七章 日蝕(1)
出雲での神議りを経て、常野女神はつつがなく常野神社へ戻った。〈てふてふ〉が消息を絶って三週間。女神に冬至の祝詞をあげると、晴は境内にうっすら積もった雪を眺める。いつもより早くに降った初雪だった。
「こんにちは」
境内の雪かきをしていると、ブルーグレイのスーツに品のよさそうなロングコートを羽織った男が会釈をした。その姿に見覚えがあって、晴は瞬きをする。
「水元さん」
「お久しぶりです。足を運ぶのが遅くなってしまってすいません」
文部省の水元さんからは数日前に連絡をもらっていた。〈てふてふ〉に関する報告書をまとめる必要があるので、一度常野にうかがいたいという話だった。もちろん晴のほうも断る理由はない。文部省宗務課は〈てふてふ〉調査に関する神御寮への依頼元であったし、個人的にも京都で水元さんにはお世話になった。
「常野くんもお怪我をされたって聞きましたけど、もう大丈夫なんですか?」
晴の右手に巻かれた包帯をそれとなく見て、水元さんが尋ねる。ああ、と晴は苦笑して手を振った。
「これは俺が鏡で切っちゃっただけで。抜糸も済んだし、平気です」
「そうですか……。今日は照さんは?」
「おやじのところに行ってます。いったん外出許可が出たみたいで。たぶんうちには帰ってこないんだろうけど」
話しながら、てふてふ沼へ水元さんを案内する。最後に〈てふてふ〉がこの場所に出没してから三週間が経つ。直後は神御寮の面々が訪ねてきて慌ただしかったけど、今はすっかり元に戻っていた。氷は張っていないものの、沼のほとりも薄く雪がかぶったせいで、黒い水面が際立って見える。
「写真を撮っても?」
「どうぞ」
水元さんは取り出したデジカメで何枚かシャッターを切った。さほど大きくはない沼のほとりを歩いて、ノートに記録を書きつけていく。
「満月の夜に、一度神御寮の出動があったと聞きましたが……」
「はい。ただやっぱり〈てふてふ〉はここには現れませんでした」
翅が〈さにわ〉として最初に予言した満月の日。念のため、神御寮の御寮官たちが結界を張って待っていたが、〈てふてふ〉が常野に現れることはなかった。やはりあのとき翅は嘘をついていたのだ。そして、同時に思い知る。〈てふてふ〉は自分を呼び覚ました翅を取り込んだことで、もうこの地をさまよう必要はなくなったのだと。
「いろいろ……あったのでしょうね」
大変でしたね、とか、苦しかったですね、という慰めを水元さんはかけなかった。そのことに少しだけ救われる気持ちがして、晴は顎を引く。いくつかの調査を済ますと、水元さんは丁寧に礼を述べて帰っていった。バス停まで水元さんを送った晴は、ひとりてふてふ沼に向かう。ここにひとりで下りるのも、あの日ぶりだった。
凪いだ水面を見渡して、晴は右手に巻かれた包帯をほどいた。破片で深く切ったせいで、何針か縫う怪我になってしまったけれど、それも今はもう薄い傷跡が残るくらいのものになった。こぶしを握り締めて、奥歯を噛む。
どうしてだろう。
いつもそうだった。俺は大丈夫だって、平気なんだって、言い聞かせて日々を過ごすのに、急にどうしてか耐えられないときがやってくる。うまく歩けない。立つことができない。そんなとき、隣で手を繋いでくれた女の子は、もういない。
「う……あ……」
水際に膝をついて、うずくまる。五年前には助けられなかった女の子。もう二度とその手を離したりしないって、そう決めていたのに。
『はるちゃん』
春風のようにわらう女の子の声を、晴はちゃんと聞いていなかった。ちゃんと見ていなかった。笑顔の向こうで、翅が何を考えて、何に苦しんでいたのかに気付けないままでいた。さいごまで。
左のこぶしに丸い水滴が落ちる。その熱さに晴はくしゃりと顔を歪め、そして振り切れたように立ち上がった。まだ雪の残る道を走る。息を切らして拝殿に上がると、晴は本殿に鎮座する鏡の前に立った。
「常野此花女神」
呼ばう。常野を守る花女神の名を。
「おねがいだ。あいつともう一度縁をつないでくれ」
女神の眷属は一度晴の願いを気まぐれに聞いてくれた。もう一度なんて虫がいいのはわかっている。だけど、それでも、どうしても諦めきれなかった。晴は冷えた床に身を投げ出して額づく。
「たのむ! 失いたくないんだ、あいつをこのまま失くしてしまいたくないんだ、翅はまだ――……」
まだ何も伝えられてない。あいつが大好きな女の子だってことも、ずっとずっとそうだったんだってことも、これから先もそうなんだってことも。なにも。
「なあ、聞こえてるんだろ。たのむから……」
伸ばした指先を無関心そうに眺める女の幻影が晴には見えた。桜紋の千早を纏い、面に白布をかけた女は鏡のそばで膝を組み、頬杖をついて晴を見下ろしている。冷たく嗤う声が聞こえた気がした。女がゆっくり人差し指を立てる。
――一度きり。
女神が結ぶ縁は一度きりだよ。少年。
「神前でみっともない。何をしてるんだ、おまえは」
鋭い声に叱咤され、晴はのろのろと顔を上げた。照に付き添われるようにして入口に立つ長身をみとめ、目を瞠らせる。
「おやじ……!?」
「言うことに事欠き、しまいに神頼みか。安易な神頼みは、神をないがしろにしていることと同義だぞ」
松葉杖をついた磐は、前に見たときよりも頬が削げて顔色が悪い。けれど泰然とした口ぶりや背筋を張ったたたずまいは変わらなかった。しばらく呆けてしまったあと、羞恥や情けなさがみるみる押し寄せてきて、なんだよ、と晴は唇を噛む。
「今さら何だよ! 俺が何したって勝手だろ!?」
「〈てふてふ〉を捕え損ねて鏡を割った奴がよく言えたもんだな」
「おやじだって割っただろ!」
「俺のは事故だ。おまえは状況判断を誤って無策で突っ込んで結果翅ちゃんをなくして鏡を割ったんだ」
「……っだまれ!」
両手が磐の襟をつかむ。おい晴、と横から照が止めようとしたが、磐のほうが反対につかみ返した。
「何だ。ちがうって言うなら言い返してみろ」
握り締めた手が白くなって震える。悔しい。悔しい。悔しかった。そうじゃないって言えない自分が。こんな子どもじみた癇癪しか起こせない自分が。
顔を歪めて、そうだよ、と晴は呟く。
「そうだよ、俺がわるいよ! おやじに言われなくたってわかってる。俺が気付けなかったんだ、ずっと隣にいたのにあいつの嘘、見抜けなかったんだ、俺がそうさせたんだ、俺が……!」
もっと俺に力があったら。
もっともっと俺が強かったら。
「俺がよわいから!〈てふてふ〉捕まえられなかったんだよ!!!」
大好きな女の子を、翅をうしなわずに済んだのか。
「馬鹿もの!」
ぐっと襟を引き寄せて拳骨を落とされる。反動でよろけた磐を照が慌てて支えた。呻いた晴をさらにつかみ上げて磐は眉間を寄せる。強張ったその表情を見て晴は瞬きをした。怒っていると思っていた。叱られているのだと、なじられているのだと思っていた。どうして磐は苦しげに頬を歪めているんだろう。
「磐くん」
照が磐の腕をつかむ。肩を怒らせ、磐は荒く息を吐き出した。しょうがねえなあ、と呟き、照が杖を握るのと反対の手で磐の頭をごつん!と殴る。磐が晴に落としたのとたがわない、容赦のない拳骨だった。
「……お、お義父さん?」
「ったく素直じゃねえ息子と孫を持って、困ったもんだ。一言、てめえが心配なんだって言うだけなのによ」
肩をすくめ、照はこぶしに息を吹きかける。
「悪いな、磐くん。口止めされていたが、もういい加減言っちまうぞ。晴。磐くんはな、ずっと〈てふてふ〉を追いかけてたんだ。息子の冥婚を解くためにな」
「俺……?」
眉をひそめた晴に、照がうなずく。
「この先ずっと翅ちゃんくっつけて生活するわけにはいかないだろ? 加えて左手の感覚まで失くしちまって……。おまえは翅ちゃんのために〈てふてふ〉を追っていたが、磐くんはおまえのために〈てふてふ〉を追っていたんだ。この五年、ずっとな」
空木さんが返してくれた磐の荷物。〈てふてふ〉について書かれたノートをめくっていて見つけたものがある。ページのあいだに挟まっていた古い家族写真。空がまだ幼くて、母が元気だったあの頃の。
「頑固でひとの話聞かねえで突っ走って。似た者同士なんだよ、おまえらは」
「お義父さん。もういいでしょう」
ばつが悪そうに呟き、磐は松葉杖の向きを変えた。拝殿に入るなり怒鳴りつけてきたから、ついいつものように言い返してしまったけれど、磐は病み上がりもいいところなのだった。右脚にはギプスが嵌められて、よく見れば、服の裾からも包帯がのぞいている。いたたまれなさがこみ上げて、晴は俯いた。ごめん……。小さな声で謝った。
「晴」
磐は柱の前に背を預けると、こちらに鋭い眼差しを寄越す。
「五年間。〈てふてふ〉について調べてわかったことがいくつかある。聞くか」
「え、と、はい」
気迫に押されてうなずくと、磐は息をついた。本殿のほうをちらりとうかがう。
「出るか、ひとまず」
拝殿との間に御簾をかけて隔てた本殿は、常野女神の依代である丸鏡が鎮座している。
「神前で喧嘩をされても、女神の気が休まらないだろう。お義父さん。常野の敷居を跨いでもいいですか」
「……こそこそと帰ってきていた奴がよく言う」
苦笑し、照は鏡に向かって詫びるように一礼をした。




