一章 雨乞い(3)
秋の豊穣を願うための雨乞い神事は昔から七月に常野神社で行われてきた。
かけまくもかしこき
とこののかみのやしろの
おおまえに――
照のように普段から神職装をしない晴も、今日ばかりは浄衣と呼ばれる白い狩衣をつけて、したためた祝詞を読み上げる。常野女神をお招きすると、一礼をして晴は桟敷に戻った。
とんてんしゃんしゃん
からりと晴れ渡った天に頭を振り上げたのは、三体の龍。龍頭をつけた舞い手は毎年、町内会の子どもたちから選ばれる。重い頭を振ってたどたどしく舞う子どもたちに、観客からときどき歓声が沸いた。
とんてんしゃんしゃん
太鼓の拍子にあわせ、龍たちが頭を揃えて足を踏む。終盤に入ると、龍頭の白鬚を振り乱した激しい舞が行われるけど、今はまだ足を揃えて、緩やかに手を振っている。
こめかみから伝った汗を拭って、晴は全体が見渡せる神楽殿の前に移った。
「ふふ、龍さんの踊り、かわいいねえ」
同じようにひとの輪から離れた場所で眺める翅がのんびり呟いた。
「あの子たちが地面を踏むたびに、ふわ、ふわって光が舞うの」
ふつうのひとよりも少し色素の薄い灰色の双眸を晴は見つめた。常野守の血筋に生まれついたにもかかわらず、まろうどの姿が見えず、声を聞くこともできない晴に対して、翅は常野の歴史をみてもずば抜けている、と言われるほどのよい目と耳を持っていた。晴に見えないものが翅にはたくさん見える。まろうどたちの姿、声、常野の地に絶間なく降り注いでいるのだという光。そこはどんなに賑やかでうつくしい世界なんだろう。晴には想像もつかない。……その代償として、翅は「ふつうの生活」を失ってしまったのだけども。
「はーるちゃん?」
立ったまま、ぼんやり考え事にふけっていた晴は、こちらをのぞきこむ翅の顔に「わっ」と声を上げた。
「どうしたの?」
「ええと、……なんでもない」
「終わりには女神さまにもう一回祝詞あげなくちゃだよー? だいじょうぶ?」
「平気だってば」
「はるちゃん祝詞が下手くそだからなあ。ごはんやお掃除は上手なのにね。――あっ」
ころころと澄んだ声で失礼なことを言っていた翅がふと瞬きをする。龍頭の角のあたりをじっとうかがう目に、細い月が映り込む。なにかを見ているときの翅の顔だ。晴も青空の下の龍頭に目を凝らすけれど、変化は感じ取れない。ただ、にわかに湧いた雨雲が空を覆い、ぽつんと雨粒が地面に射した。桟敷から腰を浮かせた照が晴のほうへちらりと目配せを送る。
「何かいるのか」
さっと雨が降り始める。屋根のある場所を探し始めた観客を横目に、微動だにしない幼馴染に尋ねる。翅は軽く顎を引いた。
「四つ首のお魚さんだよ。通り雨にまぎれてやってきたのが龍頭の角に落ちてしまったみたい」
三体の龍頭のうちのひとつを指差して、翅が言った。とんてんしゃんしゃん。太鼓の拍子に乗っていた足取りがひとりだけずれ始める。狂う。徐々に。最初は苦笑気味に見守っていた大人たちも、不安そうに顔を見合わせた。
「賢人?」
止めようと手を差し伸べた母親に、龍頭が突進する。
「晴!」
照の声を聞く前に、晴は神楽へ走っていた。母親を半ば突き飛ばして、無理やり龍頭の前に割り込む。腹のあたりに頭突きをくらって、尻もちをついた。悲鳴が上がる。ちょうど常野山へ雷が落ちて、轟音が響き渡った。転んだはずみに腕を切ったらしい。にわかに滲んだ傷口にすんと龍頭の鼻を寄せて、相手が頭をもたげた。
「〈めいこん〉……」
くぐもった声は、子どもの声帯でありながら男でも女でもない、老成した響きがある。
「めいこん、の、こども」
「翅」
腕を振って、晴は龍頭のかぶりをつかんだ。
「どこにいる?」
「右の角の上。絡みついているから落とさないように気を付けて」
翅のほっそりした指が金の彩色がほどこされた角を差す。晴は首にかけている鏡を手繰り寄せた。普段は曇ってなにもののも映さない雲外鏡は、龍頭へ向けるとにわかに晴れ、角に絡んだあやかしの姿を映し出す。姿を暴かれたあやかしがひっと身を縮めた。
「やさしく」
翅は言った。
「こわがっているから、おびえさせないで」
こういうときの翅の声は柔らかな水のようだ。息を整えて、晴は龍頭に左手を添える。遠巻きに照がうなずくのが見えた。
「俺は今代の常野守。晴といいます」
まずは挨拶。
幼い頃に照が教えてくれた。名を明かすのはこちらから。異界からやってきた客人たちに敬意を忘れてはいけない。心をこめて名乗りを上げる。そして。
「あなたのお名前は?」
名を問う。それがまろうどたちとの関係の築き方。ひとと何も変わりはしない。大事なのは、同じだと思えること。怯えは相手に伝播する。誠意をこめて挨拶をなさい。
緊張が背を這う。視線を少し横にやると、腰をかがめた翅が頬を横に引っ張っているのが見えた。顔がこわい。という意味らしい。
「……お名前は?」
なんだか気が抜けてしまって眦を緩める。縮こまっていた黒い靄がぽんっと膨らんだ。角に絡みついていた影が霧散する。
「消え……!?」
驚いてあたりを見回す。とたんに翅の笑い声が立った。
「恥ずかしがりやさんなんだねえ。お名前は〈ゆうぎょ〉さん。〈ゆうぎょ〉さんだって」
くるんと腕を広げて舞う翅の頭上で、暗雲が晴れていく。濡れそぼった龍頭が晴の胸にもたれかかってきたので、慌ててかぶりものを取った。
「賢人!」
賢人くんのおかあさんが憔悴した様子で膝をつく。龍頭の中から現れた賢人くんの顔を見て、はー、とふたりで同時に肩を下ろした。すやすやと穏やかな寝息を立てる賢人くんが晴の胸に頭を乗せていたからだ。
*
「ご迷惑をおかけしました……!」
ねぼけまなこの賢人くんを連れて、おかあさんが頭を下げる。雨乞い神事は龍頭の舞こそ途中で中止になってしまったものの、晴が祝詞を奉納して無事終わった。龍頭の異変は賢人くんがねぼけていた、ということで皆納得したようだ。ひとりきょとんとしている賢人くんは少しかわいそうだったけれど。
「龍頭のかぶりものも! 壊れてしまって……。あの、直すのにかかる費用とかあったら、教えてください」
角の折れた龍頭に気付いたおかあさんが恐縮した様子で肩をすぼめる。御心配なく、と杖をついた照はからりと笑って首を振った。
「これくらいうちの晴が直します。それよりも」
照は賢人くんのほうへ視線を向けた。一時であれ、あやかしに憑依されていた賢人くんの身体が心配だ。さっき簡単な清めはしたし、照いわく、わるいものは憑いていないとのことだったけれど。
「賢人くんを叱らないでやってください。賢人くんの舞があんまりうまかったから、神さんが混ざりたくなってしまっただけですよ」
照の言葉を冗談だとおかあさんは受け取ったようだ。ありがとうございます、と顔を綻ばせて、もう一度こちらに頭を下げた。
「はるちゃん」
おかあさんが荷物をまとめている間、目をこすっていた賢人くんがふと思いついたように駆け寄ってきて、晴の浄衣の袖を引っ張った。
「あのさ俺、変な顔の魚の夢見たー」
「へえ、どんなやつ?」
「なんかね、四つ首があって。どの首も好き勝手動くから、どうしたらいいかわからなくなっちゃったんだけど、はるちゃんが助けてくれたよ」
「そっか」
歯を見せて笑う賢人くんの頭に手を置いて、晴は視線の高さを合わせた。
「来年も龍頭舞やってくれる?」
「うん!」
大きく手を振って、賢人くんはおかあさんと神社の石段を下っていった。談笑するふたりとちょうど坂をのぼってきた翅がすれちがう。乱れ舞う黒髪を押さえて翅は賢人くんを見たが、賢人くんが翅に声をかけることはなかった。目を伏せて、翅は後ろ手に腕を組む。
「はーるちゃん」
サンダルを鳴らして翅が晴のもとへ走ってくる。当たり前のように差し伸ばされた翅の右手に晴は左手を重ねた。
「お仕事、ご苦労さま。はるちゃんの奥さんは、少しはお役に立てた?」
「〈ゆうぎょ〉さんを見つけたのはな」
「それだけー?」
翅は不服そうに唇を尖らせる。橙色の稜線を描く山の端を並んで見上げ、何かを思いついたように晴の顔をのぞきこんだ。
「旦那さま? じゃあ、かわいい奥さんにご褒美のスマイルをください」
「なんだよご褒美って」
「だーって、はるちゃん、〈ゆうぎょ〉さんにはにこーってしたのに、翅にはいつもぶすってしてるんだもん。かわいくなーい」
「あれは〈ゆうぎょ〉さんを安心させたかったからだろ」
「ねえ、わらって、わらってはるちゃん。にこーって。子どもの頃はたくさんわらってくれたじゃない?」
頬に手をあてて、にーって、と示した翅を晴は見やった。小さな頃の幼馴染の声がころころと脳裏に響く。わらう幼馴染の顔を見ていたくて、だけど見ていられなくて、結局視線をそらした。
「嫌だ」
「えー、なんでー?」
むう、と口をへの字に曲げた翅が晴を追いかける。夕焼けの広がる空の下、長い影が伸びる。微かな遠雷の音が西の端で聞こえた。
常野翅。十六歳。
俺の同い年の幼馴染で、常野女神が取り決めた俺の「妻」。翅と離縁をすることが今の俺の切実な願いなのだった。
*
てん、てん、てん、と跳ねたゴムボールが子どもの手から離れる。古びた神社の境内でひとり遊んでいた子どもは、茂みの向こうに飛び出したボールを小さな足で追いかけた。ぴかぴかの黄色がお気に入りのゴムボール。どこへいってしまったんだろう。きょろきょろとあたりを見まわしてから、枝に引っかかったボールを見つけてほっと相好を崩す。
「あった……」
光と闇の境界線。
残照で赤く染まった地面にたたずむ子どもは、ボールを取ろうと暗がりへ一歩足を踏みだした。
てん、てん、てんっ
ボールが跳ねるのにも似た音が背後で立つ。
てん、てん、てんっ
子どもは瞬きをして顔を上げた。
「だあれ?」
尋ねた子どもに、暗闇からぬっと現れた白い狐面が首を傾げる。
「だあれだ?」
てん、てん、てん、と跳ねたボールが赤い地面を転がっていく。子どもの影は跡形もなくそこから消え失せていた。