終章 再び、夏
〈てふてふ〉。
一説に黄泉女神の眷属の顕現した姿、ともいわれる蝶のかたちのあやかし。直近の記録では、九年前の夏に常野で、その後京都鴨川、東京神保町で出没し、日蝕とともに常野で消滅。あとには九年前に失踪した常野翅(12)と京都鴨川で失踪した平田等(35)が発見された。平田等は児童誘拐事件の容疑者として逮捕。その後証拠不十分のため、不起訴処分となり釈放。常野翅は昏睡状態のまま、東啓大学付属病院に収容される――。
「晴くん」
呼びかける声に気付いて、晴は〈てふてふ〉に関する書物を閉じた。書架から顔を出した男は、在りし日のマーブル頭からこの数年はパッションピンクの長髪に変わっている。
「蛇ノ井御寮官」
「君に御寮官とか言われると、首の後ろのあたりがむずむずしてくるねえ」
「じゃあパッションピンク」
「……口が減らなくて何よりだよ」
書物をもとの場所に戻すと、晴はカウンターに行儀悪く腰を掛ける男を見下ろした。
「今日はどうしたんですか、御寮官」
「ちょうど駅に向かうところだったんだけどねえ、君の姿を見かけたからさ。調べものかい?」
「いや、今日は〈まろうど〉の登録に来ただけ」
書見台の椅子に置いていたリュックを取って、司書の空木から雲外鏡を返してもらう。桜の意匠が彫られたそれを首にかけると、いつものようにTシャツの下に入れた。空木に礼を言い、蛇ノ井と連れ立って外に出る。熱気がむっと押し寄せ、七月の強い日差しがビルのあいまから射した。
「常野守の仕事のほうはどうだい?」
「最近は空も手伝ってくれてる。守役のこといろいろ知りたいんだって」
「いやはや、すっかり板についてしまったねえ。常野守」
苦笑し、「もう四年になるのか」と蛇ノ井は呟く。青に変わった横断歩道を歩き出す。アスファルトを照り返す夏の陽のまぶしさに晴は手をかざした。
「君、今年でいくつになるのさ」
「もうすぐ二十一」
「まったくひとの子はこれだから。気付いたらでっかくなってて、かわいげがないんですよねえ」
「あんたこそ、いったい何者なんだよ……」
顔を覆ってさめざめと泣くふりをしてみせる蛇ノ井に晴は横目をやった。蛇ノ井と出会ってもうだいぶ経つけれど、この男の見た目はちっとも変わらない。
「それは内緒かな。人間、ひとつやふたつ秘密があったほうが面白いじゃないか。まあ、わたしは君のひいじいさんも、そのまたひいじいさんも知っているくらいの年齢だということだけ教えてあげよう」
「むちゃくちゃ年寄りってことな」
「ざっくりまとめてくれたねえ」
このあたりはいつ来ても、ひとも車の通行量も多い。広告塔の並ぶビルのあいだにはぽっかり白い月が架かっている。蛇ノ井がサングラスのブリッジを押し上げた。
「翅ちゃんはどうだい?」
「相変わらずだよ」
「目を覚まさない女の子をまだ待っているのか。君って昔から一途なんだか馬鹿なんだかわからないよねえ……」
「覚ますよ」
リュックのバンドを肩にかけ直しながら、晴は言った。
「約束したから。目覚ますよ」
「そうかい」
肩をすくめ、蛇ノ井は薄く口元に笑みをはいた。
「あのとき、何故〈てふてふ〉が翅ちゃんや平田等を返したのかは、未だに謎でね。結界が破られて、〈てふてふ〉があらぶったときにはわたしももうだめかと思っていたから」
「俺が落ちたのは、あちら側……だったのかな」
「そうかもしれない。〈てふてふ〉は翅ちゃんの絶望を引き金に目覚めたあやかしだ。翅ちゃんの〈こわいもの〉に対する気持ちが〈てふてふ〉にこちら側での力を与えていたともいえる。君が五年前の翅ちゃんの心をすくって〈こわいもの〉が消えたから、〈てふてふ〉もまたこちら側での姿を失って消えたのかもしれないね」
「……白い蝶の姿。俺も見えたよ」
瞼裏によみがえった残像をつかの間想い、晴は神保町駅の前で止まった。
「じゃあ俺は電車だから」
「大学かい?」
「いや、今日はおやじたちと約束してて。家族で墓参り」
「そう、磐くんや照くんによろしく。次は阿闍梨餅をもってそちらへ行くよ」
「……お茶、用意しとく」
まわりくどく、待っている、という意味の言葉を口にした晴に、くつくつと咽喉を鳴らして笑い、蛇ノ井は近くに止まっていたタクシーに乗り込んだ。ウィンカーを出したタクシーが発進するのを見送って、晴は地下道へ続く階段を下りる。電車をいくつか乗り継いで常野に戻る頃には、正午を過ぎていた。
「おにいちゃん、おそーい!」
常野家の墓は、まちが見渡せる山際の高台にある。家の前にチャリンコを止めると、手桶を持った空と照、磐が待っていた。
「わるい。思ったより時間かかっちゃって」
「はい、おにいちゃん水持って。お花は私が持っていくから」
小学六年生になった空はきびきびと指示を出すと、先頭に立って坂道をのぼりだした。常野山のふもとにある参道は、両脇に青々と落葉樹が茂っているおかげで、心地よい静けさに包まれている。しばらく歩くと、視界が開け、常野のまちが見渡せた。桜の大樹の下に、いくつかの墓石が寄り添うように並んでいる。
「おばあちゃん、おかあさん。久しぶりに四人そろいましたよー」
手入れのされた墓石の前にかがんで、空が夏用の菊を挿す。
ここには晴の家以外にも、いくつかの墓がある。たとえば、何かの理由で家の墓に入れなかったひと、あるいは弔う親族がいなかったひと。そういったひとたちを常野神社が引き受けて、常野女神のもとにかえられるように弔いをしているのだ。
空が腕いっぱいに抱えた菊をひとつひとつ、それぞれの花挿しに生けていく。結刀自、と彫られた墓石の前で晴は足を止めた。それは翅の母親、結子さんが眠る墓だった。磐が柄杓ですくった水をかける。晴もそれにならった。
「翅ちゃんをおなかに宿したとき、結子さんはニ十歳。ちょうど今のおまえくらいの歳だった」
ぽつりと呟いた磐を晴は見やる。結子さんと磐は学校の先輩と後輩の関係だったというが、磐が結子さんの話をするのは初めてのことだった。
「悩んだすえ、ひとりであの子を生んだ。狭い街だから、噂はすぐに広まる。実家を出て、知り合いもいない街で働きながら翅ちゃんを育てて。限界だったんだと思う。――晴。ひとの正気と狂気の境は曖昧だ。ほんのわずかなことでどちらにでも傾く。俺も、おまえだってな」
磐のかけた水が白菊の花弁をやわく弾く。水滴が草の上に舞った。
「翅ちゃんは一生、結子さんをゆるす必要はない。だけど、おまえは覚えていてやれ。翅ちゃんを生んだ母親のこと。ここに来るたび、ちゃんと思い出してやってくれ」
おかあさん。
小さな女の子が繋いだ母親の手を引っ張る。うきうきと、目をいっぱいに輝かせて。
おかあさん。きれいなお魚さんがいたんだよ。
「うん。忘れない」
常野山の中腹から見晴らす街は、夏のみどりに染まっている。空のあおと山のみどりが接して、その間からきらきらと光がこぼれるかのようだ。風の気配。大地の脈動。いのちのにおい。晴は目を細めた。
たん・たん・たたん
そのときスマホが震えて、一件のメッセージを受信した。画面をタップして内容を確かめた晴は、みるみる顔色を変えて手桶を地面に置く。照と磐と空にメッセージの内容を話して、ふもとまでの坂道をひとり駆け下りる。一度は戻したチャリンコを引き、バスが時折行き交うだけの市道に出た。ペダルを思いきり踏む。自転車が加速して、息がどんどん上がっていく。
東啓大学付属病院の白い建物を仰いだときには、汗でTシャツがしとど濡れていた。駐輪場に自転車を止め、エスカレーターを駆け足でのぼり、ナースステーションで手続きを取ってからいつもの病室へ。勢いよく扉を開いた。まばゆいひかりが目の前を白く染める。
ちょうど看護師は席を外していたらしい。カーテンが翻る窓際のベッドに眠る少女がいた。すぅすぅと淡い寝息を立てている。激しく打ち鳴る心臓をぎゅっと左胸をつかんで落ち着かせながら、晴は少女のかたわらに立った。意を決して顔を上げる。
「翅」
長い睫毛が震えて、色素の薄い眸が晴を映す。玻璃めいた眸にひかりの波がよぎり、すっと涙が伝った。
「はるちゃん」
……ああ。応えなくちゃって思うのに、咽喉がくっついたみたいに言葉が出てこない。きみに話したいことがたくさんあったはずなのに、聞きたいこともたくさんあったはずなのに、今は何も。細い嗚咽がこぼれそうになって眉根を寄せ、ねぼうしすぎだ、と悪態をつく。
「おやくそくは、」
寝起きの少し枯らした声で翅が呟いた。
「まだ間に合うかなあ?」
翅ね、翅ねえ。
はるちゃんのお嫁さんになりたい。
ゆびきりげんまんの約束だよ。
「ああ」
笑みをこぼして、晴はまみどりの光にふちどられた指先に指を絡めた。
「おはよう、翅」
――そして、夏がはじまる。
完




