10話
静まり返った森の中、血の匂いだけが生々しく空気に溶けている。
レイナはザガンの亡骸を前に、静かにリオンへ語りかけた。その声には、戦いを終えた高揚感など微塵もなかった。
「次の敵は、こいつらより遥かに厄介だ」
ヴァレリウスは金と権力で街を支配する男。
正面から挑めば、ギルドも衛兵も、街の全てが敵になる。レイナの言葉に、リオンは黙って頷いた。
二人の間に、もはや師弟の空気はない。同じ地獄を目指す、「共犯者」としての覚悟だけが共有されていた。
リオンは、静かに拳を握りしめた。
◇
フロンティアの街に戻った二人は、レイナが宿代わりにしている安宿の一室で作戦を練っていた。
「ヴァレリウスという男について、まずはお前も知っておけ」
レイナは、テーブルに置かれた水差しから乱雑に水を呷ると、重い口を開いた。
「表向きは、街一番の商会長。新人冒険者に金を貸し、孤児院に寄付もする人格者だ。街の誰もが奴を『フロンティアの善意』と呼ぶ」
「……だが、違うんだろう」
「ああ。その裏で、奴は『奈落の鱗』のようなゴロツキどもを使い、邪魔な人間を消してきた。奴にとって、この街の人間は全て、自分の盤上の駒でしかない。衛兵も、ギルドの上層部も、とっくに奴の金で飼い慣らされている。ザガンのような連中とは、敵の種類が違う。奴は、法と権力という鎧を着込んだ、この街そのものだ」
レイナは重苦しい口調で続けた。
「奴を社会的に失脚させるには時間がかかりすぎる。その間に私たちは消されるだろう。やるなら……一撃で心臓を抉るしかない」
「暗殺、か」
リオンの口から、澱みなくその言葉が出た。前世の自分なら、その響きだけで震えていたはずだ。だが、今の彼には、目的を達成するための、最も合理的な「手段」としか思えなかった。
「ああ。奴の息のかかった者たちが動く前に、だ」
二人の目的は、ヴァレリウスの暗殺に定まった。
翌日から、二人は別々に行動を開始した。
レイナはAランク冒険者としてのコネを使い、裏社会の情報屋と接触。ヴァレリウスの屋敷の場所、警備体制、そして数日後に街の有力者を集めた大規模なパーティーを主催するという情報を掴み取った。
一方、リオンは日中、商人として街を視察するヴァレリウスを遠くから尾行していた。
ヴァレリウスは、汚れた服の子供が駆け寄ってくれば、人の良い笑みを浮かべて頭を撫で、惜しげもなく銀貨を与えている。街の誰もが、彼を「フロンティアの善意」と呼ぶ理由がそこにあった。
(……反吐が出る)
リオンの目が、ヴァレリウスの表情の僅かな歪みを捉える。
子供に向けられる、完璧に計算された慈愛の笑み。
確信を求めて、リオンは意識を`気配察知 Lv.2`に集中させる。
ヴァレリウス本人からは、殺気も敵意も感じられない。だが、その背後に立つ護衛たちからは、常に周囲を警戒し、いつでも邪魔者を排除しようとする、研ぎ澄まされた殺気が微かに漏れ出ていた。
そして、その殺気の質は、ザガンが率いていた暗殺者たちのものと酷似していた。
主人の慈悲深い振る舞いとは裏腹の、その殺伐とした気配。その歪な組み合わせこそが、ヴァレリウスという男の本質を、何よりも雄弁に物語っていた。
(間違いない……こいつら、「奈落の鱗」の残党だ)
夜、二人は情報を持ち寄り、計画を完成させた。
「屋敷への潜入は不可能に近い。だが、お前には【影潜り】がある」
最大の好機は、数日後のパーティー。
レイナが招待客として正面から潜入し、屋敷の中心で騒ぎを起こして警備の注意を引きつける。その陽動の隙に、リオンが【影潜り】でヴァレリウスの私室に直接侵入し、暗殺する。
それが、二人が導き出した唯一の活路だった。
決行までの数日間、リオンは夜の街で【影潜り】の習熟に時間を費やした。
影に溶け、影と一体化する感覚。それは、物理法則から解き放たれ、世界の裏側を滑るような、全能感すら伴う不思議な感覚だった。ザガンから奪ったスキルは、アップデート能力との相乗効果か、驚異的な速度でリオンの身体に馴染んでいった。
その様子を屋上から見守っていたレイナは、改めて弟子の末恐ろしさに戦慄していた。
(自分の技と宿敵の技を融合させ、いとも容易く使いこなすか……。こいつは、一体どこまで進化するんだ……?)
そして、運命の夜が来た。
ヴァレリウスの屋敷は、まばゆい光と喧騒に包まれている。
レイナは気品のあるドレスに身を包み、招待客として堂々と正面ゲートを潜った。その鋼色の瞳は、獲物を定める狩人のように鋭く輝いていた。
同じ頃、リオンは屋敷から離れた建物の屋上から、ターゲットの私室の窓に映る影に狙いを定めていた。
(レイナが動くまで、あと数分……。俺のこの力が、唯一の鍵だ)
緊張と、わずかな高揚感。リオンは、合図と共に、自らの体を静かに影へと沈めていく。
しかし、ヴァレリウスの私室に姿を現した瞬間、リオンの全身を凄まじい衝撃が襲った。
「ぐっ……!?」
(なんだ……!?)
痛みよりも先に、驚愕が思考を支配する。
床に描かれていた魔法陣が、リオンの出現と同時にまばゆい光を放つ。高位の魔術師によって編まれた対侵入者用の魔法結界。
【影潜り】は完全に無効化され、リオンは激痛でその場に倒れ込んだ。
ゆっくりと、扉が開く。
そこに立っていたのは、人の良い笑みを浮かべたヴァレリウスだった。
「私の盤上へようこそ、"聖なる剣"殺しのお歴々。…いや、ネズミは一匹かね?」
彼の背後には、武器を構えた元「奈落の鱗」の護衛たちが、ずらりと並んでいた。




