今はまだ、相手も知らない。


『もう一つだけ』


 若い声が小さくなった。


『昨夜、港湾再編準備会の資料を回収しに来た人がいました。神港再開発機構の腕章つけてたけど、名刺は兵庫商事でした』


 そこで後ろから誰かの声がした。若い男は息を呑み、言葉を切った。


『これ以上は』


 通話が落ちる。


 梶原は端末を下ろさなかった。画面が暗くなるまで、しばらくそのまま持っていた。安住が戻ってくる気配が足元で止まる。


「来んかったか」


「来られなかった」


 安住はそれだけで顔をしかめた。質問を増やさない方がいい時は、年を取った記者の方が早い。


「外された?」


「今日付」


「早いな」


「早すぎる」


 梶原はようやく端末をしまった。待機のあいだに聞いていた港の雑音が、急に遠くなった気がした。証言を潰すために人を飛ばす速度は、いつだって事実より速い。表に出る説明が整う前に、沈む人間だけ先に沈む。


「名前、掴めたか?」


 安住が静かに言った。


「まだ片方だけ」


 梶原は自販機の横から身体を起こした。


「神港再開発機構の腕章で、兵庫商事の名刺。それが一緒に来るなら、資料線は一本じゃありません」


「一本やと見せてたんやろな」


「ええ」


 梶原はそこで初めて、今朝の異動紙を思い出した。剥がした跡が一枚だけ新しかった。人を消す時、この国はたいてい「異動」と書く。処分よりも柔らかく見え、再配置よりも余地があるように聞こえる。だが実際には、いちばん早く口を塞ぐ語だ。


 安住が路地の奥を見たまま言った。


「国内発火だな」


 梶原はすぐには答えなかった。目の前にあるのはまだ断定ではない。だが、外から持ち込まれた混乱の顔ではなかった。港の中で、再開発の紙と、再編の紙と、人を消す紙が、先に一つの手つきになっている。


「早瀬隆文」


「機構側か」


「表の顔です」


「もう一つは」


「椎名冴子」


 安住が一度だけ目を細めた。


「兵庫商事」


「ええ」


 それ以上、二人とも言葉を足さなかった。足せば整理になる。今必要なのは整理ではなく、並びだった。


 神港再開発機構。兵庫商事。港湾OS再編。


 別々の顔で並んでいたものが、同じ紙の上にいた。


 そして、その紙を見た人間は、今日の午前、もう現場にいない。



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