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テセウスの船

作者: 雨香
掲載日:2026/01/14

 儚久は、生まれつき体が弱かった。

 季節が一巡するあいだに何度も入退院を繰り返し、同年代の子どもたちが当たり前に通う学校という場所は、彼にとって窓越しに眺めるだけの世界だった。


 朝、母がカーテンを開ける音で目を覚ます。差し込む光はいつも同じなのに、今日も体は重く、胸の奥がひりつくように痛む。咳をすれば肺が悲鳴を上げ、少し歩くだけで息が切れた。

 医者は「無理をしないように」と言うが、無理をしなければ何もできなかった。


 病室のベッドの上で、儚久は何度も想像した。

 もし、普通の体だったなら。

 学校に行き、友だちと笑い合い、運動場を走り回り、夕焼けの中で汗を流すことができたなら。


 ――そんな願いを抱いたまま、彼は眠りに落ちた。


 その夜、儚久は奇妙な夢を見た。

 白でも黒でもない、色の定まらない空間に、自分は立っていた。足元も天井もなく、ただ静寂だけが広がっている。


 「やあ」


 背後から声がした。

 振り返ると、そこには“生物”としか言いようのない存在がいた。人の形に近いが、輪郭は曖昧で、皮膚のようなものが脈打つように揺れている。目と思しき部分は複数あり、それらが一斉に儚久を見つめていた。


 「……だ、誰……?」


 声が震えた。

 その存在は、ゆっくりと頭を下げた。


 「私は救命者。お前の命を救う者だ」


 「命……?」


 救命者は頷く。


 「お前の体は脆すぎる。このままでは長くはもたない。だから提案をしに来た」


 空間が歪み、儚久の目の前に、自分の体の映像が浮かび上がった。点滴につながれ、ベッドに横たわる、弱々しい自分。


 「お前の体を作り替えてやろう。病気にならない体に」


 一瞬、理解できなかった。

 だが次の瞬間、胸の奥で何かが弾けた。


 「……それって……僕、普通に生きられるってこと?」


 「そうだ。学校にも行ける。走れる。遊べる。息をすることに怯えずに生きられる」


 それは、儚久がずっと夢見ていた未来だった。

 代償や条件を考えるより先に、言葉が口を突いて出た。


 「お願いします」


 救命者は満足そうに頷いた。


 「契約成立だ」


 その瞬間、世界が砕けた。


 ――目を覚ますと、朝だった。


 病室の天井が見える。だが、違和感があった。

 体が、軽い。


 恐る恐る起き上がる。息が苦しくない。胸の痛みもない。

 立ち上がり、歩く。ふらつかない。心臓が悲鳴を上げない。


 「……嘘……」


 看護師が慌てて駆け寄り、医師が検査を繰り返した。

 結果は、すべて正常。


 数日後、儚久は退院した。


 それからの三か月は、夢のような日々だった。

 学校に通い、幼馴染の蒼依と並んで登校し、授業を受け、休み時間に笑った。

 走っても息が切れず、夜も咳に邪魔されることなく眠れた。


 救命者への感謝は尽きなかった。

 ――自分は救われたのだと、心から思っていた。


 だが、その感謝は、ある小さな疑問によって揺らぎ始める。


 ある日の帰り道、夕焼けに染まる自分の手を見つめながら、儚久はふと立ち止まった。


 「……この体……本当に、僕のものなのかな」


 見た目は同じ。

 声も、癖も、考え方も、病弱だった頃と何一つ変わらない。


 けれど、救命者は確かに言ったのだ。

 ――作り替えた、と。


 その言葉が、胸の奥で不気味に反響していた。


 違和感は、小さな棘のように心に刺さり続けた。


 最初は気のせいだと思おうとした。

 体が健康になったのだから、感覚が変わるのは当然だ。そう自分に言い聞かせた。


 けれど、ふとした瞬間に、その考えは崩れる。


 体育の授業で走ったあと、額に滲む汗を拭いながら、儚久は自分の呼吸音に耳を澄ませていた。

 乱れない。苦しくない。

 あれほど忌み嫌っていたはずの「普通」が、今はどこか他人事のように感じられた。


 ――前の僕なら、ここで倒れていた。


 その事実が、胸に奇妙な空白を作る。


 昼休み、教室の隅で弁当を食べながら、蒼依が無邪気に笑った。


 「儚久、最近ほんと元気だよね。前じゃ考えられなかった」


 「……うん」


 返事をしながら、儚久は自分の声を確かめるように喉に意識を向けた。

 声は変わっていない。

 それなのに、どこか借り物のような感覚が拭えなかった。


 夜、布団に入ると、疑問はさらに大きくなる。


 ――作り替えた、ってどういう意味なんだろう。


 骨も、血も、臓器も。

 全部、入れ替えられたのか。

 それとも、修復されたのか。


 もし、すべてが新しいものなら。

 今こうして考えている「僕」は、どこにあるのだろう。


 そんな思考を繰り返すうち、儚久は再びあの夢の世界に立っていた。


 色の定まらない空間。

 そして、救命者。


 「来たか」


 「……聞きたいことがある」


 儚久は、勇気を振り絞って言った。


 「あなたは、僕の体を作り替えたって言った。どこまで……どこまで変えたの?」


 救命者は、しばらく沈黙した。

 無数の目が瞬き、重なり合う。


 「必要な部分すべてだ」


 「それって……前の僕の体は、もう……?」


 「存在しない」


 はっきりとした答えだった。


 儚久の胸が、冷たくなる。


 「じゃあ……今の僕は、何?」


 救命者は一歩近づいた。


 「お前だ」


 「でも、体は違う」


 「同一性とは、何で決まる?」


 救命者の問いは、鋭く突き刺さった。


 「記憶か? 形か? 機能か?」


 儚久は答えられなかった。

 救命者は続ける。


 「お前の記憶は保たれている。思考も、感情も、連続している。それでも“自分ではない”と言うのか?」


 「……わからない」


 救命者は、どこか楽しげに言った。


 「それがテセウスの船だ」


 聞き覚えのある言葉だった。

 授業で習ったことがある。


 部品を一つずつ取り替えていった船は、果たして同じ船と言えるのか。


 「お前は、すべての部品を取り替えた。だが、航海は続いている。さて――お前は誰だ?」


 問いかけだけを残し、救命者は霧のように消えた。


 目覚めた儚久は、しばらく動けなかった。


 胸に手を当てる。

 鼓動は確かにそこにある。


 だが、その鼓動が「自分のもの」だと、以前のように信じられなかった。


 学校でも、違和感は増していった。


 友だちの輪に入って笑っていても、どこか一歩引いたところから自分を見ている感覚がある。

 鏡に映る顔を見て、「これは本当に僕なのか」と問い続ける。


 ――もし、心も少しずつ変わっていたら?


 その可能性が、恐ろしくなった。


 家に帰り、机に突っ伏して考え込む。

 答えは出ない。


 変わったのは体だけのはずなのに、

 「自分」という輪郭が、日に日に曖昧になっていく。


 儚久は、誰にもその不安を打ち明けられずにいた。


 儚久は、自分の体に触れる回数が増えたことに気づいていた。


 手首に指を当て、脈を確かめる。

 胸に掌を当て、心臓の鼓動を感じる。

 鏡の前で、まばたきの癖や、口角の上がり方を確かめる。


 ――同じだ。


 どれも、病弱だった頃の自分と変わらない。

 それなのに、確かめれば確かめるほど、不安は大きくなっていった。


 「……もし」


 小さく呟く。


 「もし、全部同じように作られてるだけだったら?」


 形も、反応も、記憶も。

 前の自分を完全に再現した“何か”だったら。


 その考えに行き着いた瞬間、背筋がぞっとした。


 学校では、以前できなかったことが次々とできるようになっていた。

 体育の持久走で最後まで走り切り、クラスメイトに肩を叩かれる。

 昼休みに外へ出て、鬼ごっこに混ざる。


 楽しい。

 確かに楽しい。


 だが、その楽しさを感じている自分を、どこか遠くから眺めている感覚があった。


 ――これは、本当に僕が感じている喜びなのか?


 放課後、校舎裏で一人、風に吹かれながら考える。


 前の体だった頃、儚久は「できない理由」を無数に持っていた。

 体が弱いから。

 倒れるといけないから。

 迷惑をかけるから。


 今は、その理由がすべて消えている。


 それなのに、今度は別の檻に閉じ込められている気がした。


 ――自分は、本物なのか。


 その夜、夢は見なかった。

 だが、眠りは浅く、何度も目を覚ました。


 暗闇の中で、天井を見つめながら思う。


 もし、あの救命者が言った通り、前の体は「存在しない」のだとしたら。

 前の自分は、どこへ行ったのだろう。


 消えたのか。

 それとも、今の自分の中に溶け込んでいるのか。


 答えは出ない。


 翌日、図書室でふと目に留まった本を手に取った。

 哲学書の棚に並ぶ、難しそうな文字。


 「同一性」「自己」「存在」


 その中に、「テセウスの船」という見出しを見つけた。


 ページをめくり、説明を読む。


 ――部品をすべて取り替えた船は、同じ船と言えるのか。


 儚久は、本を閉じた。


 「……まさに、僕じゃないか」


 だが、本には答えは書いていなかった。

 ただ、問いだけが並んでいる。


 儚久は、その問いを胸に抱えたまま、家路についた。


――――――――――――――――


 蒼依は、儚久の変化に最初に気づいた一人だった。


 それは体調のことではない。

 むしろ、健康になったはずの儚久が、以前よりも遠くを見ているように感じられたのだ。


 授業中、窓の外を眺める横顔。

 休み時間、笑っているのにどこか視線が合わない瞬間。

 まるで、自分の中に閉じこもってしまったような、そんな感覚。


 放課後、校門へ向かう道で、蒼依は思い切って声をかけた。


 「ねえ、儚久」


 「なに?」


 いつも通りの返事。

 けれど、蒼依は確信した。やはり、どこか違う。


 「最近さ……悩んでるでしょ」


 儚久の足が、わずかに止まった。


 「え……?」


 「前は、体が辛そうだった。でも今は元気なのに、なんか……元気じゃない」


 言葉を探しながら、蒼依は続ける。


 「無理して笑ってる感じがする」


 しばらく沈黙が流れた。

 夕暮れの風が二人の間を通り抜ける。


 儚久は俯いたまま、唇を噛みしめていた。


 ――話すべきか。

 ――話していいのか。


 こんな話をしたら、蒼依は困るかもしれない。

 信じてもらえないかもしれない。


 それでも、胸の奥に溜まり続けた疑問は、もう一人で抱えきれなかった。


 「……僕さ」


 声が、少し震えた。


 「この体が、本当に自分のものなのかわからなくなった」


 蒼依は驚いた顔をしたが、すぐに真剣な表情に変わった。


 「どういうこと?」


 儚久は、ゆっくりと言葉を選びながら話し始めた。

 夢の中で会った救命者のこと。

 体を作り替えたと言われたこと。

 そして、健康になったあとに芽生えた違和感。


 「見た目も、考え方も同じなのに……体だけが、全部別物なんだって思うと……」


 声が詰まる。


 「もし全部入れ替わってたら、僕はもう“僕”じゃないんじゃないかって……」


 言葉にした瞬間、胸の奥がひどく痛んだ。

 ずっと言えなかった本音だった。


 蒼依は、すぐには返事をしなかった。

 少し考え込むように空を見上げ、それから儚久の方を見た。


 「儚久さ」


 「うん……」


 「それって、前の体じゃなきゃ儚久じゃないって思ってる?」


 「……わからない。でも……」


 儚久は必死に言葉をつなぐ。


 「前の体は、弱くて、すぐ苦しくなって……でも、あれが僕だった。今の体は楽だけど、最初から僕じゃなかったみたいで……」


 蒼依は、ふっと小さく息を吐いた。


 「ねえ」


 「なに?」


 「儚久が、今ここでそうやって悩んでる理由って何だと思う?」


 「え……?」


 「体が変わったから? それとも……自分を大事に思ってるから?」


 その問いに、儚久は言葉を失った。


 蒼依は続ける。


 「もしさ、どうでもよかったら、こんなことで悩まないよ。『元気になった、ラッキー』で終わる」


 夕焼けが、二人を赤く染める。


 「でも儚久は、自分が自分であることをちゃんと考えてる。前の体のことも、今の体のことも、全部ひっくるめて」


 儚久の胸が、じんわりと温かくなった。


 「……でも、僕の体は作られたものなんだ」


 「それが何?」


 蒼依は、少し笑った。


 「私たちだって、昨日と今日で細胞は入れ替わってるよ。髪も伸びるし、考え方だって変わる」


 「……」


 「それでも、『昨日の私』と『今日の私』は同じ私でしょ?」


 儚久は、ハッとした。


 蒼依は、真っ直ぐに言った。


 「作り替えられようがなんだろうが、儚久のその心が変わらないなら、儚久は儚久のままだよ」


 その言葉は、儚久の中に静かに沈み込んだ。


 完全に理解できたわけではない。

 けれど、暗闇の中に、小さな灯りがともった気がした。


 「……ありがとう、蒼依」


 「どういたしまして」


 蒼依は照れたように言った。


 「一人で考えすぎないこと。困ったら、また話して」


 その言葉に、儚久は初めて、心から頷いた。


――――――――


 蒼依に悩みを打ち明けてから、儚久の世界は少しだけ変わった。


 不安が消えたわけではない。

 だが、「一人ではない」という感覚が、確かにあった。


 それでも、夜になると、思考は再び深いところへ沈んでいく。


 蒼依の言葉は、優しかった。

 だが、それは「他者から見た儚久」だ。


 ――じゃあ、僕自身はどう思っている?


 その答えは、まだ見つからなかった。


 週末、儚久は一人で町を歩いた。

 以前は体力がもたず、外出自体が少なかった場所。


 商店街には、新しい店ができていた。

 閉店した店には、シャッターが下りている。


 「変わってる……」


 町は確実に姿を変えている。

 それでも、この町が「別の町」になったとは感じない。


 河原に座り、流れる水を眺める。


 水は一瞬たりとも同じ形を保たない。

 それでも、川は川だ。


 「……じゃあ、僕は?」


 体は変わった。

 環境も変わった。


 けれど、過去を覚えているのは確かに自分だ。


 病室の匂い。

 夜中の咳。

 窓の外を眺める時間。


 それらを思い出すたび、胸が締めつけられる。

 その痛みは、作り物だろうか。


 ――違う。


 この痛みは、本物だ。


 痛みを感じ、それを嫌だと思い、それでも生きたいと願った。

 その連なりが、自分だ。


 家に戻り、日記を開く。

 以前は体調の記録ばかりだったページに、今は思考が並んでいる。


 「変わることは、失うことじゃない」

 「続いているかどうかが、大事」


 書きながら、少しずつ言葉が整っていく。


 その夜、夢の中で、救命者の影を見た気がした。

 だが、声は聞こえなかった。


 ――答えは、もう与えられない。


 そう感じた。


 答えは、自分で出すしかないのだと。


 翌朝、目覚めた儚久は、前よりも静かな気持ちだった。


 不安はまだある。

 だが、それを抱えたまま歩いていける気がした。


――――――――――――――――


 蒼依と別れた帰り道、儚久はゆっくりと歩きながら、彼女の言葉を反芻していた。


 ――心が変わらないなら、儚久は儚久のまま。


 その言葉は、単純で、だからこそ重かった。

 だが同時に、まだ腑に落ちきらない部分もあった。


 心とは何だろう。

 考え方か、感情か、それとも記憶か。


 もしそれらが、少しずつ変わっていったら。

 それでも、自分は自分でいられるのだろうか。


 部屋に戻り、机に座る。

 窓の外では、町の灯りが一つ、また一つとともっていく。


 その光景を見て、ふと気づいた。


 ――町は、ずっと同じ形じゃない。


 新しい建物が建ち、古い店がなくなり、道も広がっていく。

 それでも、この町は「この町」のままだ。


 「……そうか」


 小さく、呟いた。


 自分が変わったからといって、すべてが別物になるわけじゃない。

 変わりながら、続いていくものもある。


 その夜、儚久は再び夢を見た。


 あの、色の定まらない空間。

 救命者は、最初からそこにいたかのように佇んでいた。


 「答えは見つかったか?」


 「……少しだけ」


 儚久は、恐れずに一歩前へ出た。


 「あなたは、僕の体を全部作り替えたんだよね」


 「そうだ」


 「それでも、僕はここまで生きてきた時間を、ちゃんと覚えてる」


 救命者は黙って聞いている。


 「苦しかったことも、楽しかったことも、蒼依と笑ったことも……全部、つながってる」


 胸に手を当てる。


 「もし体が船だとしたら、部品は全部変わった。でも……航海は途切れてない」


 救命者の目が、僅かに細められたように見えた。


 「それがお前の答えか」


 「うん」


 儚久は頷いた。


 「僕は、変わった。でも、変わり続けてきたんだ。病弱だった頃も、今も」


 「それでも、悩んでいる」


 「悩めるってことは、考えてるってことだ。考えて、選んで、生きてる」


 儚久は、はっきりと言った。


 「だから、僕は僕だ」


 しばらくの沈黙のあと、救命者は静かに言った。


 「良い答えだ」


 「……え?」


 「お前がその結論に辿り着けたなら、それでいい」


 救命者の輪郭が、少しずつ薄れていく。


 「なぜ、僕を助けたの?」


 最後に、儚久は聞いた。


 救命者は、消えかけながら答えた。


 「救う価値があると判断したからだ。……それだけだ」


 その言葉を最後に、夢は終わった。


 目覚めた朝、世界は昨日と同じだった。

 けれど、儚久の見え方は少し変わっていた。


 学校へ向かう道。

 蒼依と並んで歩きながら、儚久は空を見上げる。


 雲は流れ、形を変え続けている。

 それでも、空であることに変わりはない。


 「ねえ、蒼依」


 「なに?」


 「ありがとう。昨日の言葉」


 蒼依は、不思議そうに首を傾げた。


 「急にどうしたの?」


 「ちゃんと考えた。まだ全部わかったわけじゃないけど……」


 儚久は、微笑んだ。


 「それでも、前に進めそうだ」


 蒼依は、少し照れたように笑う。


 「そっか。それならよかった」


 儚久は思う。

 これからも、自分は変わっていく。

 考え方も、価値観も、体も。


 けれど、変わらないものも、確かにある。


 それを見失わなければ、きっと大丈夫だ。


――――――――――――――――


 季節は、静かに移り変わっていった。


 儚久の生活は、以前とは比べものにならないほど忙しくなっていた。

 朝は蒼依と一緒に登校し、授業を受け、放課後は友だちと寄り道をする。

 疲れはするが、それは心地よいものだった。


 体が悲鳴を上げない。

 息をすることを恐れなくていい。


 それでも、儚久は忘れなかった。

 この体が「作り替えられたもの」だという事実を。


 だが、それはもはや恐怖ではなかった。


 ある日、学校の帰り道。

 川沿いの土手に腰を下ろし、夕焼けを眺めながら、儚久は蒼依にぽつりと言った。


 「ねえ、蒼依」


 「なに?」


 「もしさ……僕が、前の体のままだったら、今みたいに笑えてたかな」


 蒼依は少し考えてから答えた。


 「どうだろうね。でも」


 彼女は儚久の方を見て、はっきりと言った。


 「どんな体でも、儚久は儚久だったと思う」


 その言葉に、儚久は静かに頷いた。


 前の体は、確かに弱かった。

 苦しくて、痛くて、思うように動かなかった。


 それでも、あの体で感じた感情は本物だった。

 寂しさも、羨ましさも、希望も。


 そして今の体で感じる喜びも、達成感も、友情も、同じように本物だ。


 ――全部、僕の人生だ。


 帰宅後、儚久は机に向かい、ノートを開いた。

 そこには、以前書き殴った言葉が残っている。


 「自分とは何か」

 「体が変わったら、自分ではなくなるのか」


 その横に、ゆっくりと新しい言葉を書き足した。


 「変わり続けているからこそ、同じでいられる」


 テセウスの船。

 部品がすべて入れ替わっても、航海が続いているなら、それは同じ船だ。


 儚久は思う。

 もし航海をやめてしまえば、そこで初めて「別物」になるのだと。


 生きることをやめない限り、考え続ける限り、選び続ける限り、

 自分は自分であり続ける。


 その夜、儚久は久しぶりに夢を見なかった。

 救命者も、あの空間も、現れなかった。


 それでいい、と感じた。


 翌朝、窓を開けると、澄んだ空気が流れ込んでくる。

 深く息を吸い込み、吐く。


 ――生きている。


 その事実が、これほど自然に感じられたことはなかった。


 学校へ向かう途中、蒼依が笑いながら言う。


 「ねえ、将来やりたいこと、決まった?」


 儚久は少し考えてから答えた。


 「まだ。でも……」


 空を見上げ、続ける。


 「変わることを、怖がらずにいたい」


 蒼依は満足そうに頷いた。


 「それ、儚久らしいね」


 これから先、儚久はまた変わるだろう。

 考え方も、価値観も、きっと何度も。


 だが、変わらないものもある。

 誰かを大切に思う気持ち。

 生きたいと願う心。


 それらを見つけ、守り続けていけばいい。


 儚久は一歩踏み出す。


 変わり続ける世界の中で、

 変わりながら進む自分として。

作者の言葉

テセウスの船っていう哲学を題材にした物語なんですが、人の細胞って一年で全て変わると言われてるんですよ。果たして一年前の自分と今の自分は本当に同じなのでしょうかね。

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