七章 日蝕(2)
しゅんしゅんとやかんが白い蒸気を上げている。急須に湯を注ぎ、残りで湯呑茶碗を温める。しばらく茶葉を寝かせてから急須を傾けると、ほうじ茶のまろやかな香りがくゆった。四人分のそれを居間へ運ぶ。
「おにいちゃん、今日は家族せいぞろいだね」
あざらしのぬいぐるみを抱えた空が、磐には聞こえないようにそっと耳打ちした。これでもいちおう気を使っているらしい。
晴とちがって空は「おとうさん」が帰ってきたことが素直にうれしいようだ。頬を染めて、磐の隣のこたつ布団に入った。晴も磐の対面に座る。ちゃぶ台には、磐がこれまでつけていたノートが数十冊置かれている。
「まず現状を整理する」
湯呑に口をつけて、磐が言った。
「五年前、翅ちゃんは結子さんにてふてふ沼に突き落とされた。そのとき、翅ちゃんの呼びかけに応えて目覚めたのが〈てふてふ〉。百年以上前に、当時の常野守が水底に封じたあやかしだ。〈てふてふ〉は無差別にひとを襲っていたのではなく、自分を呼び覚ました翅ちゃんを追いかけて各地に出没していた。ここまではいいな?」
「ひとつわからないことがあるんだけど……」
おずおずと晴は口を開いた。
「〈てふてふ〉が翅を狙っていたんだとしたら、どうして今まで何もなかったんだろう。翅は神さまがいる間は、〈てふてふ〉は常野に近づけなかったって言ってたけど、神議りは毎年あるわけだし、十一月三十日の夜は毎年かまど神さんも常野女神さんもいなかったじゃんか。五年もあれば、一度くらいここに現れてもおかしくなかったと思うんだけど」
「おそらく、時期の問題だ」
その点については磐も一度考えたらしい。ノートを開いて、〈てふてふ〉の出没場所と日にちを示す。
京都・鴨川出町橋、八月四日。
東京・神保町、十一月一日。
東京・常野、十一月三十日。
「なんだか月のはじめと終わりが多いんだねえ」
みかんを剥いていた空がのんびりと言った。
「ああ。ここに月の満ち欠けも加える」
京都・鴨川出町橋、八月四日。新月。
東京・神保町、十一月一日。新月。
東京・常野、十一月三十日。新月。
「新月の日……?」
「俺も気付いたのは数日前だ。古い記録だと、日にちまで正確に載っているものが少なくて当たれなかった。〈てふてふ〉はおそらく新月のみ出没するあやかしだったのだろう。十一月三十日が新月だったのは、過去五年では今年だけ。これがあの日〈てふてふ〉が翅ちゃんの前に現れた理由だ。さらに、〈てふてふ〉自体の発生についてだが――」
百八年前、常野。皆既日蝕。
今年、常野。皆既日蝕。
「今の〈てふてふ〉が現れたのは百八年前。日蝕が〈てふてふ〉の発生に関わっているらしいことは前にも言ったな?」
神御寮会議で磐が説明していたことだ。あのときは可能性のひとつ、と言っていたが、磐いわく数百年に及ぶ常野の記録を遡り、〈てふてふ〉らしきあやかしが出現したときと、さまざまな天体、気象現象を組み合わせた結果、日蝕との関連性が認められたという。
「たとえば山の神は春とともに桜の神として田に降り立ち、秋になるとまた山へ戻っていくという話があるだろう。〈てふてふ〉は一説には黄泉女神の眷属が顕現した姿ともいうが……、日蝕の発生とともに蝶に転じて現れ、次の日蝕とともに消えて黄泉に帰る。それを繰り返しているように見えるんだ」
「どうして日蝕なんだろうな?」
尋ねた照に、それはわかりません、と磐は首をすくめる。
「黄泉は光に対して闇の世界、ゆえに光と闇が反転する日蝕を契機にしているのでは、という仮説も成り立ちますが、俺の推測の域を出ないので。――とにかく」
ノートには〈てふてふ〉の出没が時間軸でまとめられている。その右端を磐が指した。次の新月、十二月三十日。
「これは皆既日食の日でもある。蛇ノ井たちにはすでに話したが、十二月三十日、おそらく〈てふてふ〉は蝶の姿から、もとの眷属の姿に転じて黄泉にかえる。その際、今一度姿を現す可能性が高い」
「翅をすくえるかもしれないってこと?」
「可能性の話だ」
感情を交えない声で言って、磐は別のノートを開いた。
「出没場所は十中八九、てふてふ沼だ。てふてふ沼から発生した以上、かえるときも必ずてふてふ沼を使う。多くのあやかしの特性だし、過去の記録を見てもすべてそのとおりになっている」
「てふてふ沼に十二月三十日……」
「すでに〈てふてふ〉はひとを襲うあやかしではなくなっている。放っておけば消え去るわけだし、我々神御寮としてはこのまま見送るということもできるが――」
「おやじ!」
「ひとがふたり飲み込まれている以上、放置するわけにもいかないだろう」
肩をすくめ、磐はノートを閉じた。しかしよう、と呟く照はどことなく不満げだ。
「ここまで調べているならよ、こうなる前にもうちょっとどうにか……」
「皆既日蝕のある今年、〈てふてふ〉が何らかの動きを見せる可能性が高いとは思っていましたが、時期まではわかりませんでした。京都の出没は完全にイレギュラーだったんです。チームを立ち上げて予測を立て直している最中に俺が〈てふてふ〉に襲われてしまいましたし……。自分を呼び覚ました翅ちゃんを〈てふてふ〉がずっと狙っていたというのは正直、俺も考えが至りませんでした」
難しいはなしに飽きてしまったらしい。最初はふんふんと相槌を打ってみせていた空が天板に寄りかかってあくびをする。その目がぱちぱちと瞬いた。幼い顔にみるまに喜色がよぎって、「蛇さん!」と立ち上がる。半開きの障子戸から、ひらりと手を振って顔をのぞかせたのは、蛇ノ井とみどりちゃんだ。
「はいはーい、家族団らん中にすいませんねえ。ドアが開いていたから、勝手に中に入りましたよ。こんにちは」
「わあい、蛇さん、こんにちは」
蛇ノ井にやたらと懐いている空は、男の腰に飛びついて腕を回した。空の頭を骸骨めいた手で撫ぜて、蛇ノ井がこたつに置いてあったみかんを摘まむ。
「蛇ノ井。身体はもういいのか」
「さっきまで泣きべそかいてた少年に心配されたくないねえ。ぼちぼちだよ」
蛇ノ井は皮肉っぽく笑った。
「話は外で聞かせてもらったよ。まあ、神御寮内で議論したのとほぼ同じではあったけどね」
磐は蛇ノ井たちにも同様の説明をしていたらしい。こたつに入り込んだ蛇ノ井がみかんを咀嚼しながら言った。
「日蝕当日は我々が〈てふてふ〉を捕えるための結界を張る。もともとそのために準備を進めていたものだからねえ。〈てふてふ〉を一度捕え、のみこんだ人間たちを返させたうえで解放する。あとは〈てふてふ〉が黄泉にかえるのを見送るだけだ。我々とて、〈まろうど〉を不当に傷つけたくはないからね。それと――」
「あの!」
澱みなく話す蛇ノ井の前に割って入る。きちんと正座をし直して、晴は男を見上げた。
「俺にもできること、ありますか?」
瞬きをした蛇ノ井が晴を見つめる。晴にはもう翅との冥婚のつながりはない。雲外鏡は割れてしまって、晴の目や耳の役割をしていた翅もいない。常野守。その肩書があるだけだ。だけど――。
「俺も何かしたいんです。俺にできないことは多いけど、翅を取り返したいって思うから」
「〈てふてふ〉を起こしたのは五年前の翅ちゃんだ。おそらく〈てふてふ〉を捕まえる最後の鍵は翅ちゃんにあると思う。そしてあの子が呼びかけに応じるのは、たぶんおまえだけだろう」
蛇ノ井に代わって、不承不承といった様子で磐が息を吐き出した。
「そうでなくとも、ここは常野の地。ひととあやかしの境を歪めず、双方を守るのは常野守の仕事だ。晴」
促され差し出した手の上に、磐が雲外鏡を乗せる。晴が持っていた雲外鏡は砕けて使い物にならなくなってしまった。これは磐個人が持っているものだろう。
「空木に直させたものだ。貸す。どうせこんな身体じゃ俺には使えん。おまえがやるんだ、常野守」
使いこまれた丸鏡が晴の手におさまる。その重みに背筋が張る心地がした。両手で鏡を受け取って、晴はこうべを垂れる。
「ありがとう。常野……御寮官」




