二章 スターマイン(1)
早朝にもかかわらず、その沼は暗い静寂に包まれていた。澱んだ水面は決して光を中へ通さない。通称、「てふてふ沼」。常野神社の宝物庫の裏にひっそり広がる沼は今、ロープのたぐいが張られて、ひとは近づけないようになっている。昔、この沼に母子が転落する事件があったためだ。
ぱん、ぱん
朝のしじまに柏手が響く。
沼のほとりの祠に新しい酒を供えた晴は、一礼をしてきびすを返した。
*
「京都で連続神隠し事件だってよ」
食後のほうじ茶を啜りながら新聞をめくって、照が言った。朝の常野家である。おとといから夏休みに入ったため、晴もいつもよりのんびり朝食を取っている。ちゃぶ台に並んでいるのは、豆腐とわかめの味噌汁、ごはん、きのうの残りの煮物。ごはんの上に佃煮を乗せていた晴は、聞き慣れない言葉に眉をひそめた。
「神隠し?」
「子どもが次々失踪してるらしい。犯人は未だ不明。あんまり鮮やかに消えていくもんで、ついた名前が『現代の神隠し』」
「胡散臭いなあ……」
そういえば、お昼のワイドショーでもそんな話が取り上げられていた気がする。一般人の大半は神やあやかしといったものを信じていないのに、不思議なことが起こるとそれらのしわざのように考えるのはなんだか割りに合わないかんじがする。
まあなあ、と照が苦笑いをした。
「しかし真偽はともかく、こりゃあ担当区域の守役が調査に駆り出されているかもしれんな。京都だと……、確か西宮だったか」
「西宮?」
「うちと同じで古い家だよ。だが、当代守役が確か先月、事故で倒れたんじゃなかったか」
「おにーちゃーん」
先にごはんを食べ終えていた空が、髪留めとブラシを持って居間に駆けこんできた。
「ねねちゃんと遊ぶから、三つ編みして!」
「おまえ最近、三つ編みばっかじゃん」
「だってふたつ結びは子どもっぽいから嫌なんだもん」
「はいはい」
待ちきれない様子で空が晴の膝に座って、背を向ける。子どもらしいまだ細い髪を梳いて左右に編んでいく。毎日リクエストされるせいで、今では数分とかからない。
「おにいちゃんは今日学校?」
休みの日はTシャツにジーパンでいることが多い晴だが、今日はきちんと制服を着ている。首を傾げた空に、「ちがう」と晴は言った。
「俺は神御寮に行ってくんの」
「ええ、それって東京? おみやげ買ってくる?」
「いいなあおまえは。気楽で」
はあと嘆息した晴に、照が豪快な笑い声を上げた。
「びびってんなよ、お兄ちゃん。やっぱりじいちゃんがついていってやろうか?」
「いいよ、じいちゃん電車の乗り換えとか下手じゃん。すぐ迷子になっちゃうし」
「うるせえな」
先年、脳梗塞で倒れた照は、今ではすっかり持ち直して日常生活を送れているけれど、右脚だけは杖なしでは歩けなくなった。照の手伝いをしていた晴が守役を継いだのも、それがきっかけだ。もともと高校を出たら継ごうと思っていたから、少し前倒しになったくらいの気持ちだけども。
「はるちゃん。おじいちゃん、空ちゃん、おはようございます」
遅起きの翅がまだ眠たげな顔で居間へ現れた。訳あって翅は五年前から屋敷で晴たちとともに暮らしている。唯一の家族だった母親も死別しており、翅には身寄りがなかった。
「わあ、翅ちゃん、かわいい!」
翅のビーズのバレッタでアップにされた髪を見て、空が目を輝かせた。
「おにいちゃん、わたしも翅ちゃんと同じ髪型がいーいー」
「空は髪の長さ足んないだろ。もうちょっと伸びたらな」
「えー」
「はい、完成。かわいいかわいい」
頭に手を置くと、空はちょっとむくれて三つ編みの端をいじってから、そのうちまんざらでもなくなってきたらしく、笑みをこぼした。自分の妹ながら、単純なところは好ましい。
「ありがとう、おにいちゃん」
「帽子と傘忘れんなよ」
「はあい」
ぱたぱたと軽やかな足音を立てて、空が帽子を取りに行った。
「晴」
抽斗から照が財布を出した。千円札を二枚、晴に渡す。
「これでみやげでも買ってけ。……磐によろしくな」
返事を晴はしなかった。ただ眉根を寄せただけである。見ていた翅が苦笑して、「行きましょうか、はるちゃん」と言った。
「わあー、デート日和だねえ」
ころころと機嫌よくわらって、翅は白日の道を歩き出す。庭から出したチャリンコに晴はまたがった。今日の目的地は、神保町にある神御寮本部。蛇ノ井からの呼び出しのためである。ついでに、先日雨乞いの儀式で挨拶を交わした〈ゆうぎょ〉さんの名を〈まろうど〉として登録する仕事もある。
「あっ、〈ゆうぎょ〉さんだ。こんにちは―」
晴の自転車の後部座席に座った翅が、石垣を見上げて挨拶をする。〈ゆうぎょ〉さんのほうも挨拶を返してくれたとうれしそうに翅が言った。
最寄りの駅に着くと、電車をいくつか乗り換えて神保町にたどりつく。神御寮本部は、雑居ビルの一角に入っているらしい。当然広大な敷地に神社よろしく立っているものだと思っていた晴は肩透かしを食らう気分だった。
「なんだか普通のビルだねえ」
七階建てくらいだろうか。注意しなければ見落としそうな入口から中に入ると、エレベーターの横に案内板があり、そのうちの地下一階と五階、六階が「KGR事務局」になっていた。
「KGRって……」
「KAMIGORYOUの略かなあ?」
ふたりでしばし首を傾げ、階数ボタンを押す。エレベーターから下りると、普通のオフィスと同じように正面に受付があった。
「みどりちゃん」
受付の女性に見覚えがあって、晴は瞬きをする。ときどき蛇ノ井に随行している女性で、確か「みどりちゃん」と呼ばれていた。
「あら、晴くん。いらっしゃい」
「どうしてここに?」
「普段はこっちの事務をしてるのよ。翅ちゃんもこんにちは」
「……こんにちは」
ごく自然に声をかけてきたみどりちゃんを上目遣いに見やり、翅はよそよそしく挨拶を返す。翅が心をゆるす人間はごく少数だ。晴たち常野家の家族。例外として蛇ノ井。それだけ。あやかしとはすぐに仲良くなるのに、人間を相手にすると晴の背にそろそろと隠れてしまう。翅の様子に苦笑して、みどりちゃんは受付簿をひらいた。
「今日は? 御寮官へ用事?」
「まーぶる……蛇ノ井御寮官に呼ばれて。今日の二時にって話だったんですけど」
「ちょっと前の会議が長引いちゃってるみたいねえ。中で待ってる?」
「それなら、先に御寮名簿の登録を済ませときます」
御寮名簿とは、まろうどたちの名が記された名簿で、管理は神御寮がしている。今回の〈ゆうぎょ〉のように、新たなまろうどを迎えたとき、守役は必ず御寮名簿へ登録をしなければならない。
「じゃあ、地下の御寮図書に行くといいわ。会議が終わったら呼ぶから」
「ありがとうございます」
みどりちゃんから入退室用のカードをもらって、地下に降りる。表のリーダーに通すと自動扉が開いた。広がった光景に、わ、と晴は息をのむ。二階分の吹き抜けに、所狭しと本棚が並んでいた。中央の照明がほどよい明るさで木の床を照らしている。中のカウンターに女子大生くらいの司書さんがいて、こんにちは、と気さくに声をかけられた。
「御寮名簿の登録?」
「えと、はい。俺、やり方とかよく知らなくて……」
これまで、まろうどへの挨拶や登録は照がやっていた。
「はじめての方なんだねえ。じゃあ座って」
赤いセルフレームの眼鏡をかけた司書さんは人懐っこく微笑むと、カウンター越しに席を勧めた。ネームプレートには空木と書かれている。わあ、と司書さんを見つめた翅が胸の前で手を組み合わせる。
「赤と黒の金魚さんだあ……」
「赤いほうは〈心眼魚〉、黒が〈転写魚〉。赤で読み取り、黒で書き記すしくみだね。雲外鏡、出してくれる?」
空木は筆を取ると、晴が差し出した鏡の上にもう片方の手をかざした。鏡面に映った一対の金魚。宙を泳いだ赤い金魚が鏡に沈み込み、空木の手に絡みついたもう一匹がぱしゃんとひれを動かすのが見えた。白かった紙にみるみる四つ首の魚の姿と、晴には読めない文字が書き出される。
「まろうどは、ひとに恵みと災厄の両方をもたらす存在。だからこそ、誠意をもってお迎えをしなければね。交わした名前は、まろうどと縁を結んだしるし。まろうどたちの所在と名前を記録することは、神御寮の大事な仕事のひとつなんだよ」
にっこり笑って、空木は「うーん、それにしてもかわいい」と〈ゆうぎょ〉を眺めて呟いた。墨のまだ乾かない紙に懐紙を置く。
「時間があるなら、中を見ていくといいよ。守役なら、この図書館は好きに使ってよいから」
「御寮名簿って、俺も見られるんですか?」
「もちろん。まろうどの記録をたどるのは、調査の基本だよ。保存状態が悪い本は、書庫に置いてるけど、言ってくれれば出すし」
この図書館は空木が切り盛りしているらしい。「何か調べたいことがあるの?」と尋ねた空木に、歯切れ悪く晴はうなずいた。
「たぶん記録とか、あまりないと思うんですけど……」
「対象の名前は? わかれば、一緒に調べるよ」
「一度自分で探してみます」
「そう。じゃああたしはここにいるから、わからないことがあったら気軽に聞いて」
みどりちゃんからの連絡はまだなかった。晴は身長以上の高さがある書架を仰ぐ。隣に立つ翅が、わああ、と声を上げた。
「すごいねえ。こんなにたくさん、お客さんが来てるんだねえ」
「おまえはそのへん好きに歩いてて」
「はるちゃんは?」
「俺は見たい名簿があるから」
翅と別れ、A、B、C……と書架に掲示されたアルファベットをたどる。晴が探しているのは、『T』。
『落ちたんだ』
『沼に。境内の裏の』
『てふてふ沼に』
TYOUTYOU〈てふてふ〉。
和綴じになった一冊の本に指があたる。取り出して中をひらくと、もともとあった記録に加え、「所在不明」の走り書きがされていた。予想どおりの記述だ。
――〈てふてふ〉は蝶の姿をしたあやかし。千年間で出没記録は四度。直近では百八年前、常野で出没。三名の失踪者を出したあと、当時の常野守によって沼底に封じられる。五年前、封印を破り逃亡。
「今をもって所在は不明である、とね」
印字された説明を背後から別の声が読み上げる。骸骨じみた長身の影――蛇ノ井だった。今日も目に痛いマーブル頭に、柳色の着物をあわせている。
「やあ、晴くん。お待たせしたねえ、ようやっと会議が終わりましたよ」
「なんでみどりちゃんじゃなくて、おまえが呼びに来るんだよ」
「お手洗いのついでですよう。あの部屋、辛気臭くて嫌いなんですよねえわたし」
あっけらかんと笑う蛇ノ井に半眼を寄越し、御寮名簿を戻す。カウンターに頬杖をついて、翅は何かと戯れていた。人間嫌いの翅が空木さんと進んで話すことはなさそうだから、たぶん空木さんに憑いた金魚たちとおしゃべりをしているのだろう。こちらに気付いた翅が駆け寄ってくる。
「はるちゃん。翅も行こうか」
「……いいよ。俺ひとりで」
「じゃあ金魚さんたちと待ってるね。はるちゃん、喧嘩はなしね」
ぐっと両手でこぶしをつくって励まし、翅は晴たちを送り出す。御寮官が集まる間は五階の最奥にあるらしい。雑居ビルの細い廊下を進んでいくと、そこだけ透かし彫りが入ってやたらに年季のあるドアが現れた。