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国の骨  作者: 清河逢真


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第一章 第一報

 保冷箱の蓋が開いた音が、スピーカー越しでも分かった。


 真下朔也は、海事院庁舎一階の初動室へ入ったところで足を止めた。まだ朝の六時前だというのに、室内は冷房が強く、夜勤明けの紙コップと湿った上着の匂いが混じっている。壁一面の運航盤には南西海域の線が薄く点滅し、神港側の搬送レーンだけが赤く滲んでいた。


 中央卓の通話端末から、女の声がした。


『……駄目です。中の温度、戻りません。ログ見てください。四・八まで上がってます』


 背後で、ビニールの擦れる音と短い舌打ちが重なる。病院の搬送受けだと分かった。現場の声は、いつも説明より先に空気を変える。


「どちらです」


 真下が訊くと、ヘッドセットを押さえていた当直官が顔を上げた。


「神港圏小児総合医療センターです。神港第七码頭経由の緊急冷蔵便。予定到着五時二十二分、未着。今、別便で回収はしたけど、保冷が切れてます」


 端末の向こうで、別の男が言った。


『今回の分は院内備蓄でつなぎます。けど次は無理です。次に同じことが起きたら、こっちは患者を切ります』


 怒鳴ってはいなかった。怒鳴るだけの余裕が残っていない声だった。


 真下は机へ歩み寄り、通話画面の横に出た搬送票を見た。小児用血液製剤。照合済み。緊急冷蔵便。神港中央荷捌所から病院直送。予定便の欄だけが空白になっている。


「今回、切れる症例は」


『今朝の一件は後ろへ回しました。七歳です。執刀は待たせてます。次便が安定しないなら、今日じゅうに予定を組み替える』


 誰かが向こうで保冷箱の温度計を叩いた。乾いた音がした。


『そちら、局所障害で片づけるつもりですか』


 当直官が口を開きかけたが、真下が片手で制した。


「最終走査は」


『神港第七码頭、搬送レーン三。四時五十七分で止まってます。そのあと別の冷蔵車列は流れてる。うちの便だけ残された』


 そこまで聞いて、真下は画面の右下へ視線を落とした。優先区分欄。医療緊急便のコードが、一段下の一般冷蔵指定へ落ちている。


 通信断だけでは起きない。少なくとも、それだけではない。


「保冷ログと搬送票、こちらへください。院内備蓄の残量も」


『もう投げてます。残量は、今日の午前を越えたら赤です』


「分かりました」


 通話を切る前に、向こうの男が低く言った。


『海の障害でも、切られるのは海の人間やないですよ』


 切断音がした。


 室内の誰も、すぐには口を開かなかった。


 真下は画面上で搬送票を開き、時刻列を追った。認証は四時台に二度揺れている。南西系の海底線で瞬断があり、神港側の港湾制御網が再同期へ入った形跡もある。だが、それなら全体が乱れるはずだった。実際には、止まった便と流れた便がある。


 奥の端末席から黒瀬啓介が立ち上がった。海事院情報基盤室長。寝癖も直さず来たらしく、襟が曲がっている。


「表で見える分では、南西海域の第一海底線で異常信号。四時四十一分から四分半。今は復旧済みです。港湾OSも自動再同期が走った。ただ、神港の一部搬送レーンで優先判定が飛んでる」


「飛んでる、で済ませるな」


 真下は画面から目を離さずに言った。


「落ちたのは何本だ」


「表で見える分では三本。うち一つが病院便。もう一つは検疫系。残り一つは民間の高鮮度貨物」


「上がったのは」


 黒瀬が襟元に触れた。


「港湾保全部材の緊急搬入。あと金融系バックアップ機材です」


 初動室の空気が、わずかに固くなった。


 真下はそこで初めて顔を上げた。


「海底線の瞬断で、医療便が落ちて保全部材が先に通るのか」


「自動判定なら、説明はできません」


「だろうな」


 別の端末席から、当直官が慎重に言った。


「ただ、神港第七码頭の搬送レーン三に限れば、認証不良の局所障害で報告は立ちます。……立てないと、先に窓口が詰まります」


「搬送票の優先区分が落ちてる」


「表示系の乱れかもしれません」


「表示だけで病院便が止まったんなら、なお悪い」


 窓の外は、薄い朝靄で港が白く霞んでいた。福原の庁舎街はまだ完全には起きていないはずだったが、初動室だけはもう昼前のような顔をしている。端末の通知音が短く続いた。神港、沿海府、海備軍監視所、内政院医療配置室。どこもまだ文面を整える余裕がない。


 真下の端末へ、速報が一つ入った。


 【神港海上保険指数、始値前気配変動。】


 黒瀬が小さく言った。


「早いですね」


「放っておけ。神港を先に見る」


 真下は通知を閉じ、病院から送られてきた保冷ログを開いた。箱内温度は四時五十九分から緩やかに上がり始め、五時二十分を過ぎて危険域に入っている。氷の写真が添付されていた。白い霧の出ない保冷箱ほど、現場を冷やすものはない。


 真下は別回線を取り、内政院医療配置室へつないだ。二度の呼び出しのあと、女が出た。


『内政院です』


「海事院の真下です。神港圏小児総合。今朝の緊急冷蔵便、一本落ちた。院内備蓄で午前はつなぐが、午後は赤。代替線、今すぐ出せますか」


 短い沈黙のあと、書類をめくる音がした。


『大阪側血液センターから航空振替は検討できます。ただ、今朝は南西系の障害で照合認証が詰まっています。正式に広域扱いへ上がらないと、優先枠をこちらだけでは切れません』


「分かった」


『真下さん』


「何です」


『局所障害で出されると、午後の便から落ちます。こちらで守れるのは午前までです』


「承知しています」


 通話を切った。


 承知している、という言葉ほど役に立たないものはない、と真下は思った。


 室内奥の自動扉が開き、有村澄江が入ってきた。海事院長官。五時台の庁舎に似合わないほど姿勢が崩れておらず、歩幅も一定だった。彼女は状況説明を求めず、まず中央卓の広報文面を見た。


「外へはまだ出してないな」


「準備段階です」


 当直官が答える。


 有村は真下の端末に表示された病院便のログへ目を落とした。


「一本失ったか」


「一本で済むかどうかは、これからです」


「今の時点では一本や」


 有村はそう言ってから、真下を見た。


「見立ては」


「通信だけではありません。神港側で優先判定が歪んでます。医療緊急が落ち、保全部材が上がっている。局所瞬断の付随障害と呼ぶには、選ばれ方が悪い」


「原因が分からんうちに言葉を大きくすると、神港の現場へ戻す手が細くなる」


「もう細くなり始めています」


「だからこそや」


 有村の声には温度がなかった。諭しているのでも、抑えているのでもない。切るための平らな声だった。


「今ここで広域へ上げたら、沿海府も海備軍も官邸も、先に説明を欲しがる。神港の窓口はそこで痩せる。あんたはそれを分かったうえで、この席におる」


 真下は答えなかった。


 分かっている。分かっているから、赦せないことがある。だが赦せないだけでは、この国の機械は止められない。止めた先で切られるものが増えることも、知っている。


 黒瀬が低く言った。


「官房から照会です。分類を急げと」


 当直官が事故初動登録の画面を中央卓へ出した。分類欄が三つ並ぶ。【局所障害】【広域複合障害】【原因未詳・対外秘】。


 真下はその三つを見た。どれを押しても、先に通るものと後ろへ回されるものが決まる。


 端末が震えた。神港圏小児総合から追加報告。


 【対象便、使用不能確定。午前症例一件延期。】


 本文はそれだけだった。誰の名もない。年齢も診断名もない。名前が落ちた瞬間から、人は「一件」になる。


 真下の脳裏に、父の背中が浮いた。濡れた作業靴を脱ぎ、何も言わずに廊下へ水だけ落としていた朝だった。あの人は声を荒げなかった。ただ、港で順番が変わるたび、帰ってくるのが遅くなった。


 有村が言った。


「真下。選び」


 真下は黒瀬に訊いた。


「神港レーンの現場封鎖、すぐできるか」


「できます。局所扱いでも、搬送レーン三の限定封鎖までは」


「病院便の優先復旧は」


「内部運用で寄せられます。ただ、外から足す枠は細い」


「午後まで持つか」


 黒瀬は襟元を直し、いつもの曖昧さを一度だけ捨てた。


「持つとは言えません」


 真下は机の縁を押した。金属が冷たかった。


 局所で出せば、今朝の窓口はもつ。神港の外へ広げずに、搬送レーン三だけを切って縫える。


 その代わり、午後から先に落ちるものは、局所の名前の下で落ちる。


 真下は分類欄の最上段を押した。


 【局所障害】


 確認表示が出る。


 【南西海域第一海底線瞬断に伴う神港側制御網付随障害。初動分類として登録しますか。】


 指が、ほんのわずかに止まった。


 病院の男の声が、まだ耳に残っていた。海の障害でも、切られるのは海の人間やない。


「……登録します」


 自分の声は驚くほど平らだった。


 承認。


 画面の右上に、時刻が刻まれた。午前六時十四分。


 その瞬間、初動室の端末群が一斉に新しい分類コードへ切り替わる。広報文面が確定し、官房照会欄に自動返信が走り、神港側の対外表示も統一される。手続きだけが前へ進む音が、室内に小さく広がった。


 黒瀬がモニターを見たまま言う。


「東都から照会です。統合部門。向坂凌名義」


「まだ開くな」


「いいんですか」


「今は神港の便を縫え。午後を落とすな」


「了解」


 真下は病院便のログを閉じなかった。閉じると、それまでのことになる気がしたからだった。


 有村が広報案へ目を移しながら言う。


「真下、対策卓へ移り。神港側の搬送優先を組み直す。局所で出した以上、局所の顔で持たせるしかない」


「はい」


 彼は椅子を引いた。金属脚が床を擦る音が、妙に大きかった。


 窓の外では、港の朝がようやく輪郭を持ち始めていた。画面の端には、局所障害の表示だけが静かに残っていた。


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