テセウスの船
儚久は、生まれつき体が弱かった。
季節が一巡するあいだに何度も入退院を繰り返し、同年代の子どもたちが当たり前に通う学校という場所は、彼にとって窓越しに眺めるだけの世界だった。
朝、母がカーテンを開ける音で目を覚ます。差し込む光はいつも同じなのに、今日も体は重く、胸の奥がひりつくように痛む。咳をすれば肺が悲鳴を上げ、少し歩くだけで息が切れた。
医者は「無理をしないように」と言うが、無理をしなければ何もできなかった。
病室のベッドの上で、儚久は何度も想像した。
もし、普通の体だったなら。
学校に行き、友だちと笑い合い、運動場を走り回り、夕焼けの中で汗を流すことができたなら。
――そんな願いを抱いたまま、彼は眠りに落ちた。
その夜、儚久は奇妙な夢を見た。
白でも黒でもない、色の定まらない空間に、自分は立っていた。足元も天井もなく、ただ静寂だけが広がっている。
「やあ」
背後から声がした。
振り返ると、そこには“生物”としか言いようのない存在がいた。人の形に近いが、輪郭は曖昧で、皮膚のようなものが脈打つように揺れている。目と思しき部分は複数あり、それらが一斉に儚久を見つめていた。
「……だ、誰……?」
声が震えた。
その存在は、ゆっくりと頭を下げた。
「私は救命者。お前の命を救う者だ」
「命……?」
救命者は頷く。
「お前の体は脆すぎる。このままでは長くはもたない。だから提案をしに来た」
空間が歪み、儚久の目の前に、自分の体の映像が浮かび上がった。点滴につながれ、ベッドに横たわる、弱々しい自分。
「お前の体を作り替えてやろう。病気にならない体に」
一瞬、理解できなかった。
だが次の瞬間、胸の奥で何かが弾けた。
「……それって……僕、普通に生きられるってこと?」
「そうだ。学校にも行ける。走れる。遊べる。息をすることに怯えずに生きられる」
それは、儚久がずっと夢見ていた未来だった。
代償や条件を考えるより先に、言葉が口を突いて出た。
「お願いします」
救命者は満足そうに頷いた。
「契約成立だ」
その瞬間、世界が砕けた。
――目を覚ますと、朝だった。
病室の天井が見える。だが、違和感があった。
体が、軽い。
恐る恐る起き上がる。息が苦しくない。胸の痛みもない。
立ち上がり、歩く。ふらつかない。心臓が悲鳴を上げない。
「……嘘……」
看護師が慌てて駆け寄り、医師が検査を繰り返した。
結果は、すべて正常。
数日後、儚久は退院した。
それからの三か月は、夢のような日々だった。
学校に通い、幼馴染の蒼依と並んで登校し、授業を受け、休み時間に笑った。
走っても息が切れず、夜も咳に邪魔されることなく眠れた。
救命者への感謝は尽きなかった。
――自分は救われたのだと、心から思っていた。
だが、その感謝は、ある小さな疑問によって揺らぎ始める。
ある日の帰り道、夕焼けに染まる自分の手を見つめながら、儚久はふと立ち止まった。
「……この体……本当に、僕のものなのかな」
見た目は同じ。
声も、癖も、考え方も、病弱だった頃と何一つ変わらない。
けれど、救命者は確かに言ったのだ。
――作り替えた、と。
その言葉が、胸の奥で不気味に反響していた。
違和感は、小さな棘のように心に刺さり続けた。
最初は気のせいだと思おうとした。
体が健康になったのだから、感覚が変わるのは当然だ。そう自分に言い聞かせた。
けれど、ふとした瞬間に、その考えは崩れる。
体育の授業で走ったあと、額に滲む汗を拭いながら、儚久は自分の呼吸音に耳を澄ませていた。
乱れない。苦しくない。
あれほど忌み嫌っていたはずの「普通」が、今はどこか他人事のように感じられた。
――前の僕なら、ここで倒れていた。
その事実が、胸に奇妙な空白を作る。
昼休み、教室の隅で弁当を食べながら、蒼依が無邪気に笑った。
「儚久、最近ほんと元気だよね。前じゃ考えられなかった」
「……うん」
返事をしながら、儚久は自分の声を確かめるように喉に意識を向けた。
声は変わっていない。
それなのに、どこか借り物のような感覚が拭えなかった。
夜、布団に入ると、疑問はさらに大きくなる。
――作り替えた、ってどういう意味なんだろう。
骨も、血も、臓器も。
全部、入れ替えられたのか。
それとも、修復されたのか。
もし、すべてが新しいものなら。
今こうして考えている「僕」は、どこにあるのだろう。
そんな思考を繰り返すうち、儚久は再びあの夢の世界に立っていた。
色の定まらない空間。
そして、救命者。
「来たか」
「……聞きたいことがある」
儚久は、勇気を振り絞って言った。
「あなたは、僕の体を作り替えたって言った。どこまで……どこまで変えたの?」
救命者は、しばらく沈黙した。
無数の目が瞬き、重なり合う。
「必要な部分すべてだ」
「それって……前の僕の体は、もう……?」
「存在しない」
はっきりとした答えだった。
儚久の胸が、冷たくなる。
「じゃあ……今の僕は、何?」
救命者は一歩近づいた。
「お前だ」
「でも、体は違う」
「同一性とは、何で決まる?」
救命者の問いは、鋭く突き刺さった。
「記憶か? 形か? 機能か?」
儚久は答えられなかった。
救命者は続ける。
「お前の記憶は保たれている。思考も、感情も、連続している。それでも“自分ではない”と言うのか?」
「……わからない」
救命者は、どこか楽しげに言った。
「それがテセウスの船だ」
聞き覚えのある言葉だった。
授業で習ったことがある。
部品を一つずつ取り替えていった船は、果たして同じ船と言えるのか。
「お前は、すべての部品を取り替えた。だが、航海は続いている。さて――お前は誰だ?」
問いかけだけを残し、救命者は霧のように消えた。
目覚めた儚久は、しばらく動けなかった。
胸に手を当てる。
鼓動は確かにそこにある。
だが、その鼓動が「自分のもの」だと、以前のように信じられなかった。
学校でも、違和感は増していった。
友だちの輪に入って笑っていても、どこか一歩引いたところから自分を見ている感覚がある。
鏡に映る顔を見て、「これは本当に僕なのか」と問い続ける。
――もし、心も少しずつ変わっていたら?
その可能性が、恐ろしくなった。
家に帰り、机に突っ伏して考え込む。
答えは出ない。
変わったのは体だけのはずなのに、
「自分」という輪郭が、日に日に曖昧になっていく。
儚久は、誰にもその不安を打ち明けられずにいた。
儚久は、自分の体に触れる回数が増えたことに気づいていた。
手首に指を当て、脈を確かめる。
胸に掌を当て、心臓の鼓動を感じる。
鏡の前で、まばたきの癖や、口角の上がり方を確かめる。
――同じだ。
どれも、病弱だった頃の自分と変わらない。
それなのに、確かめれば確かめるほど、不安は大きくなっていった。
「……もし」
小さく呟く。
「もし、全部同じように作られてるだけだったら?」
形も、反応も、記憶も。
前の自分を完全に再現した“何か”だったら。
その考えに行き着いた瞬間、背筋がぞっとした。
学校では、以前できなかったことが次々とできるようになっていた。
体育の持久走で最後まで走り切り、クラスメイトに肩を叩かれる。
昼休みに外へ出て、鬼ごっこに混ざる。
楽しい。
確かに楽しい。
だが、その楽しさを感じている自分を、どこか遠くから眺めている感覚があった。
――これは、本当に僕が感じている喜びなのか?
放課後、校舎裏で一人、風に吹かれながら考える。
前の体だった頃、儚久は「できない理由」を無数に持っていた。
体が弱いから。
倒れるといけないから。
迷惑をかけるから。
今は、その理由がすべて消えている。
それなのに、今度は別の檻に閉じ込められている気がした。
――自分は、本物なのか。
その夜、夢は見なかった。
だが、眠りは浅く、何度も目を覚ました。
暗闇の中で、天井を見つめながら思う。
もし、あの救命者が言った通り、前の体は「存在しない」のだとしたら。
前の自分は、どこへ行ったのだろう。
消えたのか。
それとも、今の自分の中に溶け込んでいるのか。
答えは出ない。
翌日、図書室でふと目に留まった本を手に取った。
哲学書の棚に並ぶ、難しそうな文字。
「同一性」「自己」「存在」
その中に、「テセウスの船」という見出しを見つけた。
ページをめくり、説明を読む。
――部品をすべて取り替えた船は、同じ船と言えるのか。
儚久は、本を閉じた。
「……まさに、僕じゃないか」
だが、本には答えは書いていなかった。
ただ、問いだけが並んでいる。
儚久は、その問いを胸に抱えたまま、家路についた。
――――――――――――――――
蒼依は、儚久の変化に最初に気づいた一人だった。
それは体調のことではない。
むしろ、健康になったはずの儚久が、以前よりも遠くを見ているように感じられたのだ。
授業中、窓の外を眺める横顔。
休み時間、笑っているのにどこか視線が合わない瞬間。
まるで、自分の中に閉じこもってしまったような、そんな感覚。
放課後、校門へ向かう道で、蒼依は思い切って声をかけた。
「ねえ、儚久」
「なに?」
いつも通りの返事。
けれど、蒼依は確信した。やはり、どこか違う。
「最近さ……悩んでるでしょ」
儚久の足が、わずかに止まった。
「え……?」
「前は、体が辛そうだった。でも今は元気なのに、なんか……元気じゃない」
言葉を探しながら、蒼依は続ける。
「無理して笑ってる感じがする」
しばらく沈黙が流れた。
夕暮れの風が二人の間を通り抜ける。
儚久は俯いたまま、唇を噛みしめていた。
――話すべきか。
――話していいのか。
こんな話をしたら、蒼依は困るかもしれない。
信じてもらえないかもしれない。
それでも、胸の奥に溜まり続けた疑問は、もう一人で抱えきれなかった。
「……僕さ」
声が、少し震えた。
「この体が、本当に自分のものなのかわからなくなった」
蒼依は驚いた顔をしたが、すぐに真剣な表情に変わった。
「どういうこと?」
儚久は、ゆっくりと言葉を選びながら話し始めた。
夢の中で会った救命者のこと。
体を作り替えたと言われたこと。
そして、健康になったあとに芽生えた違和感。
「見た目も、考え方も同じなのに……体だけが、全部別物なんだって思うと……」
声が詰まる。
「もし全部入れ替わってたら、僕はもう“僕”じゃないんじゃないかって……」
言葉にした瞬間、胸の奥がひどく痛んだ。
ずっと言えなかった本音だった。
蒼依は、すぐには返事をしなかった。
少し考え込むように空を見上げ、それから儚久の方を見た。
「儚久さ」
「うん……」
「それって、前の体じゃなきゃ儚久じゃないって思ってる?」
「……わからない。でも……」
儚久は必死に言葉をつなぐ。
「前の体は、弱くて、すぐ苦しくなって……でも、あれが僕だった。今の体は楽だけど、最初から僕じゃなかったみたいで……」
蒼依は、ふっと小さく息を吐いた。
「ねえ」
「なに?」
「儚久が、今ここでそうやって悩んでる理由って何だと思う?」
「え……?」
「体が変わったから? それとも……自分を大事に思ってるから?」
その問いに、儚久は言葉を失った。
蒼依は続ける。
「もしさ、どうでもよかったら、こんなことで悩まないよ。『元気になった、ラッキー』で終わる」
夕焼けが、二人を赤く染める。
「でも儚久は、自分が自分であることをちゃんと考えてる。前の体のことも、今の体のことも、全部ひっくるめて」
儚久の胸が、じんわりと温かくなった。
「……でも、僕の体は作られたものなんだ」
「それが何?」
蒼依は、少し笑った。
「私たちだって、昨日と今日で細胞は入れ替わってるよ。髪も伸びるし、考え方だって変わる」
「……」
「それでも、『昨日の私』と『今日の私』は同じ私でしょ?」
儚久は、ハッとした。
蒼依は、真っ直ぐに言った。
「作り替えられようがなんだろうが、儚久のその心が変わらないなら、儚久は儚久のままだよ」
その言葉は、儚久の中に静かに沈み込んだ。
完全に理解できたわけではない。
けれど、暗闇の中に、小さな灯りがともった気がした。
「……ありがとう、蒼依」
「どういたしまして」
蒼依は照れたように言った。
「一人で考えすぎないこと。困ったら、また話して」
その言葉に、儚久は初めて、心から頷いた。
――――――――
蒼依に悩みを打ち明けてから、儚久の世界は少しだけ変わった。
不安が消えたわけではない。
だが、「一人ではない」という感覚が、確かにあった。
それでも、夜になると、思考は再び深いところへ沈んでいく。
蒼依の言葉は、優しかった。
だが、それは「他者から見た儚久」だ。
――じゃあ、僕自身はどう思っている?
その答えは、まだ見つからなかった。
週末、儚久は一人で町を歩いた。
以前は体力がもたず、外出自体が少なかった場所。
商店街には、新しい店ができていた。
閉店した店には、シャッターが下りている。
「変わってる……」
町は確実に姿を変えている。
それでも、この町が「別の町」になったとは感じない。
河原に座り、流れる水を眺める。
水は一瞬たりとも同じ形を保たない。
それでも、川は川だ。
「……じゃあ、僕は?」
体は変わった。
環境も変わった。
けれど、過去を覚えているのは確かに自分だ。
病室の匂い。
夜中の咳。
窓の外を眺める時間。
それらを思い出すたび、胸が締めつけられる。
その痛みは、作り物だろうか。
――違う。
この痛みは、本物だ。
痛みを感じ、それを嫌だと思い、それでも生きたいと願った。
その連なりが、自分だ。
家に戻り、日記を開く。
以前は体調の記録ばかりだったページに、今は思考が並んでいる。
「変わることは、失うことじゃない」
「続いているかどうかが、大事」
書きながら、少しずつ言葉が整っていく。
その夜、夢の中で、救命者の影を見た気がした。
だが、声は聞こえなかった。
――答えは、もう与えられない。
そう感じた。
答えは、自分で出すしかないのだと。
翌朝、目覚めた儚久は、前よりも静かな気持ちだった。
不安はまだある。
だが、それを抱えたまま歩いていける気がした。
――――――――――――――――
蒼依と別れた帰り道、儚久はゆっくりと歩きながら、彼女の言葉を反芻していた。
――心が変わらないなら、儚久は儚久のまま。
その言葉は、単純で、だからこそ重かった。
だが同時に、まだ腑に落ちきらない部分もあった。
心とは何だろう。
考え方か、感情か、それとも記憶か。
もしそれらが、少しずつ変わっていったら。
それでも、自分は自分でいられるのだろうか。
部屋に戻り、机に座る。
窓の外では、町の灯りが一つ、また一つとともっていく。
その光景を見て、ふと気づいた。
――町は、ずっと同じ形じゃない。
新しい建物が建ち、古い店がなくなり、道も広がっていく。
それでも、この町は「この町」のままだ。
「……そうか」
小さく、呟いた。
自分が変わったからといって、すべてが別物になるわけじゃない。
変わりながら、続いていくものもある。
その夜、儚久は再び夢を見た。
あの、色の定まらない空間。
救命者は、最初からそこにいたかのように佇んでいた。
「答えは見つかったか?」
「……少しだけ」
儚久は、恐れずに一歩前へ出た。
「あなたは、僕の体を全部作り替えたんだよね」
「そうだ」
「それでも、僕はここまで生きてきた時間を、ちゃんと覚えてる」
救命者は黙って聞いている。
「苦しかったことも、楽しかったことも、蒼依と笑ったことも……全部、つながってる」
胸に手を当てる。
「もし体が船だとしたら、部品は全部変わった。でも……航海は途切れてない」
救命者の目が、僅かに細められたように見えた。
「それがお前の答えか」
「うん」
儚久は頷いた。
「僕は、変わった。でも、変わり続けてきたんだ。病弱だった頃も、今も」
「それでも、悩んでいる」
「悩めるってことは、考えてるってことだ。考えて、選んで、生きてる」
儚久は、はっきりと言った。
「だから、僕は僕だ」
しばらくの沈黙のあと、救命者は静かに言った。
「良い答えだ」
「……え?」
「お前がその結論に辿り着けたなら、それでいい」
救命者の輪郭が、少しずつ薄れていく。
「なぜ、僕を助けたの?」
最後に、儚久は聞いた。
救命者は、消えかけながら答えた。
「救う価値があると判断したからだ。……それだけだ」
その言葉を最後に、夢は終わった。
目覚めた朝、世界は昨日と同じだった。
けれど、儚久の見え方は少し変わっていた。
学校へ向かう道。
蒼依と並んで歩きながら、儚久は空を見上げる。
雲は流れ、形を変え続けている。
それでも、空であることに変わりはない。
「ねえ、蒼依」
「なに?」
「ありがとう。昨日の言葉」
蒼依は、不思議そうに首を傾げた。
「急にどうしたの?」
「ちゃんと考えた。まだ全部わかったわけじゃないけど……」
儚久は、微笑んだ。
「それでも、前に進めそうだ」
蒼依は、少し照れたように笑う。
「そっか。それならよかった」
儚久は思う。
これからも、自分は変わっていく。
考え方も、価値観も、体も。
けれど、変わらないものも、確かにある。
それを見失わなければ、きっと大丈夫だ。
――――――――――――――――
季節は、静かに移り変わっていった。
儚久の生活は、以前とは比べものにならないほど忙しくなっていた。
朝は蒼依と一緒に登校し、授業を受け、放課後は友だちと寄り道をする。
疲れはするが、それは心地よいものだった。
体が悲鳴を上げない。
息をすることを恐れなくていい。
それでも、儚久は忘れなかった。
この体が「作り替えられたもの」だという事実を。
だが、それはもはや恐怖ではなかった。
ある日、学校の帰り道。
川沿いの土手に腰を下ろし、夕焼けを眺めながら、儚久は蒼依にぽつりと言った。
「ねえ、蒼依」
「なに?」
「もしさ……僕が、前の体のままだったら、今みたいに笑えてたかな」
蒼依は少し考えてから答えた。
「どうだろうね。でも」
彼女は儚久の方を見て、はっきりと言った。
「どんな体でも、儚久は儚久だったと思う」
その言葉に、儚久は静かに頷いた。
前の体は、確かに弱かった。
苦しくて、痛くて、思うように動かなかった。
それでも、あの体で感じた感情は本物だった。
寂しさも、羨ましさも、希望も。
そして今の体で感じる喜びも、達成感も、友情も、同じように本物だ。
――全部、僕の人生だ。
帰宅後、儚久は机に向かい、ノートを開いた。
そこには、以前書き殴った言葉が残っている。
「自分とは何か」
「体が変わったら、自分ではなくなるのか」
その横に、ゆっくりと新しい言葉を書き足した。
「変わり続けているからこそ、同じでいられる」
テセウスの船。
部品がすべて入れ替わっても、航海が続いているなら、それは同じ船だ。
儚久は思う。
もし航海をやめてしまえば、そこで初めて「別物」になるのだと。
生きることをやめない限り、考え続ける限り、選び続ける限り、
自分は自分であり続ける。
その夜、儚久は久しぶりに夢を見なかった。
救命者も、あの空間も、現れなかった。
それでいい、と感じた。
翌朝、窓を開けると、澄んだ空気が流れ込んでくる。
深く息を吸い込み、吐く。
――生きている。
その事実が、これほど自然に感じられたことはなかった。
学校へ向かう途中、蒼依が笑いながら言う。
「ねえ、将来やりたいこと、決まった?」
儚久は少し考えてから答えた。
「まだ。でも……」
空を見上げ、続ける。
「変わることを、怖がらずにいたい」
蒼依は満足そうに頷いた。
「それ、儚久らしいね」
これから先、儚久はまた変わるだろう。
考え方も、価値観も、きっと何度も。
だが、変わらないものもある。
誰かを大切に思う気持ち。
生きたいと願う心。
それらを見つけ、守り続けていけばいい。
儚久は一歩踏み出す。
変わり続ける世界の中で、
変わりながら進む自分として。
作者の言葉
テセウスの船っていう哲学を題材にした物語なんですが、人の細胞って一年で全て変わると言われてるんですよ。果たして一年前の自分と今の自分は本当に同じなのでしょうかね。




