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冥婚の少年  作者:
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七章 日蝕(3)

 夜明けの拝殿は、凍てた静寂で張りつめている。糊のはった浄衣に白の袴をはいた晴は一礼をすると、拝殿に入って正座した。御簾の向こうには、常野女神の依代である鏡が祀られている。ちらほらと粉雪が舞う朝だった。拝殿内には今、晴ひとりしかいない。


「常野此花女神」


 そういえば、こんな日だったと思い出す。晴が常野守を継ぐことを女神の前で誓約したのも、こんな静かな朝だった。拝殿に座すとき、あるいは常野山を見上げるとき、晴はいつもおおいなるものを仰ぐような気持ちに駆られる。それは恐ろしいことでもあったし、同時に不思議な安堵を、見えなくとも見守られているという安堵をいつも晴にもたらした。


「常野此花女神」


 再度呼びかけて、晴は深く頭を下げた。


「五年前、縁を結んでくれてありがとう」


 燃え盛るみどりの残像を鏡の向こうに透かし見る。ゆびきりげんまん、と歌う子どもたちの姿。うそついたら、はりせんぼん、のーます。


「無駄にしないから。必ず翅を見つけるから」


 息を吐いて、顔を上げる。


「おねがい。見守っていて」


 ゆび、きった。


 


『いよいよ西側から太陽の食が始まりました。太陽全体が隠される中心食は、十一時三十分頃始まる予定です』 


 携帯ラジオから日蝕の中継が聞こえている。 年の終わり、晦日にあたる十二月三十日。常野地方でも空は雲ひとつなく晴れ、太陽が燦然と輝いていた。


「晴くん、準備はいいね?」


 てふてふ沼には今、蛇ノ井たちの編んだ結界が張り巡らされている。ひとたび〈てふてふ〉が現れれば、捕えることのできるものだ。万一のときのために、沼のほとりに待機する御寮官の姿も見える。


「太陽が月の影に覆われるわずかな時間。常野女神の加護は途切れ、〈てふてふ〉はこの地に侵入を果たします。それが〈てふてふ〉を捕える最後のチャンスだ」

「わかってる」


 時計を確認する。太陽が完全に隠れる食既まであと少し。常野地方で十一時三十八分に始まる食既は、その後四分ほど最大を保ったまま推移して終わる。おそらく〈てふてふ〉が現れるのはその四分の間だ。

 磐に貸してもらった雲外鏡は、紐を通して首からかけてある。筵の敷かれた水際に座して、晴は目を瞑った。かちこち。秒針が進むごとに、鼓動が早くなっていく。磐たちの立てた予測どおりに、本当に〈てふてふ〉は現れるだろうか。もし現われなかったら。現れても取り逃がしてしまったら。不安や焦燥が気泡のように生まれては消える。晴は深く息を吐き出した。


(翅)


 今、あいつはどこにいるんだろう。笑顔を残して、いなくなってしまった幼馴染。俺の冥婚の相手。好きな女の子。


(翅)


 来い。

 ここだ。

 俺はここにいる。


 頬を撫ぜる風を感じて目を開くと、にわかに水面がさざめき立った。空は翳り、端のほうから欠け始めた太陽はいまや影にのみこまれそうだ。かぼそく射した一条の光がてふてふ沼の昏い水面をなぞり、すっ、と途絶えた。


「〈てふてふ〉だ!」


 守役のひとりが叫ぶ。蛇ノ井が両手を複雑に組み合わせるのが見えた。〈てふてふ〉を捕える結界が今、網を広げているのだろう。皆まで見届けず、晴は首にかけた雲外鏡を引き寄せる。曇った鏡の表面に、霧が晴れるように蝶の影がよぎった。


 ――来た、〈てふてふ〉。


「俺は常野晴。この地の守役だ」


 立ち上がって頭上を仰ぎ、まずは名乗り。相手に対して、敬意を持って己の身を明かす。


(俺はここだ)


「あなたのなまえは」


(こたえろ)


「なまえは!」


(こたえろ)


「こたえろ、翅!」


 突風が吹きすさび、沼の水面があらぶる。おお、と守役たちがどよめいた。かざした鏡に歪んだ蝶影が映る。


「結界が……」


 ぱんっ


 〈てふてふ〉を縛っていた無数の糸が弾け飛ぶ。解き放たれた〈てふてふ〉が黒い水面に降り立つ。痛いくらいの静寂が落ちた。音もない。光もない。まっしろな場所。二対の翅を震わせ、昏い硝子質の複眼が晴を見た。


 おまえの、こわいもの、なあんだ?


 尋ねたあやかしに、晴は目を細める。


 俺がこわいのは。


 言い澱んで、それから口を開く。


 おまえ。

 おまえがいなくなってしまうこと。


「〈てふてふ〉があらぶっている。このままでは人的な被害が……。どうされますか、御寮官」

「仕方ないねえ。封じるよりほかにないか」


 蛇ノ井が袂から鏡を取り出す。それまで晴をじっとうかがっていた〈てふてふ〉がふいと身を翻した。


「待て!」


 〈てふてふ〉を追って、晴は沼の水際に足を踏み出す。


「晴くん!?」


 制止する蛇ノ井か誰かの声を聞いた気がした。けれど晴はためらうことなく水の中に飛び込ぶ。まるで足に何かが絡みついたみたいにぐんぐんと身体が水底へ引きずられていく。沼の深さから考えて、もうとっくに足がついてもよいはずなのに、さらに下へ、下へ。知らず伸ばした手が暗い水をかいた。

 ……どうなってるんだ。俺、どこに落ちていってるんだ。吐き出したあぶくが水面へのぼっていく。微かに差していたはずの光があっという間に遠のき、そして、あたりは完全な闇に閉ざされた。目を開いているのか閉じているのかもわからない。音も。声も。何も聞こえない。そのまま落ちて、落ちて、気付けば、晴はどこか柔らかな場所に身体を横たえていた。


「……どこだ、ここ」


 考えられるのは、〈かくしぎつね〉の男と同じように、〈てふてふ〉に取り込まれてしまったということだった。水辺にいるのか、尻のあたりが濡れて冷たい。

 地面だと思ったところへ手をつけると、ぐにゃりと指の先が腐葉土に沈むような感触があった。あたりは真っ暗で、自分が今どんな場所でどうしているかもわからない。


「はーねー!」


 とりあえず周囲を見回して叫んでみたが、何の返事も返らなかった。


「はーねー! この馬鹿! あほう! はやく出てこい! 時間がないんだよ!」


 翅を見つけるのは得意だった。あざらしのぬいぐるみを抱えて隠れた翅をいつも一番に見つけるのは晴だったから。けれどここには何の気配もない。こんな場所に本当に翅はいるのだろうか……。一抹の不安を振り払うように、晴は立ち上がった。


 翅を見つけて、早くここから出なくてはならない。


 それだけがある種の刷り込みのように、晴にはわかった。右も左もわからない暗闇を走る。いったい自分がどこに向かっているのか、あるいは同じ場所をぐるぐると回っているだけなのか、次第に晴にもわからなくなってくる。


 落ちてからどのくらいの時間が経ったかも謎だ。一時間なのか、一日なのか、もう日蝕は終わってしまったのか。だとすれば、晴もまた永遠にもとの世界に戻れなくなってしまったことになる。


「……ちがう」


 息を切らす自分の呼吸音がうるさい。頭に霞がかかったようで、だんだんと思考がまとまらなくなってきた。常闇と静寂の世界。何も感じない。感じられない。言い知れない恐怖が襲ってきて、ちがう、と晴は独語した。


「ちがう。まだ間に合う……」


 だけど、もうどこにもあいつ、いなかったらどうしよう。あいつをもう見つけられなかったら。弱音が次々噴き出して、足を止めそうになる。よろめいた足がもつれて、晴は泥濘に転んだ。四肢にまとわりつく泥はさっきより粘度を増して重たい。立ち上がるのが億劫になって、晴はその場に突っ伏した。もうやめたい、こんなこと。身体のどこかで悲鳴が上がる。こんな風に静寂に向けて声を投げかけ続けるのも、暗闇を凝視し続けるのもひどくつらいし、こわかった。


「どこ行っちゃったんだよあいつ……」


 泣き出しそうな声で呟いて、晴は頭だけを動かした。目を細めたところで、あたりには濃密な闇が続くばかりで、光はなく、何の音も聞こえない。けれど考えてみれば、いつもそうだったのだと思い直す。あちらのものが晴には見えない。聞こえない。そんな晴の手をいつも引いてくれたのは翅だった。泥濘に沈みかけていた手のひらを丸めて、こぶしを作る。


「俺はここにいる」


 かすれた息を吐き出して、晴は力の限りにこぶしを打ち付けた。


「ここにいる! 翅!」


 おまえなら、聞こえるはずだ。

 見つけ出せるはずだ、俺のこと。


「俺を見つけろ!!!」


 打ち付けたこぶしが水を跳ね上げる。つめたい、という声が暗がりからして、晴は瞬きをした。固めたこぶしにおずおずと温かな手のひらが触れる。あたたかな、ひとのぬくもりが。


「はるちゃん……?」


 記憶にあるものより、幼い声が晴に問いかける。


「ほんとうに、はるちゃん?」

「翅」


 すん、と鼻を鳴らした少女を、声を頼りに引き寄せる。小さな身体は晴の腕の中にすっぽりおさまった。なんだか急に涙がこみ上げそうになり、晴は目を瞑って少女のかぶりに頬を寄せる。ちいさい。それはまだ十二歳の、この沼に沈んだときの翅のようだった。


「おまえ、どこ行ってたんだよ……。探したじゃんか」

「はるちゃん」


 おぼつかなげに翅はきゅっと晴の衣を握り締めた。


「どうして? ここにいるのどうして……?」

「おまえが俺を呼んだんだろ」


 はるちゃん。

 はるちゃん、……はるちゃん。


「翅が?」


 たすけて――って。


「遅くなってごめん」


 暗闇のせいで、そのとき翅がどんな顔をしたのかは晴にはわからなかった。ただ少女が俯く気配だけがする。かえるぞ、と手を伸ばした晴に、翅はふるふると首を振った。


「かえらない。翅はかえらない」

「どうして?」

「お外はこわいことがたくさんあるもん。かなしいことがたくさんあったもん。翅、お外はきらい。お外なんかにかえりたくない」


 小さな身体が小刻みに震えている。晴は手探りで翅の泣き濡れた頬に手をあてた。つめたい。指先にふわりと睫毛が触れた。


「翅、もう何も見たくないよ」

「翅」

「もう何も聞きたくない」

「翅」


 少女はそれきり目も耳も閉ざしてしまったようだ。はね。呼んでもこたえなくなってしまった少女に息をつき、晴は額を寄せた。


「いいよ、じゃあ」


 額と額をくっつけたまま、晴も目を瞑る。瞼の下に果てのない深淵が広がっていた。まるでたったひとりでここに立っているような、そんな気分になる。なにも見えない、聞こえない。その感覚には覚えがあった。〈まろうど〉たちと対峙するときはいつもそう。自分とはちがう異界の客人。見えず、聞こえず、言葉も通じない。だけど、本当は〈まろうど〉だけじゃないんだ。おやじもそう。翅もそう。こんなに近くにいるのに、わからないことばかりだ。それはかなしくて、やるせなくて、とてもさみしいことのようにも思える。だけど。


「俺は常野晴。あなたのなまえは何ですか?」


 だけど、だから――。

 今、暗闇にきみの名を問う。


「聞かせて」


 きみを知りたいから。

 きみをわかりたいから。


「教えて。おまえのなまえ」


 触れたいから、きみに。ほんの少しでいい。すべてじゃなくっていい。あと少し、きみの心に近付けたらいいのにって。難解で、複雑で、まどろっこしくて繊細で、それでいてきっとほんとうは単純なきみの。


「翅」


 ふわりと睫毛が震えて、灰色の眸がひらかれる。頬にあてた手の甲を弾いて伝うあたたかな涙に、晴は目を細めた。


「はるちゃん。やくそく、して」


 翅もまた晴のほうを見つめているらしい。震える声がそっと囁き、小さな手のひらが晴の手の上に重ねられた。


「翅が次に目をひらいたら。いちばんに来て。いちばんに声を聞かせて。いちばんに名前を呼んで。かならず」

「――わかった」

「じゃあ、ゆびきりげんまんの約束ね」


 立てた小指を差し出されるのがわかった。そちらに手を向けると、指の背がこつんと触れあう。それを頼りに指を絡めた。暗闇のなか、絡めた指越しに翅はたぶん微笑った。

 せーの、で口を開く。


「ゆーびきりげんまん、」


 ……ほんとうは少しさみしい。


「うそついたら、」


 指きりを終えたら、またきみに会えなくなってしまいそうで。


「はりせんぼん、」


 きみの声をまたしばらく聞けなくなってしまいそうで。


「のーます」


 だけど、お別れは言わないよ。


「ゆび、きった!」


 きっとまた会えるから。


 ――開いた視界に飛び込んだ光は、まばゆかった。


「おい晴! 晴!」

「おやじ……?」


 自分を揺さぶる磐の顔を見上げて、晴は瞬きをする。めずらしい。おやじが焦っている顔なんて久しぶりに見た。


「ぎりぎりセーフだったね、晴くん」


 苦笑気味に蛇ノ井が肩をすくめ、空を仰ぐ。天から射し込む光のなか、飛び立つ蝶の姿が晴にも見えた気がした。


 こ、わ、い、も、の

 こわいもの、なあんだ?


 光に照らされて、蝶の姿がかゆらぐ。ひとときうつし世に顕れた〈てふてふ〉は、黄泉女神の眷属たる姿を取り戻し、また黄泉へと帰っていく。食の終わり。何かの祝福のように、金の鱗粉が舞って消えた。


「翅……?」


 腕のなかで眠る女の子に気付いて、晴は瞬きをする。淡い寝息を立てて、みどりごのように彼女は眠っている。触れると、少しつめたくて、だけどとてもあたたかい。引き寄せた少女に頬をくっつけ、晴はとうとう嗚咽をこぼした。


「おかえり」


 隣に立った蛇ノ井が晴の頭をくしゃくしゃとかき回す。てふてふ沼は今は明るく澄んで、晴れ渡った空の色を映していた。


「おかえり、常野守。翅ちゃん」

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