三章 あやかし探し(2)
翌朝、まだ空が白む時間に晴は身支度を整えて外に出た。西宮神社の拝殿の前に立って、祭神に挨拶をする。守役が不在という話だったが、境内は掃き清められ、すがすがしい気に満ちている。
西宮の祭神は、〈くだん〉という名の予言獣だという。牛の腹より生まれて、ひとつ予言をすると瞬く間に亡くなるそうだ。神社の裏には厩がひとつあり、一頭の牛が大事に世話されている。
「短い間ですが、お世話になります」
頭を下げると、晴は五色の羅紗がかかった拝殿を見上げる。まもなくばあちゃんが起き出す気配がしたので、朝の炊事を手伝いに台所へ向かった。
ばあちゃんと夜に送り出されて、晴が最初に向かったのは四条烏丸だった。神御寮への依頼元である文部省の職員とまず落ち合う約束になっていたためだ。
「こちらが私どもでまとめた、現時点の神隠し事件の仔細です」
晴の年齢が若いことに水元と名乗った青年は驚いたようだが、丁寧な物腰は変えなかった。駅地下にあるコーヒー店のひとつに入る。水元さんは、神社の運営施策や神事に関する資料を収集する文部省・宗務課に勤めているらしい。神御寮の存在はつい最近知ったばかりだと苦笑した。
「うちの宗務課には、非公式ではあるんですが、人外と見られる案件の相談がときどき舞い込むんですよ。たいていはただの都市伝説や噂話に過ぎないのですが……、今回のような事件もまれにある。西宮さんにはこれまでも何度かお世話になっていたそうです」
「俺も神御寮が国の機関だってこと、最近まで知らなかったです」
「昔は天皇直属の機関として、京都にあったそうですよ。戦後の組織再編の際に、宗務関連ということで、ひとまとめにこちらに振り分けられたとか」
アイスコーヒーに入れたミルクを水元さんがマドラーでかき回す。晴の前にあるのはウーロン茶。翅は店の中にすら入ってこなかった。本当にあいつのこういうところは徹底している。地下街に並ぶ洋服店をのぞく幼馴染の後ろ姿へそれとなく目をやってから、晴は手元の資料をめくった。事前に蛇ノ井に渡されていた情報に、新たにひとつ事件が加わっている。
「一週間前の失踪事件ですね」
気付いたらしい水元さんが説明する。
「失踪したのは東山第二小学校の葉山翔くん、八歳。神社の境内で遊んでいたときにいなくなったそうです。連続失踪はこれで四件目になりますね」
「時間は?」
「時間、ですか」
「翔くんが失踪した時間ってもうわかっているんですか?」
「確か、午後六時過ぎだったかと」
逢魔が時だ、と晴は考える。あやかしには出没しやすい時間や場所があって、たとえば夕方の薄闇どきがそれにあたる。ざっと事件の概要を読むと、どれも時間に幅はあったが、夕方におさまる時間帯だった。もちろんこれだけで、あやかしが干渉していたと断定はできない。夕暮れはそもそも、ひとの犯罪も起きやすい。
「警察はどう考えているんでしょうか」
京都に来る前にネット上に上がっているニュースはチェックしたが、どれも「捜査は難航」「不審人物は見当たらず」となっていた。そうですね、とうなずく水元さんの顔も渋い。
「事件が起きた当初は子どもの誘拐事件として捜査していたようです。親や親族に恨みを抱いている人間がいないか――怨恨の線と、身代金目的の双方で。しかし事件発生後、ふた月が経っても、金銭の要求はない。怨恨の線もそれらしき人物がいなかったようですね」
「そのうち二番目、三番目の被害者も出た……?」
「四人の被害者に今のところつながりは見当たらないそうです。今は過去の犯罪歴を中心に当たっているそうですが――。あわせて宗務課にも相談があった」
水元さんの口ぶりだと、相談をしてきたのは警察の関係者らしい。報道されている以上の情報が資料にあるのはそのためだろう。
添付されている現場の写真も確認する。一番目の被害者は、自宅そばの公園。二番目は学校からの帰り道、通学路で。三番目がスーパーの車の中、目を離している隙に。最後が神社の境内。消えたのは子どもたちだけで、犯行を示唆する血痕やメッセージのたぐいはなし。
翅に訊いてみなければわからないものの、晴の目から見て明らかにあやかしの痕跡だとわかる写真はなかった。そもそも彼らは目に見えるかたちでこちら側に何かを遺すこと自体ほとんどない。ううん、と資料としばらくにらめっこをしてから、晴は顔を上げた。
「あの、最後の被害者の……翔くんが失踪した場所に行くことはできますか? ここには東山地区としか書いていないんですけど……」
「可能だと思います。ほかの場所もご覧になりますか?」
「できれば」
「わかりました。少しお待ちいただけますか」
断りを入れて、水元さんはスマホを片手に店を出た。宗務課の上司か、関係筋に連絡を取っているらしい。いくつかやり取りを済ませたあと、店内に戻ってきた水元さんは「大丈夫そうです」と微笑んだ。
「翔くんのケースは、椿山神社の境内ですね。現場検証はすでに終わっているそうで、何も見当たらないのでは、という話でしたが……」
「行ってみます」
「では、地図を。すいません、午後から別件がありまして、私は同行できないのですが」
「大丈夫です。俺と……相棒とで行くので。いろいろ、ありがとうございます」
スマホを手早く操作して、水元さんが椿山神社の地図を送ってくれる。東西線に最寄り駅があるようだ。
「それと私の連絡先です」
最後になってすいません、と詫びながら、水元さんが名刺を差し出す。肩書は宗務課の係長となっていた。
「常野くんは、この仕事をされて長いんですか?」
空になったグラスとトレイを返却口に戻しているときに、先ほどより軽い口調で水元さんが尋ねてきた。一時ためらったものの、晴は素直に首を振る。
「ぜんぜんです。じいちゃんの手伝いはずっとやっていたんですけど、ひとりで調査するんははじめてで。えと、相棒は優秀なんで、大丈夫だとは思うんですけど」
「そうなんですか。落ち着かれているので、経験が長いものかとばかり。……もしかしてまだ学生さんですか?」
「高校生です」
晴の見た目から予想はしていたようだが、水元さんは納得した様子で顎を引いた。実際のところ、守役は晴のような若手は少ない。西宮守は四十代という話だったから、水元さんにしても、いきなり若い代打が連れて来られたという印象なのだろう。
「私も出身はこちらではないんですが。赴任して二年になります。何かあれば、力になれることもあると思うので、遠慮なく連絡ください」
もしかしたら物慣れない晴を思いやってくれたのかもしれない。芯のこもった声で告げて、水元さんは四条烏丸の雑踏へ消えていった。地縁のない晴がスムーズに仕事ができているのは、たぶんこの地の守役――西宮守の人柄のおかげだろう。ありがとうございます、とここにはいない西宮守へも胸の中でお礼を言って、晴は洋服店のハンガーにかかった白ワンピースをじっと眺めている幼馴染に「行くぞ」と声をかけた。