六章 冥婚の花嫁(4)
「ごめんね、翅もすっかり忘れていたんだ。五年前、〈てふてふ〉さんと何を約束したのか。あのとき、わたしが何を願ったのか。〈てふてふ〉さんはねえ、ずっと翅を探していただけなんだよ」
ばらばらの出没地。
はじめは、京都。
「翅の代わりに狐憑きさんがのみこまれてしまった。そのあとすぐにたくさんひとがやってきたから、おびえて、逃げてしまったけれど」
次に神御寮。
「翅がおじさんに翅の指貫を渡してしまったせい……。でも指貫をのみこんだら、消えたでしょう?」
そして常野。
「常野女神さんがいる間は、〈てふてふ〉さんもここへは近づけなかったの。でも今日は女神さんもお留守だから……」
「……なんでだよ」
形容しがたいさまざまな気持ちがこみ上げて、晴は歯噛みした。
「なんでそこまでわかって、おまえ、ここに」
「もう終わりにする」
翅の色素の薄い目が晴を見た。
「言ったでしょう。翅が約束を忘れていたせいなのだって。あのとき。沼に落ちるとき。わたしが願ったの」
はるちゃん。
はるちゃん、……はるちゃん。
「たすけて、って」
たすけて。
「誰でもよかったの。誰もいなかったの。〈てふてふ〉さんだけが翅にこたえて、翅をたすけてくれた」
あんたなんか。
晴の瞼裏に、とん、と母親に背を押された白いワンピースの少女がよぎる。
あんたなんか、生まれなければよかったのに――……。
暗い水面にワンピースの白い襞が魚のひれみたいに広がる。つめたい。くるしい。たすけて。だれか、たすけて――。水面に必死に伸ばしていた指先が動きを止める。ふわりと水をのぼっていくあぶくがひとつ。ぱちん、と弾けたそのときに、〈てふてふ〉が目を覚ました。
――おまえの、こわいもの、なあんだ?
目覚めた〈てふてふ〉に、翅は願ったのだろう。たすけて、と。〈てふてふ〉はこたえた。翅の「こわいもの」を取り除いてくれた。翅の「おかあさん」、つまり結子さんを。そして〈てふてふ〉は翅に要求する。「こわいもの」を取り除いた代償を。翅自身を。
「だからって!」
気付けば、腫らした目から涙が伝っていた。それを拭いもせずに晴は叫ぶ。
「もうおまえが〈てふてふ〉に食われる必要はないだろ! 約束ってなんだよ。願ったってなんなんだよ。おまえは助けてって言っただけじゃんか。それの何がわるいって言うんだよ!」
本当はわかっている。
誰でもよかったわけじゃない。
あのとき、翅が呼んでいたのは。たすけを求めていたのは。
――俺だ。
俺がこたえられなかった。俺が間に合わなかった。だから、誰もいなくなってしまったんだ。こいつに手を差し伸べるのはあやかし以外何も。
「じゃあ、どうすればいいの……?」
泣き出しそうな顔で翅は晴を見た。
「翅のせいなのに、〈てふてふ〉さんを起こしてしまったのは翅なのに、おかあさんだって翅のせいで死んでしまったのに、どうすればいいのお……っ」
白い頬を幾筋も涙が伝う。駄々をこねるようにかぶりを振って、翅はつたない嗚咽を上げた。だって、わからない。わからない。もうわからないよ……。咽喉を震わせる少女の手を引き寄せ、晴は雲外鏡をつかんだ。
「――俺が捕まえる」
「はるちゃん?」
「俺が〈てふてふ〉を捕まえる。おまえを食わせたりなんかしない」
「だめだよ、はるちゃ」
てふてふてふてふてふ
話しているさなか、背後にぞっと気配を感じて、晴は顔を跳ね上げた。昏い水面がまるく波紋を描いていた。〈てふてふ〉が今どこにいるのか、晴には見えない。けれど、翅に向かってきているというならやりようがある。雲外鏡を正面にかざすと、端に蝶の触覚がよぎった。鏡の位置を直して、全体を映すようにする。ぐん、ととたんに鏡に重い負荷がかかった。引きずられそうになるのを何とか踏みとどまって、晴は虚空を睨み据える。
「――俺は常野晴。今代の常野守だ」
まずは名乗り。
敬意をもってこちらから名を明かす。
そして。
「あなたのなまえは!」
名を問う。
相手の本性をあらわす名を。
鏡の表面に罅が入った。舌打ちをして、晴は小刻みに震え始めた鏡の端に手を添える。いまや雨は先を見通せないほどの豪雨に変わっていた。風に巻き上げられた沼の水が晴の足元をすくう。天地があらぶるかのようだった。
「なまえは!」
鏡面から黒い影が消えた。
背筋を冷気が撫ぜる。反射的にそちらに鏡を向けようとするが――、
ぱんっ
無数の亀裂を走らせ、鏡が砕け散った。ふちに添えていた晴の指先や頬を切って、破片が四方に散らばる。
「はるちゃん、もういい。もういいよ!」
「よくなんかない!!!」
手の中にわずかに残った破片と鏡の台座を握り締めて、晴は怒声を上げた。
「いいわけがあるか! おまえが消えていいわけがあるか! もうあんな思い、二度としたくないんだよ!」
握り締めた破片がいびつな蝶影を映し出す。その上を幾筋も血が伝った。手が焼けるように痛い。はるちゃん。はるちゃん。翅が左手にしがみついて泣いている。もういいよ。もういい。もうやめて。おねがい、おねがい、おねがい。もうやめて。
こ、わ、い、も、の
ぷつん、と翅の声が途切れるのと同時に、別の声が晴の内側で響く。気付けば、まっしろい場所に晴の身体は投げ出されていた。音もない。何もない。からっぽの場所。硝子質の複眼がすぐそばで晴を見つめている。
おまえの、こわいもの、なあんだ?
「はるちゃん!」
忍び寄った蝶々の肢体に、翅がしがみつく。
「だめ! はるちゃんはだめ。はるちゃんは連れて行っちゃだめ」
白い腕を胴に絡め、糸状の触覚に頬を擦り寄せる。だめだと繰り返す翅に、〈てふてふ〉は一度動きを止め、二対の透明な翅を震わせた。ぱらぱらと金の鱗粉が舞う。〈てふてふ〉に腕を回したまま、乱れた黒髪を押さえて翅がこちらを振り返った。はるちゃん。困ったように眉根を寄せて、彼女は淡くわらった。
「ごめんね。バイバイ」
「は――」
伸ばした手が空を切る。左手に絡んでいた糸がほろほろとほどけていくのを感じた。それを引き寄せようとするのに、糸はほどけて、ほどけて、しまいには何もなくなってしまった。
*
微かな水音がしている。葉裏に宿った雫が時折滑り落ちるような、規則的な水音。
「――……る、……はる、晴!」
強く肩を揺さぶられ、晴はうっすら目を開いた。ぼやけた視界いっぱいに照と空の顔が現れる。
「うわっ」
「起きたか……」
愁眉を開いて、照がほっと息をついた。
「俺……」
てふてふ沼のほとりに晴は倒れていたようだ。半身を起こそうとする晴を空が手伝ってくれる。水浴びをしたあとみたいに、コートが沼の水で濡れていた。おぼつかない記憶をたどって、あたりを見回す。朝陽が射し込み始めていた。雨は上がり、水面には嘘みたいな静けさが戻っている。
「帰ってきてみれば、おまえはいねえし、空は泣いているし、どうしようかと思ったぞ。鏡だって割れてるしよ」
「じいちゃん、翅は?」
血まみれになった手の中には、雲外鏡の破片が固く握られていた。それで直前までの記憶が蘇り、晴は照に詰め寄る。
「翅は? どこにいる?」
「いや、翅ちゃんは見かけなかったが……」
立ち上がろうとしてよろける。おいおい、と腕を差し出してきた照を無意識のうちに左手でつかみ、晴は瞬きをした。
「嘘だろ……」
晴の左手は。
あちらのものに触れられる代わりに、こちらのものを感じ取ることができない。翅と冥婚のつながりを持ったときにそうなった。
それが今、普通に動く。握った照の腕の固さや少し高い体温、糊の張った作務衣の感触、こちら側のものを当たり前のように感じ取ることができる。
「……翅」
左手を握り締めて俯く。常野女神が結んだ冥婚のつながりは、いまや途切れて、なくなってしまっていた。




