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「そなたを側室にする気はない」と追い出された影の薬師は、三年間守り続けた主君に今さら執着されても困ります

作者: ゆうた

「そなたを側室にする気はない。今宵限りで城を出よ」


武田の若き当主・信景の声が、勝利祝いの宴の喧騒を切り裂いた。


私は静かに頭を下げる。艶やかな黒髪が畳に触れるほど深く。


(ああ、やっと解放される)


三年間。毒を防ぎ、病を癒し、影となって仕えた日々。その終わりが、こんなにもあっけないとは思わなかった。けれど、不思議と胸は凪いでいる。


「千鶴とやら、聞こえなかったのですか?」


隣に座る瑠璃姫が、妖艶な笑みを浮かべた。白い指先が信景の腕に絡みつく。今川から嫁いできたばかりの正室。豪奢な打掛から立ち上る香の匂いが、鼻につく。


「殿のお言葉、しかと承りました」


私は顔を上げ、微笑んだ。完璧な、従順な側仕えの笑顔。三年間で磨き上げた、波風を立てぬための仮面。


(この女、私が何をしてきたか知らないのだろうな)


先月の毒見。一昨年の疫病。すべて私が防いだ。けれど手柄は常に他の者のものとされた。信景様の目には、私など映っていなかったのだから。


「荷物はすでにまとめてございます」


瑠璃姫の目が一瞬、揺れた。


「まあ、用意がよろしいこと。まるで追い出されると分かっていたかのよう」


(分かっていたさ。あなたが来た日からね)


あの日、今川から輿入れしてきた瑠璃姫の侍女たちを見た瞬間、私は悟った。訓練された動き。油断なく周囲を窺う目。間者の匂い。


私がいては、邪魔なのだ。


「いいえ。側仕えの身、いつ暇を出されてもよいよう、常に備えておりました」


嘘ではない。だが真実でもない。


私は懐に忍ばせた小さな袋に触れた。朝倉家秘伝の薬種。八歳で家が滅び、祖母から密かに継承した薬学と忍びの技。これさえあれば、どこでも生きていける。


信景様が、初めて私を見た。


漆黒の瞳。左頬に走る刀傷。戦場では鬼神と恐れられる若き当主。けれど今、その目には何の感情も浮かんでいない。


当然だ。私は三年間、空気であり続けたのだから。


「……下がれ」


低い声。それだけ。


私は最後の一礼をした。額が畳に触れる。三年間で何百回と繰り返した動作。けれど、これが最後。


立ち上がり、畳を踏む。障子に手をかける。


振り返らない。


廊下に出た瞬間、夜風が頬を撫でた。冷たい。けれど、清々しい。


(さようなら、武田の城)


私は空を見上げた。満月が、煌々と輝いている。


自由の月だ、と思った。


「千鶴殿」


背後で声がした。振り返ると、白髪交じりの老臣——源三郎が立っていた。皺の刻まれた顔に、複雑な表情を浮かべて。


「……源三郎様」


「お見送りもできぬ不甲斐なさ、お許しください」


深く頭を下げる老臣に、私は首を振った。


「お気遣いなく。私はただの側仕えでございますから」


「只者ではない、と。私は存じております」


心臓が一瞬、跳ねた。


源三郎の目が、静かに私を見つめている。


「朝倉の姫君」


息が止まる。


「お祖母様の薬学の腕前、よく存じております。あなたがこの三年、何をなさっていたかも」


(知っていたのか、この人は)


「なぜ、殿に……」


「申し上げました。何度も」


老臣の声が、かすかに震えた。


「されど殿は、聞き入れてはくださらなかった」


私は小さく笑った。喉の奥で、苦いものが込み上げる。


「存じております。殿のお耳には、届かないのです。私の声は」


源三郎が何かを言いかけた。だが私は一礼して、歩き出した。


「お元気で、源三郎様」


振り返らない。


城門をくぐる。月明かりの道を歩き出す。


背後で、宴の音楽がかすかに聞こえる。笑い声。祝いの声。


私は唇を噛んだ。


(悔しくなんかない)


嘘だ。


本当は、少しだけ。ほんの少しだけ、期待していたのかもしれない。


「気づいてほしい」なんて、愚かなことを。


足を止める。振り返る。


武田の城が、月に照らされていた。高い石垣。厳めしい門。三年間、私が影として生きた場所。


「……さようなら」


今度こそ、振り返らない。


私は山道を歩き始めた。懐の薬種に触れる。左腕の火傷の痕が、かすかに疼いた。


幼い頃についた、消えない傷。その意味を、私はまだ知らない。


(朝倉の姫は、死なない)


月が、私の行く道を照らしている。


その先に何があるのか、まだ分からない。


けれど。


初めて、自分の足で歩いている。


それだけで、十分だった。



城を出て、三月が過ぎた。


「千鶴様、千鶴様!」


小夜の声で、私は薬草を摘む手を止めた。


「どうしたの、そんなに慌てて」


二つ結びの髪を揺らしながら、十二歳の少女が駆け寄ってくる。大きな黒目がちの瞳。痩せぎすの体。私が手作りした小袋を、首から大事そうに下げている。


「藤助さんが、また義足を壊しちゃって!」


呆れて笑う。あの人は本当に、じっとしていられない性分だ。


山間の廃寺。朽ちかけた本堂。割れた瓦。


三月前、私がたどり着いたとき、ここには何もなかった。野武士崩れの男と、親を亡くした子供たちが、飢えながら身を寄せ合っているだけだった。


今は違う。


本堂は修繕され、裏手には薬草園が広がる。五人の戦災孤児たちが駆け回り、元野武士の藤助が大声で笑っている。


小さな村。私が、作った村。


「姫さん、すまねえ!」


片足を引きずりながら、藤助が頭を掻いた。三十代前半。日焼けした肌に無精髭。戦で右足を膝下から失い、木製の義足をつけている。人懐こい笑顔が、眩しい。


「また無理をしたのでしょう」


「いや、屋根の修繕をな。そしたら足を滑らせちまって」


「屋根? あなた、足が……」


「片足でも登れるさ! 俺は元武田の足軽だぜ?」


呆れて溜息をつく。


(この人は本当に、危なっかしい)


けれど、その無鉄砲さに何度も救われてきた。この三月、村を作るために奔走してくれたのは藤助だ。


「藤助さんは姫さんがいないとダメなんだよ」


小夜が、私の袖を引いた。大きな瞳が、まっすぐに見上げてくる。


「俺もそう思う」


藤助が、真剣な顔で頷いた。


「姫さんがいなけりゃ、俺たちは野垂れ死にだった。あんたは俺らを人として扱ってくれた。だから俺の命は、あんたのもんだ」


「大袈裟ですよ」


「大袈裟じゃねえ」


藤助の目が、真剣だった。笑みが消え、剣胼胝だらけの大きな手を握りしめている。


「俺は戦で足を失って、武田に捨てられた。どこにも行く場所がなかった。死のうと思った」


「藤助さん……」


「でも姫さんが、俺の傷を手当てしてくれた。『生きてください』って言ってくれた。あの一言で、俺は生き返ったんだ」


私は何も言えなかった。


三月前。山道で倒れていた藤助を見つけたのは、偶然だった。膿んだ傷口、熱に浮かされた体。放っておけなかっただけだ。


「千鶴様は、すごいんだよ」


小夜が、藤助の言葉に続けた。


「お薬を作れるし、怪我も治せるし、お料理も上手だし……」


「それに、本物のお姫様だ」


藤助が、穏やかに微笑んだ。


「優しさも、強さも。本物だ」


(私が、本物?)


笑ってしまいそうになる。


三年間、影に徹し、存在を消し、誰にも気づかれないように生きてきた私が。


「……ありがとう」


それしか、言えなかった。


小夜が、嬉しそうに笑った。首から下げた小袋を、大事そうに握りしめて。


「ねえ、千鶴様」


「何?」


「千鶴様は昔、すごく怖いところにいたんだって。でも泣かなかったんだって」


心臓が、ぎゅっと締め付けられた。


「誰に聞いたの?」


「藤助さん」


藤助が、気まずそうに目を逸らした。


「……すまねえ、姫さん。酔った勢いで」


「いいのよ」


私は小夜の頭を撫でた。柔らかい髪。温かい体温。この子も、戦で両親と兄を亡くした。焼け出されたところを、私が保護したのだ。


「昔のことは、もう終わったから」


本当に、そう思う。


あの城での三年間。毒を防いだ夜。疫病の薬を調合した日々。誰にも気づかれず、誰にも感謝されず。


辛くなかったと言えば、嘘になる。


でも。


「今は、ここが私の居場所だから」


小夜の顔が、ぱっと輝いた。


「本当? 千鶴様、ずっとここにいてくれる?」


「ええ、もちろん」


「やった!」


小夜が飛びついてくる。細い腕が、私の腰に回る。


温かい。


(ああ、これが)


これが、欲しかったものだったのかもしれない。


誰かに必要とされること。誰かの居場所になること。


武田の城では、決して得られなかったもの。


「姫さん」


藤助が、真剣な顔で言った。


「近隣の村から、薬を求めて人が来るようになった。姫さんの噂が広まってる」


「そう」


「嬉しそうじゃねえな」


「……少し、怖いの」


正直に言った。


噂が広まれば、いずれ武田の耳にも届く。あの城に、また関わることになるかもしれない。


「大丈夫だ」


藤助が、力強く言った。


「俺がいる。この村の連中もいる。姫さんを守る」


「……ありがとう」


「礼はいらねえ。姫さんに助けられた恩を、返してるだけだ」


私は微笑んだ。


今日も、山間の小さな村は穏やかだ。子供たちの笑い声。薬草の匂い。澄んだ空気。


この平和が、いつまでも続けばいい。


そう願った、そのとき。


「姫さん! 大変だ!」


村の入り口から、男が駆け込んできた。


「武田の侍が……武田の侍が来た!」


私の手から、薬草がこぼれ落ちた。


(もう、見つかったの)


三月。たった三月の平和だった。


藤助が、私の前に立った。義足をものともせず、腰の刀に手をかけて。


「姫さん、俺が追い返す」


「待って」


私は深呼吸した。


(落ち着け、千鶴)


三年間、武田の城で生き延びた。毒も陰謀も、すべて乗り越えた。


今さら、何を恐れることがある。


「私が出ます」


「姫さん!」


「大丈夫よ」


私は微笑んだ。完璧な、穏やかな微笑み。


(さあ、何の用かしら)


村の入り口へ、歩き出す。背筋を伸ばし、顎を上げ。朝倉の姫として。


そこに立っていたのは、見覚えのある老臣だった。


「……源三郎様」


「お久しぶりでございます、千鶴殿」


源三郎が、深く頭を下げた。白髪交じりの髪。皺の刻まれた顔。三月前と変わらない、温厚さと鋭さが同居する表情。


「殿が、お呼びでございます」



「お断りします」


私は微笑んだまま、首を振った。


源三郎の顔が、苦渋に歪んだ。


「千鶴殿……」


「私はもう武田の者ではございません」


穏やかに、けれど毅然と。三年間で身につけた、波風を立てずに拒絶する術。


「ただ、薬が必要とあらば、どなたにもお分けいたしますわ」


源三郎が、息を呑んだ。


「殿の……殿のお体が、芳しくないのでございます」


(やはり)


予想はしていた。いや、確信していた。


瑠璃姫が来た日、私は気づいていた。あの女の侍女たちの目。訓練された動き。間者の匂い。


私がいなくなれば、誰が毒を見抜く?


「それは大変ですこと」


私は他人事のように言った。


「良い薬師をお探しになっては?」


「千鶴殿!」


源三郎の声が、悲痛に震えた。


「殿は……殿は毎晩、うなされておいでです。眠れぬと。あなたがいた頃は、眠れていたのだと」


心臓が、一瞬止まった。


(眠れていた?)


私が淹れていた薬湯。安眠の効果がある薬草を、密かに混ぜていた。気づかれないように、ほんの少しだけ。


あの人が、不眠に悩んでいることを知っていたから。幼い頃に母を亡くし、十六で父を暗殺で失い、誰も信じられなくなったあの人が、少しでも安らかに眠れるように。


(気づいていたの? いや、違う)


気づいていたのではない。失って初めて、その不在に気づいたのだ。


「私が調合した薬湯の配合は、城の薬師にお伝えしてあります」


「同じように作っても、効かぬと……」


「それは私の知ったことではありません」


冷たく言い放った。


小夜が、私の袖を引いた。不安そうな顔。


「千鶴様、怖い人?」


「いいえ、大丈夫よ」


私は小夜の頭を撫でた。


「この方は、昔お世話になった人」


源三郎が、小夜を見た。そして、私を見た。


「……この村の噂は、本当でございましたか」


「噂?」


「腕利きの薬師がいると。孤児を救い、村を作っていると」


私は肩をすくめた。


「大袈裟ですわ。ただ、できることをしているだけ」


「できること、ですか」


源三郎の目が、深い光を帯びた。


「三年間、城でなさっていたことと同じでございますな」


返す言葉がなかった。


「殿の毒を防いでいたのは、あなたでした」


「……存じ上げません」


「疫病の薬を調合したのも、あなたでした」


「私はただの側仕えでした」


「朝倉の姫君」


源三郎が、静かに言った。


「あなたの功績は、すべて記録しております。いつか、殿のお耳に届ける日のために」


息が詰まった。


(この人は、ずっと)


「なぜ……」


「あなたのお祖母様に、恩がございます」


源三郎が、微かに微笑んだ。


「朝倉が滅ぶ前、私は病に倒れました。あなたのお祖母様が、命を救ってくださった」


知らなかった。祖母が、この人を。


「その恩を、孫娘のあなたに返したかった。けれど、私の力では……」


「十分ですわ」


私は首を振った。


「源三郎様がいてくださったから、私は三年間、生き延びられました」


源三郎の目に、涙が浮かんだ。


「千鶴殿……」


「でも、城には戻りません」


私は、きっぱりと言った。


「この村の者たちが、私を必要としています。私も、この村が必要です」


源三郎が、深く頭を下げた。


「……承知いたしました。殿には、そのようにお伝えします」


「お願いします」


「ただ」


源三郎が、顔を上げた。


「瑠璃姫の件、ご存知でしょうか」


心臓が、跳ねた。


「……何か?」


「間者でございます。今川の」


(やはり)


「殿の体調不良は、毒によるもの。瑠璃姫の侍女が、食事に混ぜていたようです」


私は目を閉じた。


分かっていた。あの女の正体を。侍女たちの怪しさを。


「なぜ、私に?」


「あなたなら、解毒の方法をご存知かと」


「……」


「お願いでございます、千鶴殿。殿を救ってください」


私は空を見上げた。


青い空。白い雲。穏やかな風。


(救う、か)


三年間、私を見なかった人。私の声を聞かなかった人。私を追い出した人。


なぜ、救わなければならない?


「千鶴様」


小夜の声がした。


振り向くと、大きな瞳が真っ直ぐに見つめていた。


「千鶴様は、困っている人を放っておけないんだよね」


心臓が、ぎゅっと締め付けられた。


(この子は)


「藤助さんも、私たちも、千鶴様に助けてもらった。だから……」


小夜が、私の手を握った。小さな、温かい手。


「千鶴様が助けたい人は、助けていいんだよ」


涙が、こぼれそうになった。


「……解毒の薬を、お渡しします」


源三郎の顔が、輝いた。


「ただし、城には戻りません。薬を届けに行くだけです」


「それで十分でございます!」


私は溜息をついた。


(まったく、お人好しにも程がある)


内心で自嘲する。


でも、放っておけない。三年間、影から守り続けた人。その習慣は、簡単には消えない。


それが私の弱さであり、強さでもあるのだろう。


「準備をします。少しお待ちを」


私は薬草園へ向かった。


解毒の薬。調合は複雑だが、不可能ではない。朝倉家秘伝の知識が、ここで役に立つ。


(信景様)


三年間、影から守り続けた人。一度も、気づいてくれなかった人。


(今度も、きっと)


気づかないのだろう。私の想いにも、私の存在にも。


それでいい。もう、期待はしない。


私は黙々と、薬草を選び始めた。



武田の城は、変わっていなかった。


高い石垣。厳めしい門。行き交う侍たち。三月前、私が去った場所。


私は笠を深くかぶり、源三郎の後に続いた。


「千鶴殿、こちらへ」


案内されたのは、城の離れだった。人目を避けるためだろう。


障子を開ける。


薄暗い部屋。漂う薬の匂い。そして——


「来たか」


布団の上に、信景様が横たわっていた。


三月ぶりに見る顔。


(痩せた)


それが、最初の感想だった。


頬がこけ、目の下には濃い隈。あれほど威圧感のあった男が、こんなにも弱々しく見えるとは。左頬の刀傷だけが、かつての武将の面影を留めている。


「……お加減はいかがですか」


私は形式的に尋ねた。


「見ての通りだ」


信景様が、苦笑した。


「毎晩、眠れぬ。食事も喉を通らぬ。医者は何をしても効かぬと言う」


「毒ですわ」


私は端的に言った。


「瑠璃姫の侍女が、食事に混ぜていたのでしょう」


信景様の目が、鋭くなった。病んでいても、その眼光だけは衰えていない。


「知っていたのか」


「疑っておりました」


「なぜ言わなかった」


私は微笑んだ。


「申し上げても、殿のお耳には届きませなんだ」


信景様の顔が、強張った。


「……何のことだ」


「お忘れですか」


私は懐から、小さな包みを取り出した。


「三年前、殿の寝所で毒を防いだ夜。私は殿に申し上げました。『毒が盛られております』と」


信景様の目が、揺れた。


「殿は何と仰いました?」


「……」


「『気のせいであろう』と。一顧だにされませんでした」


私は包みを開いた。中には、白い粉末。朝倉家秘伝の解毒薬。


「一昨年の疫病。私が薬を調合しました。殿は何と仰いました?」


「……」


「『たまたま効いたのであろう』と。私の名前すら、お尋ねにならなかった」


信景様が、黙って私を見ている。漆黒の瞳が、初めて私を捉えている。


「すべて、他の者の手柄とされました。正室候補の姫君たちが、横取りなさったのです」


私は白い粉末を、湯に溶かした。


「私は三年間、影でした。殿のお目には映らぬ、ただの影」


湯気が、ゆらゆらと立ち上る。


「これが解毒の薬です。一日三回、七日間お飲みください。それで毒は抜けるでしょう」


私は茶碗を差し出した。


信景様は、動かなかった。


「……なぜ」


「はい?」


「なぜ、助けに来た」


私は首を傾げた。


「薬師ですから。困っている方がいれば、助けます」


「それだけか」


「それだけですわ」


嘘だ。本当は、放っておけなかっただけ。三年間、守り続けた人。習慣は、簡単には消えない。


「……俺は」


信景様が、ゆっくりと起き上がった。


「そなたを、見ていなかった」


「ええ」


「声を、聞いていなかった」


「ええ」


「すまなかった」


私は目を瞬いた。


(謝った?)


この人が?


「……謝られても、困りますわ」


「そうか」


「過去は変えられません。私はもう、城には戻りませんし」


「分かっている」


信景様が、茶碗を受け取った。その手が、震えていた。


「だが」


湯気の向こうで、漆黒の瞳が私を捉えた。真っ直ぐに。初めて、真っ直ぐに。


「そなたを、見たい」


心臓が、跳ねた。


「今度こそ、そなたを見たい」


何を言っているのだ、この人は。


「……意味が分かりかねますわ」


「俺も分からぬ」


信景様が、苦笑した。


「だが、そなたがいなくなってから、ずっと考えていた」


「何を」


「あの薬湯の味を」


私は絶句した。


「毎晩、思い出す。そなたが淹れてくれた薬湯。城の薬師に同じものを作らせても、同じ味にならぬ」


「それは……調合の問題ではなく……」


「分かっている」


信景様が、私を見た。真っ直ぐに。燃えるような、黒い瞳で。


「そなたでなければ、駄目なのだ」


私は、言葉を失った。


(何を)


(今さら、何を)


「戻ってこい、千鶴」


「お断りします」


即答した。


「私には村があります。待っている人たちがいます」


「そうか」


「ええ」


「ならば」


信景様が、茶碗を一気に飲み干した。


「俺が行く」


「は?」


「そなたの村へ。俺が通う」


「何を馬鹿な」


「馬鹿でも何でもいい」


信景様が、立ち上がった。ふらつく体。けれど、目だけは燃えていた。


「三年間、見ていなかった分を取り戻す」


「殿——」


「信景だ」


「は?」


「名前で呼べ。そなたは、もう俺の家臣ではない」


私は、呆然とした。


この人は、何を言っているのだ。


「……お薬を、ちゃんとお飲みください」


それだけ言って、私は部屋を出た。


廊下を歩く。心臓がうるさい。


(何なの、今のは)


分からない。


ただ、一つだけ分かることがある。


武田信景という男は、本当に不器用だ。


「千鶴殿」


源三郎が、追いかけてきた。


「殿は……」


「さあ。私には分かりかねますわ」


私は笠をかぶり直した。


「薬は七日分、お渡ししました。あとは、殿次第です」


「ありがとうございます」


源三郎が、深く頭を下げた。


私は城を出た。


山道を歩きながら、空を見上げる。夕暮れの空。茜色に染まる雲。


(通う、ですって)


馬鹿馬鹿しい。あの人が、本当に来るはずがない。戦と政に明け暮れる武将が、山奥の村に通うなど。


(きっと、熱に浮かされていたのだわ)


そう思うことにした。


けれど。


胸の奥で、何かが疼いた。


期待、ではない。多分。


「……馬鹿みたい」


私は小さく呟いて、歩き続けた。


村で、小夜たちが待っている。それだけで、十分だ。十分、なのだ。


本当に。



七日後。


信景様が、本当に来た。


「嘘でしょう」


私は思わず、そう呟いた。


村の入り口に、馬が一頭。その上に、見覚えのある長身の男。質素な旅装に身を包んでいるが、その佇まいは隠しようがない。


「来たぞ」


信景様が、馬から降りた。


顔色は、まだ優れない。けれど、目の光は戻っている。解毒の薬が効いたのだろう。


「なぜ」


「言っただろう。通うと」


「冗談だと思っていました」


「俺は冗談を言わぬ」


確かに。この人は、そういう人だった。不器用で、言葉足らずで、けれど嘘をつかない人。


「姫さん! 大丈夫か!」


藤助が、斧を手に駆け寄ってきた。義足をものともせず、私の前に立ちはだかる。


「この野郎、姫さんに何の用だ!」


「待って、藤助さん」


私は藤助を制した。


「この方は……」


「武田信景だ」


信景様が、堂々と名乗った。


「え」


藤助の顔が、凍りついた。


「た、武田の……殿様……?」


「そうだ。かつて、そなたも俺の足軽だったな」


「お、覚えて……」


「片足を失った後、捨て置いた。すまなかった」


藤助が、絶句した。


「な、何を……」


「千鶴に教わった」


信景様が、私を見た。


「謝ることの大切さを」


私は、言葉を失った。


(この人は)


本当に、変わろうとしている?


「千鶴様!」


小夜が、私の後ろに隠れた。大きな瞳が、不安そうに揺れている。


「怖い人?」


「怖くない」


私は小夜の頭を撫でた。


「この人は……」


何と言えばいいのだろう。


「千鶴の知り合いだ」


信景様が、膝をついた。小夜と目線を合わせて。


「おまえ、名前は」


「……さ、小夜」


「小夜か。千鶴の世話になっているのだな」


「う、うん……千鶴様は、すごいんだよ! お薬作れるし、怪我治せるし!」


「そうか。俺も、千鶴に命を救われた」


小夜の目が、きらきらと輝いた。


「本当?」


「本当だ。だから、礼を言いに来た」


私は呆然とした。


礼。三年間、一度も言われなかった言葉。


「……お気持ちだけで十分ですわ」


「十分ではない」


信景様が、立ち上がった。


「この村を見せてくれ」


「は?」


「そなたが作った村を。見たい」


私は、首を振った。


「お帰りください。殿にはお体を——」


「信景だ」


「……信景様には、お体を休めていただかなければ」


「様もいらぬ」


「無理です」


「では、俺もそなたを千鶴と呼ぶ」


「勝手になさってください」


「そうする」


信景様が、村の中へ歩き出した。


私は慌てて後を追った。


「待ってください! 勝手に——」


「ここが薬草園か」


信景様が、立ち止まった。


私が丹精込めて育てた薬草たち。様々な色と香りが、風に揺れている。


「……見事だ」


「当然ですわ。三年間、城でも育てていましたから」


「城で?」


「殿は……信景様はご存知なかったでしょうけれど」


信景様の顔が、曇った。


「……すまぬ」


「謝られても、もう過ぎたことです」


「だが——」


「信景様」


私は、真っ直ぐに見つめた。


「なぜ、来たのですか。本当の理由を」


信景様が、黙った。


風が、薬草を揺らす。甘い香りが、漂う。


「……分からぬ」


「分からない?」


「そなたがいなくなってから、ずっと考えていた」


信景様が、空を見上げた。


「なぜ眠れぬのか。なぜ食事が喉を通らぬのか。なぜ、あの薬湯の味ばかり思い出すのか」


私は、息を呑んだ。


「毒のせいだと思っていた。だが、毒が抜けても、同じだった」


信景様が、私を見た。


「そなたがいないからだ、と。ようやく気づいた」


心臓が、痛いほど鳴っている。


「……それは」


「俺は、そなたに執着している」


真っ直ぐな言葉。不器用で、ぶっきらぼうで。でも、嘘のない言葉。


「三年間、そばにいたのに、見ていなかった。聞いていなかった。今になって、後悔している」


「……」


「千鶴」


信景様が、一歩、近づいた。


「俺の正室になってくれ」


世界が、止まった。


「な——」


「瑠璃は間者として捕らえた。正室の座は空いている」


「待ってください、いきなり何を——」


「いきなりではない。三年間、考えるべきだったことを、今、言っている」


私は、後ずさった。


「お断りします」


「なぜだ」


「この村を、離れられません」


「——そうか」


信景様が、頷いた。意外なほど、あっさりと。


「ならば、待つ」


「は?」


「この村の者たちが安堵するまで。そなたがここを離れられるまで。待つ」


「いつになるか分かりませんよ」


「構わぬ」


「何年もかかるかもしれません」


「構わぬ」


「本当に——」


「千鶴」


信景様が、私の手を取った。大きな手。剣胼胝だらけの、武将の手。


「俺は、そなたを諦めぬ」


真っ直ぐな目。燃えるような、黒い瞳。


「何度でも通う。何年でも待つ。そなたが俺を見てくれるまで」


「……馬鹿みたい」


「そうかもしれぬ」


「本当に、馬鹿」


「そうだな」


涙が、こぼれた。


「三年間、待っていたのに」


「……すまぬ」


「一度も、見てくれなかったのに」


「すまぬ」


「今さら……今さら、そんなこと言われても」


「分かっている。だから、待つ」


信景様が、私の涙を拭った。不器用な、ぎこちない動き。


「そなたの心が、俺を許すまで」


私は、泣いた。三年間、堪えていた涙が、止まらなかった。


「……馬鹿」


「ああ」


「本当に、馬鹿」


「ああ」


信景様が、私を抱きしめた。強く。けれど、優しく。


「待っていてくれ、千鶴。必ず、そなたを迎えに来る」


私は、何も言えなかった。ただ、泣いた。三年分の涙を、この人の胸で。


遠くで、小夜の声がした。


「千鶴様、泣いてる……」


「大丈夫だ」


藤助の声。


「あれは、嬉し涙だ。多分な」


風が、薬草園を吹き抜けた。甘い香り。温かな腕。


私は、目を閉じた。


(ああ)


これが、欲しかったもの。ずっと、ずっと。


信景様の胸元で、私は小さく呟いた。


「……待っています」


「ああ」


「でも、すぐには許しませんから」


「分かっている」


「何年でも、苦しんでもらいますから」


「望むところだ」


私は、笑った。涙と一緒に。


これが始まりだ。三年間の影の終わり。新しい物語の、始まり。


——けれど、私はまだ知らない。


左腕の火傷の痕。それが示す、もう一つの秘密を。


懐に忍ばせた、古い手紙。城を出る日、祖母の形見の中から見つけた一通。


滅んだはずの朝倉家。その再興を告げる、亡き父の遺言。


「朝倉の血を引く者よ、この印を持つ者が現れたとき、我が隠した秘宝を託せ——」


物語は、まだ始まったばかりだった。



その夜。


信景様が去った後、私は一人、月を見上げていた。


「姫さん」


藤助が、隣に立った。


「あの男、本気だな」


「……そうみたいですね」


「姫さんは、どうしたい」


私は、少し考えた。


「分かりません。まだ」


「そうか」


藤助が、笑った。


「でも、悪い顔じゃねえな。今の姫さん」


「……そうですか」


「ああ。三月前より、ずっといい顔だ」


私は、小さく笑った。


「藤助さん」


「ん?」


「ありがとう」


「何がだ」


「この村を、一緒に作ってくれて」


藤助が、照れくさそうに頭を掻いた。


「礼なんていらねえよ。姫さんに恩を返してるだけだ」


「それでも」


私は、月を見上げた。


三月前と同じ、満月。けれど、今は違う。


あの夜は、自由の月だった。


今夜は——


「希望の月、ですね」


「何だそりゃ」


「独り言です」


私は微笑んで、小屋に戻った。


寝床に入る前、左腕の火傷の痕に触れる。


幼い頃、家が滅ぶ夜についた傷。その意味を、私はまだ知らない。


けれど、いつか。


いつか、この傷の秘密を解く日が来るだろう。


朝倉の姫として。薬師として。そして——


(信景様の、隣で)


その想いを、まだ口にはできない。


でも、いつか。


月明かりの中、私は静かに目を閉じた。


明日も、薬草の世話がある。子供たちの面倒を見なければ。藤助の義足も、また壊れるかもしれない。


そして、きっと。


あの不器用な武将が、また村を訪れるだろう。


「……馬鹿みたい」


呟いて、私は笑った。


三年間の影は、終わった。


これからは、光の中を歩いていく。


自分の足で。自分の意思で。


そして、いつか——誰かと、手を繋いで。


物語は、続いていく。

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