第1章 持久戦、開始します
「婚約破棄、いつするんですか?」
私は紅茶のカップをソーサーに戻しながら、正面に座る第二王子レオニス・ヴァルドリヒに、至極穏やかに尋ねた。
彼は一瞬だけ目を細めて、それから例の、優しげでいてどこか冷たい微笑みを浮かべた。
「エレノア。君はいつもそんなことを言うね。僕たちは王命によって結ばれた仲だ。親が認めない限り、破棄などできるはずがないだろう?」
「王命で結ばれたのは私たちじゃなくて、あなたと『正妃候補』の誰かさんですよね? 私はただの、親が認めないからって押し付けられた『行き遅れの保険』ですよ」
「……随分と醒めたことを言うようになったね」
「醒めてるのは最初からですよ。転生してから6年、ずっとですよ?」
レオニスは小さく息を吐いて、窓の外を見た。そこには彼の私邸の庭園が広がっていて、ちょうど薔薇が満開の季節だった。
そしてその薔薇の奥、離れの二階の窓から、こちらをじっと見下ろしている女の影が見えた。
……あれが、長年の愛人であり、二人の間にすでに5歳と3歳の子どもがいるっていう、あの女性ですね。
私、よく見えてるんですよ。あの窓から。
だって私、オタク歴20年以上の元・独身OLですから。人の視線とか気配とか、異性と絡む空気とか、めちゃくちゃ敏感なんです。
「つまり王子殿下は、私との婚約を続けることで『愛人との間に子がいる事実』を隠し続けたいわけですよね?」
「……エレノア」
「いいんですよ。別に責めてるわけじゃないです。私、別に傷ついてませんから。最初から『この人、本気で私と結婚する気ゼロだな』ってわかってましたし」
レオニスは眉を寄せた。珍しく感情が顔に出ている。
「だったらなぜ、婚約破棄を申し出ない? 君の家はもうとっくに『破棄してくれ』と泣きついてきているだろうに」
「それはですね」
私はティーカップを持ち上げて、ふうっと息を吹きかけた。
「王子が『婚約破棄したい』って言い出したら、それはつまり『これまでずっと私に嘘をついてました』って白状するってことですよね?」
「…………」
「王太子派も、第二王子派も、貴族院も、全部『レオニス殿下は誠実なお方』『婚約者であるエレノア嬢を大切にされている』ってストーリーで回ってるじゃないですか。それを自ら壊すんですか?」
レオニスは黙った。
私は続けた。
「私、別にこの婚約が楽しいとか思ってないですよ? でもね、独身OL時代に散々『結婚しないの?』『いい人いないの?』って言われ続けてきた人間からすると、『婚約してる』って肩書きがあるだけで、ものすごく楽なんです」
「……楽?」
「そうですよ。親戚の集まりでも、職場の飲み会でも、同窓会でも、『あ、婚約してるから』って言えばそれで終わりなんです。しかも相手が王子ですから、誰も深追いしてこない。最高の言い訳ですよ、これ」
私はにっこり笑った。
「だから、私からは絶対に婚約破棄しません。王子が『もういい、破棄する』って言うまで、私はこの婚約者ポジションに居座ります」
「……本気か?」
「本気です。だって私、元・30過ぎ独身オタクですから。『この関係を終わらせたくない』とか『愛されたい』とか、そういうメンタル、もうとっくに死んでるんですよ」
レオニスの目が、初めて本気で揺れた。
「それに王子。あの離れの窓から、いつも私を見てる奥様(予定)がいるじゃないですか。あの方、そろそろ『正式に側室にしてくれ』って言い出してもおかしくない年齢ですよね? 子どもも二人いるし」
「……エレノア」
「だから私がここにいる限り、あの方は『側室』にもなれない。王妃にもなれない。ずっと『愛人』のままですよ?」
私は紅茶を一口飲んで、静かに言い放った。
「私が辞めるまで、この婚約は続きません。
私が『もういいや、疲れた』って言うまで、ずっとです」
レオニスはしばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと立ち上がり、私の方へ一歩近づいてきた。
「……君は、僕をどこまで追い詰めるつもりだ?」
私はカップを置いて、まっすぐ彼を見上げた。
「追い詰めるつもりなんてないですよ。ただ、捨て駒にされるのはごめんです。
だから、私が『はい、もういいです』って言うまで、
この茶番、続けましょうね」
その瞬間、離れの窓から見ていたはずの女性の影が、はっきりとこちらを睨んでいるのが見えた。
……あ、怒ってる。
「王家だって『元々させる気がなかった行き遅れ令嬢との婚約破棄を長びかせて、本当はさせるつもりなかった』って今から言ったら信用ガタガタですよね。どっちを取るかは王子様の自由ですよ。ちなみに前世の私は関東出身。京都貴族の遠回しな言い分は通じませんから」
「キョート貴族…異世界の貴族の名か。わかった、善処する…」
レオニスは私が自分の考えた婚約破棄作戦に全く動じないことを残念がっているようだった。




